ダンケルク – 写実主義文学『感情教育』との共通点

ダンケルク

予想していたよりもストーリーは淡々と進む。中盤にさしかかったところで何か大きな起伏があるかと思ったが、普通の戦場のシーンをリアリズムに徹して描いている趣がある。クリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』を観ていて、余りに淡泊な構成にこの映画は何を狙っているのだろうかと不思議な気分に取り憑かれた。

第二次世界大戦を扱った映画はたくさんある。真珠湾攻撃をテーマにした日米合作の名作『トラ・トラ・トラ!』、同じく真珠湾攻撃を主にアメリカ側の視点から扱っているがハリウッド映画の悪い部分が如実に目立った『パール・ハーバー』、ノルマンディー上陸作戦を描いた『史上最大の作戦』、その他ナチス絡みの人道主義的映画を上げると切りが無いが、どうもそれらの映画とは趣を異にする。本作は第二次大戦初期にナチスドイツの電撃戦により仏海岸に追い詰められた英仏連合軍40万人が、民間船を総動員させたダイナモ作戦の発動により英国に撤退するまでの一部始終を描いている。

一部始終と形容したのは、どうも他の映画と違い、ダイナモ作戦の全容を俯瞰的に扱っているわけではないからだ。神の視点ではなく、戦場の一兵卒の視点、もしくは戦争で息子を亡くした民間の小さな遊覧船の1船長の視点、また英国の名機スピットファイヤーのパイロットの視点から、戦争の実際の情景を戦争映画にありがちなダイナミックなBGMも奇を衒った挿話も無しに淡々と描いている。ダイナモ作戦と連動していたカレーでの味方部隊を犠牲にした陽動作戦もゲイリー・オールドマン主演『ウィンストンチャーチル(原題:Darkest Hour)』では描かれていたが、『ダンケルク』では省略されている。この映画はフランス海岸のダンケルクの兵士達の模様に焦点を絞って描かれている点から、ダンケルク撤退作戦全体を丹念に描くという意図は初めから放棄されているようにも窺える。史上最大の撤退作戦そのものを称えるというよりも、戦場で起こりえる人間の何気ない行動や心理に焦点が当てられている。

冒頭はイリギス軍の二等兵がフランスの町を逃れるシーンから始まる。ドイツ兵と思われる銃撃により仲間が次々と倒れていくが、一人だけ逃れる事ができ門を乗り越え、フランス兵が土嚢を積んで守備している陣地に逃げ込む。その先には海岸が広がっており、英仏連合軍がだらりと列を作って救援の船を待っている。

何か面白いエピソードでも始まるかと思ったがそれらしき気配が全くない。命からがら逃れてきた一兵卒が腰をかがめてズボンを脱ぎ用を足そうとすると、視線の先に兵士がいる。それを見て用を足すのを止めてしまう。桟橋で救助を待つ兵卒達が列を作っているとドイツ軍機がやって来て爆撃される。傷ついた兵士を担架で運ぼうとした二人の兵士が、桟橋に穴が空いていて一枚の板を渡しているに気づく。走って渡れといわれてパッパッと渡ってしまう。そこでちょっとした達成感を表すような歓声が上がる。担架と一緒に救助船にそのまま乗り込んで逃れようとするが、お前らは降りろと追い返される。二人は桟橋の下に隠れて密航を企てる。そこへ再びやって来たドイツ軍機の爆撃に見舞われ、救助船は沈んでしまう。救助船を待つ列ではイギリス兵が優先され、フランス兵は後回しにされる。時折ドイツ軍機が現れて英仏連合軍が群がる海岸に爆弾が落とされて、直撃を受けた兵卒達が死んでいく。

