5月の母の日を控えて、様々な階層の女性達の人生模様を描いた群像劇。パンフレットを見ると知らないフランスの女優ばかりで、主役級の女優オドレイ・フルーロが大統領を演じているという解説を見ると、実に近未来的なイメージが湧き起こるので面白いだろうと観てみたが、思っていたよりは退屈だった。映画全体の2/3程は退屈。
これはおそらく筆者が男性だからだろうか、メインの登場人物は女性ばかりで、母になることへの不安や、思春期を迎えた子供と上手くコミュニケーションが取れない母の焦燥、認知症になりかけている母に対する三姉妹の様々な感情、電話に出ようとしない恋人の子供を身籠もった若い女性、子供のためにパリに出て売春している娼婦の中国人などが描かれているが、生理学的に女性にしか抱えることの出来ない問題とそれに伴う感情が映画の中でセリフとなって噴出していたから、共感しづらいところがあったのが原因だろう。
一方で、子供や母親という生き物に対して並々ならぬ嫌悪感を抱いている独身の大学教授ナタリーの感情はどことなく理解できた。映画が始まってしばらくしてから、バスに乗っている子供が「停車します」のボタンを押したいと母親にせがむ姿を尻目に、先にボタンを押して子供を泣かすという女性が出てくるが、映画も中盤以降にさしかかり、レストランで会食しているシーンで、或る作品に関して乳児を抱えた女性とその知り合いらしき女性の間で議論が起こった後に、乳児のお尻を拭いたり乳房を出して母乳を与えている女性に対して先ほど口喧嘩した女性が自分も片方の乳房を出して周りを驚かせてまた一悶着となるシーンがある。礼儀を知らないと非難する女性に対し、会食の場で授乳したアンタこそ礼儀知らずと反論したり母親だから偉い何でも許されると思っている平気でベビーカーで歩道の邪魔をしてと怒りをぶちまけてレストランを退席するのだが、なるほど少し心当たりがあるなと子供のいないナタリーに共感したのだった。ベビーカー問題に関しては日本でも度々迷惑だとか邪魔だとか取り沙汰されているが、それと同質の感情が女のわめき散らすシーンからも読み取れたのだが、おそらくこの女性、バスの中で子供に嫌がらせをした女性と同じ人ではないだろうかと気づくのに少し時間がかかった。
というのも映画の冒頭から、上述したような様々な階層の女性達が次から次へと走馬灯のように出てくるので、一体誰が誰なのかサッパリ把握できない。パンフレットを事前に見たが、それでも分かりづらい。母になった大統領を筆頭に、独身の大学教授、シングルマザーのキャリアウーマン、過去の母親との関係のトラウマから養子を取ろうとしている小児科医、この3人は姉妹で認知症が進行している母に頭を悩ませている。他にも他の登場人物達よりも若い花屋の娘、最初は日本人に見えた中国人売春婦、病気の舞台女優。映画が終わってからパンフレットを読んで、あぁこの人は大学教授で、あの中国人は息子の学費のためにわざわざフランスまで出稼ぎで売春しに来ていて・・・、と把握できるのだが、映画内では一々解説されておらず、大学の授業か何かのセミナーのような暗い教室でスライドを流しながら母の日について解説したり、映画の終盤でパソコンのビデオ会話を使って息子と中国語で会話をして、パリの露天で見つけたぬいぐるみを息子が嬉しそうに抱いている画面が流れているが、なぜ売春しているのかはそれまでセリフがなかったから分からなかったりと、全員の登場人物のバックグラウンドを把握しづらかった。
やや退屈気味な内容で突出して面白かったのは、度々出てくる大学教授ナタリーの母の日に関する講釈だ。母の日の起源は南北戦争にまで遡る。南北戦争時に両軍の負傷者に対して献身的に看護したアン・リーヴス・ジャーヴィスに対して、兵士たちの妻や母親らから感謝の手紙が届く。1905年にアン・リーヴスの死をきっかけにそれらの手紙を読んだ娘が、母に対して感謝する日を設けようと創設活動に尽力して出来たのが「母の日」だった。ここで、その「母の日」の創設者であるアンナ・ジャーヴィスの写真がスライドで出てくる。ナタリーはなぜか憎々しげに話を続けるが、その後でこの女性こそが母の日を創設して、母の日を潰そうとした人物だと皮肉交じりに紹介される。というのも母の日にレストランに赴くと「母の日サラダ」という料理があることを目の当たりにして、母に感謝するために創設した母の日が商業主義に毒されてしまったことに怒っていたのだった。彼女はその後貧困の内に病院で亡くなるが、その費用はカーネーションの売上げなどで母の日の恩恵を受けていた花屋たちがこっそりと出していたという。病気で亡くなったとのことだが、当時は女性がこうして表だって活動すること自体が白い目で見られていて精神病と見なされていたのだった。