一方で空では英国のスピットファイヤーがドイツ軍機と戦闘を繰り広げている。しかしこれも他の戦争映画と比べると見せ場があるというわけではなく淡々と進んでいく。まるで本物の戦争のように描かれている。これはスペクタクルというよりもドキュメンタリーだ。それも奇をてらった編集が成されたドキュメンタリーではなく、ただひたすら戦場の現実を鑑賞者が分かろうが分かるまいがこのセリフはどういう意味だとかこれはどういうことだとか逐一丁寧に説明せずに見せつけて、総てを観客の受け止め方に委ねるタイプの映画だ。ダンケルクから無事英国に撤退して駅へと向かうラストシーンでは、兵卒達の後ろ姿は暗く憂鬱感に満ちている。そんな中で盲と思われる老人が良くやったと慰撫しながら兵士達に毛布などを渡していく。電車に乗り込み敵から逃げ帰ったことで市民らから罵倒される事を恐れてうな垂れていた兵卒が車窓を叩く音に振り返ると、老紳士が窓から2本のビールを差し入れてくれた。新聞に載っているチャーチルの下院での名演説を相手の兵士に読み聞かせる。チャーチルは演説の名手で、『Darkest Hour』では、演説原稿を練る際にこちらも名演説家として知られる古代ローマのキケロ(シセロー)の著作を探させてカンフル剤のように己を奮起させるシーンがあった。そのチャーチルの名演説をダンケルクから逃れてきた一兵卒に読ませて、相手の兵士だけでなく鑑賞者の耳に響かせる。戦争映画やTVゲームにあるように実際のチャーチルの音声は使わず、新聞に掲載された演説を兵卒が読み上げるという体裁を取っているので疲れた棒読みのような声色には高揚感はない。しかし外側の歓喜する市民の情景と重なり合うことで、一兵卒の口から読み上げられる演説は不思議と感動的な響きを帯びてくるようになる。感動的な演出もなければ飾り気のない戦時下の日常そのままの等身大の景色がスクリーンに広がる。演説自体はダンケルクからの撤退は勝利でもあると持ち上げながら、その後にフランスやベルギーなどでの敗北を忘れてはならないと釘を刺し、「We shall never surrender.」と何度も聞き覚えのある一節が述べられ、海で空で陸で戦い続けることを宣言する。このシーンをどう見るべきか、自分の中で見方は幾つかに別れた。静かな執務室で多くの人命を電話1本で死に追いやる戦争指導者の高揚感と、実際に戦場に出て肉体的・精神的にもがき苦しんできた事で憂鬱感に取り憑かれた一兵卒との温度差による対比。ダンケルク撤退作戦の大成功によりこれから敵に対して英国が指導者から一兵卒に至るまで一丸となり徹底抗戦を覚悟する高揚感。苦難を乗り越えて一筋の光条が射し込んだ英国の未来の象徴。民間人の歓喜を絡ませたこれらのシーンが、英国が兵士から民間人に至るまで一体感を得た事を示唆させるが、ダンケルクのシーンはそれとは対照的に戦場の残酷さが淡泊に描き込まれている。そこには戦争映画にありがちな英雄の姿はない。

銃声、弾痕、ドイツ軍機で描かれる敵

ダンケルク撤退作戦を扱っているから、ドイツ兵も出てくるものと思ったが、ドイツ兵の人影は見えない。冒頭ではドイツ兵が放っている銃声だけが響き、満ち潮を待つ船中に打ち付けられる銃弾も音と船倉に増えていく穴だけで表現されている。指揮官が双眼鏡で遠くを観てドイツ軍の侵攻だというが、ドイツ兵が動いているシーンは出てこず言葉だけで片付けられる。空中戦ではイギリス人パイロットの視点からのみ描かれている。ドイツ軍機は飛んでいるが、ドイツ人パイロットの姿は見えない。機体に描かれているマークで友軍か敵軍かの見分けが付く。