その母の日が第一次大戦時にジャズと共にアメリカから輸入されることになったのが、フランスで母の日が広まるきっかけだったが、フランスの母の日は日本人が想像している母の日よりも結構盛大らしく、家電製品を購入するのに迷うというセリフもあった。一方で小学校で母親を集めた懇談会では、現代は様々な家庭環境の子供達がいるから母の日関連の行事はやらないと黒人の先生が宣言すると、他の母親たちから伝統的なイベントを中止する事に強い反対の声が上がるなどしているシーンもあり、全体を通してこの映画を観ていると、めまぐるしくぶつかり合う価値観のるつぼを覗き込んでいるような揺り動かしに襲われた。女性だけではなく、男性も少しばかりではあるが取り上げられている。花屋の主人はゲイでチェリスト(?)と付き合っている。最近ニュースにもなっている現代社会の最先端に位置する多様な人生観を反映しているかのようでもあった。
この映画のメインの登場人物である女性の職業が大統領ということ自体が、近未来的な新しい価値観を表出しているようにも感じられる。女性の大統領といえば、現代ではドイツのメルケル首相や、イギリスのメイ首相などが挙げられるが、映画の中の女性大統領は母親になったばかりで、生まれたばかりの玉のように可愛い赤ん坊を官邸内の秘書らしき老人に預けている。職務の途中に抜け出してお尻を拭いたりおむつを替えたりするが、赤ん坊はとても幸せそうな笑顔だ。途中で秘書の老人に変わらせるが、髭面にがっしりとした面構えの彼女の夫も映画の後半で出てきて彼女を献身的にサポートしている。日本でも地方の市議会で女性議員が議場に乳児を連れてきたことがニュースになり随分顰蹙を買ったが、子育て問題を考えるためのパフォーマンスとして最良だったのではないかと今になって振り返ってみるに思う。議会という政治の世界はまだまだ男社会なのではないだろうかという疑念が湧くと共に、映画の中で女性大統領が職務を抜け出して乳児の面倒を見ている姿は、近い将来に当たり前となる社会の姿なのではないかとその萌芽を感じ取った。しかしこの女性大統領も母と大統領という職務の両立に悩んでいる。
様々な階層の女性達が出てくるが、彼女たちは或るシーンですれ違ったりもする。テレビ番組で女性大統領にインタビューするシングルマザーのキャリアウーマン、女性大統領の乗るハイヤーが中国人の売春婦とすれ違い、お互い目が合うなど。
エンドロールでは、役者やスタッフの親子の姿も流されていた。どうもラストシーンはスローモーションや老婆のスカイダイビング等のシーンが盛り込まれて感動を催させようと鼻に着くような感じがしないでもなかったが、エンドロールを観ると和気藹々として終わっていたのが種明かし風で良かった。2/3程は退屈だったが(平日にしては良い客入りだったが、途中で前列のおじいさんがひとり抜け出した)、その他のシーンでは観るべきものがあった。
映画のラストで、認知症が進行している母親が豪華なレストランで3人の姉妹と会食しているシーンがある。銀色のスプーンでデザートをゆっくりと掬っては食べ、もう一つ頂きたいわとウエイターに注文する。最初は無理だと断るが、厨房に余っていないか聞いてみますと請け合う。良い場所だけれど老人が多いわねと母親は口にする。そしてまたスプーンでデザートを掬って食べ始める。3人の姉妹達は順々に理由を付けて席から離れていく。養子を引き取りに行かなければならないと言って最後に小児科医のイザベルが席を立ち、年老いた母親は1人でデザートを食べ続ける。やがて男性がやって来て、施設を案内する為に母親を立ち上がらせて、廊下をぐるりと回ると2人は階段を降りていく。背後にはモーツァルトの『きらきら星』が静かに弱々しく、感傷的に流れている。この映画の一番の見所のシーンだった。