通常の映画ではドイツ兵といえば敵として描かれる。第一次大戦にしても第二次大戦にしてもそうで、2つの大戦でドイツは敗戦国となった。勝てば官軍で、敗戦国は現実でも映画でも悪を押しつけられる。第一次大戦でカイザーは領土欲を持っていたが、それはあの時代ではどの大国もやっていることだった。第二次大戦ではヒトラーはユダヤ人の大量殺戮を指示した。このため先の大戦と異なり敗戦国のナチスドイツとドイツ人は完全な悪人扱いとなった。しかしどちらにしても両時代のドイツ兵は映画やドラマの中で悪役として描かれている。記憶にあるところでは『インディ・ジョーンズ』シリーズや、『ヤング・インディージョーンズの冒険』『ワンダーウーマン』、ドイツ兵は悪役にしやすいが、これはドイツ人から観たらどのような心境を抱くのだろうかと、同じ第二次大戦で敗戦国となった日本の三世代先の日本人である筆者から観ると、国や事情は異なるもののヤキモキとした気分になる。その悪役として描かれやすい傾向が大いにあるドイツ兵が、この映画では姿を見せない。その代わり銃声と銃弾、ドイツ軍機という機械的なイメージにより敵という存在感を見せる。これはまるで本当の戦場のようだ。敵というのはこのような感情から遠く離れた存在なのではないかと思わせる。映画の中で敵を描いてしまうと、それは描く側の先入観や分かりやすく悪く描こうという不公平な意識に左右されてしまう。わかりやすくなくてもそれは敵として描かれるから味方、映画でいうところの正義の側の視点から描かれて不公平になる。故に『パール・ハーバー』で一見イーブンに描かれているようでいてハリウッド映画から観れば結局は敵役でしかない日本の軍人には違和感を覚えたし、『トラ・トラ・トラ』では日本側シーンは日本のスタッフが制作したために公平性が保たれていた。『ダンケルク』ではドイツ兵は銃声や銃弾、爆撃、ドイツ軍機として、つまり感情を持った生身の人間ではなく、感情を持たない機械の形で描かれている。まるで前衛芸術のようなコンセプトだが、敵を描く際に人間的な感情を排する形を取ることで、あくまで戦場の現実に徹して描くことで、敵を描く際の公平性が保たれている。愛だとか気持ちだとか、そういうセンチメンタルな感情はこの映画では一切無視されているかのように見える。ダイナモ作戦自体は神の視点ではなく、一兵卒などの個人の視点で描かれているが、戦場での出来事を淡々と綴ったそれらの一連のストーリー自体は個人の浪漫風の感情が差し挟むことを一切許さないという意味では神の視点で描かれていると言える。事実だけが流れている。カップルが喜びそうな余計な恋愛シーンは一切挟まれていない。

味方だからといって正義の兵士というように描かれることはない。海岸を隊列を乱さず歩く一群がいるのを見つけて、主人公の一兵卒は彼らに問いかける。彼らは高地(ハイランド)部隊で、守備範囲にない危険な所に船が打ち上げられているが、あと3時間で満ち潮になるからあの船で脱出できると勇猛果敢にも船に向かう。一兵卒は彼らについて行くが、実際には満ち潮には6時間かかり、船に向かってドイツ兵の銃弾が立て続けに打ち付けられることになる。

ハイランドとは文字通りスコットランドの高地地帯のことを指す。グレートブリテン連合王国はイングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドの4つの国で成り立っているがスコットランドは元々は独立国だった。イングランドとの抗争を幾たびか経て、イングランドと同じように海洋帝国を夢見たスコットランドが国富の2/3の資金を国中から募って中南米に植民都市を建て、果てはそこを中継地として中国や日本との貿易でスコットランド帝国を打ち立てる夢を見たが、実際には現地に赴いても原住民はスコットランド人が持ち込んだ品物には興味を示さず、更には疫病で総勢3000人の植民地人は300人になって本国に帰国せざるを得なかった。国には莫大な借金が残り国家として成り立たなくなったスコットランドを、アン女王治世の時代にその借金をイングランドが肩代わりする代わりに連合王国という体裁で組み込む形となった(1707年:イングランド・スコットランド合同法)。のちカロデンの戦いでスコットランドの内のハイランド地方にあったジャコバイト派とイングランド軍が戦うことになるが、その時のイングランド軍の殺戮やその後の民族的自尊心を蔑ろにする政策がスコットランド人のイングランド人に対する感情に怨恨を残した。その一方でスコットランド人は戦場においてはイングランド人も一目置いて畏敬の念を抱くほど勇猛果敢に戦った。経済的な理由から不本意ながらにイングランドと合併することになったが、国難的逆境の中で連合王国にスコットランド人ありという気概を見せた。

その勇猛果敢で知られるハイランド部隊が、敵の銃弾を受ける中で船がなかなか浮かばないので、仲間を1人船から追い出そうとする。白羽の矢がたった1人に対してゲルマン系で口数が少ないからドイツ人のスパイだと言い出す。実際に蓋を開けてみるとフランス人で、救助船にはイギリス人が優先されるから、イギリス兵の死体から認識票を奪ってイギリス人を装っていたのだった。一応の主人公である一兵卒の男はこの人に救われたとフランス兵を庇ってハイランド部隊の男を説得する。するとスコットランド人は1度助けてくれたならもう一回助けて貰おうと追い出そうと躍起になる。やがて船が浮かび一悶着は収まるが、生身の人間の反応の一端を見せつけられた形になった。自分ならこの場にいた場合、三者三様の立場になったならどう行動するだろうかと考えさせられた。

CG無しの戦争映画・『感情教育』との類似性

クリストファー・ノーラン監督といえばCGを使わない技法で知られる映画監督だが、今回空を飛んでいるスピットファイヤーも実際の飛行機で、空中戦もCG無しで描いたという事だろうか。沈むゆく船も実際に沈めたに違いない。ダイナモ作戦は『ウィンストン・チャーチル(原題:Darkest Hour)』でも描かれていたが、あちらは海を埋め尽くすほどの船が英仏連合軍を救いに行くシーンで高揚感があったが、『ダンケルク』では船の数は多くない。10隻もなかったのではないか。軍用艦ではなく史実通り民間の船だから、船の数が少なければ派手なシーンにもなり得ない。映画の中盤以降で描かれるダイナモ作戦の戦場視点からの模様は、司令官が船が到着したことに目を輝かせるシーンで最大限に表現されるが物足りなさがある。

しかしCG全盛の時代でCGを使わずに制作された映画はそれだけで劇場に足を運んで大スクリーンで観るだけの価値がある。CGはダイナミックで迫力があるが、一方でやり過ぎ感が出て嘘くささが滲み出てしまったり、カッコ良すぎてキザったらしくて鼻についたりする。一方でやはり嘘くさくはなるもののCGを使った方がダイナミックなシーンになり胸を打つのではないかという思いもあった。CGかリアルか、『ダンケルク』を観ていると気持ちが揺れ動いた。

撮影場所はダンケルクで、空中撮影もあり、ダンケルクの街並みが映るが、これもCG処理はしていないのだろうか。現代の建物が映る演出は、NHK大河ドラマ『飛ぶが如く』のラストシーンで浜辺に佇む西郷隆盛の妻から徐々に俯瞰していき、最後には桜島を中央に添えた現代の鹿児島市街を写すというものがあり、ふとイメージがクロスした。

以上の通り、二等兵の視点、民間人の視点、パイロットの視点からストーリーが進むが、やはりノーラン監督の演出方法には退屈感が否めない。大きな起伏があるわけでも無く淡々と綴られる現実の戦場。この感覚、どこかで覚えがあるなと思い、他の映画レビューを検索していたら、リアリズムという言葉に行き当たった。リアリズムから連想で写実主義文学という言葉が思い浮かび、同時にパリ二月革命を扱ったギュスターヴ・フローベールの『感情教育』の読書体験に行き着いた。同時代のバルザックなどに代表されるロマン主義のアンチテーゼとして登場した写実主義文学の『感情教育』は、読んでいてその淡々とした描写に退屈で辟易としたものだ。原書ではなく訳書だから、フランス語の持つ微妙な文意もフランス人にしかわかり得ないであろう旨みも伝わらない。冒頭部分を紐解いて読むと目の前に広がる情景を淡々と綴った味気ない文章に未だに脳みそが萎縮するのを感じて気分が悪くなる程だ。

『ダンケルク』も『感情教育』と同じように退屈ではあるが、やはりCGを使わず奇をてらったストーリーを組み込まず、淡々とリアルな戦場を描いたという点では一見に値する。