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悪の教典 – 日本版レクター博士の華麗なる知能ゲーム

悪の教典

『悪の教典』冒頭のシーンでキャメルのブレザーを着た高校生の集団が出てくるのを見て、洒落た制服だなと思ったのと同時に、何かが頭の中に引っかかった。映画を見続けていくと、段々と陰惨な様相を呈してきて、最後には教師による大量殺戮へと発展していくのだが、この物語の構図、どこかで見た覚えがあると思ったら、20年ほど前に公開された高見広春原作・深作欣二監督の『バトルロワイヤル』だと思い至った。検索してみると生徒達が着ていた制服の色が似ていた。『悪の教典』はキャメルだが、『バトルロワイヤル』は上下ベージュの制服だった。

2000年前後だっただろうか、『バトルロワイヤル』という洋書のような装丁にコンパクトな本を書店で見かけて購入し、分厚いながらもその面白さから一気に読み終えた。当時広く普及し始めたインターネットでは『バトルロワイヤル』のそれぞれのキャラクターに溢れんばかりの想いを託した二次創作の個人サイトが大流行し、人々はこの作品を愛情を込めて「バロワ」と呼んでいた。「バロワ」と口にするだけで、この作品に対する想いがお互いに理解でき一体感が生まれるかのようだった。

一クラスの生徒それぞれのキャラクターがバラエティに富んでいてクラスに1人はいそうで、つまり我々の学校生活における実像や憧れの人とそうたいして変わらない登場人物達が、殺し合いという有り得ない極限の状況下に置かれたときにどのように振る舞うかが描かれていたのが面白く、ヒットした主な要因ではないかと思われる。例えば関西弁のおちゃらけキャラの生徒が「人間ミズスマシや!」と自身を形容しながら這いつくばって他の生徒達から逃げ回るシーンは、1998年に長野県で開催された冬季オリンピックでスケート競技を見た当時の知事が会見の席上で「ミズスマシみたいだ」という発言をしてマスコミから大バッシングを浴びた出来事が下地にあり、読んでいて大受けした記憶がある。同じ長野県で発生した松本サリン事件の杜撰な報道姿勢のこともあり、この頃からマスコミに対する不信感のようなものも芽生え始めていた。残念ながら映画の方では、この関西弁のオモシロキャラの魅力を存分に生かし切れていなかった。深作欣二監督はヤクザ映画の巨匠だから、お笑いの要素は余り好まなかったのかも知れない。しかし読後20年経ってもまだこのキャラを覚えているくらいに強烈に面白い描写だった。

『悪の教典』は、ハスミンと生徒達から呼ばれ慕われているエリート教師が実はサイコパスの殺人鬼で、行く先々の勤務先で自殺などに見せかけて同僚や生徒達を殺害した過去があり、今回の赴任先では運命の歯車が絡まり合って結果として大量殺人に手を染めるという内容だが、一方で『バトルロワイヤル』は国の方針に従い全国から50クラスを無作為抽出して、主任教師の「これから君たちには殺し合いをして貰います」の号令を皮切りに、生徒達に殺し合いを始めさせるというストーリーだった。

原作『バトルロワイヤル』は当時からも一発屋のような扱いの作品だったが、その後皆が薄々予想していたとおり続編は出ずに、原作者が翻案という形で参与した『バトルロワイヤルⅡ 鎮魂歌』という映画作品が作られたが、その頃にはインターネットでの熱狂もヒートダウンしており、興味も失せてしまっていた。2匹目のドジョウというか、2作目はだいたい駄作になりがちで、原作に泥を塗るような内容なのではないか、見てしまったら原作の良さが減じてしまうのではないか、思い出が穢れてしまうのではないかという想いがあり、劇場には足を運ばなかった。『バトルロワイヤル』は一発屋で終わったが、そのタイトルは固有名詞のようになり、20年近く経った今現在も何かの折に耳にすることがある。

「バロワ」から「悪の教典」へ。時代の移り変わりに伴う教師像の変遷

世相としては1995年に神戸で児童連続殺傷事件が発生し、その猟奇性と警察を愚弄するミステリー小説じみた手紙から、マスコミが狂ったようにワイドショーなどで連日取り上げ、事件が解決するとその残忍な犯行に手を染めた犯人が14歳の男子中学生だったことが世間に大きな衝撃を与えた。事件が解決した後には入れ替わるように「心の闇」とか「透明な存在」といったような言葉で思春期のアイデンティティが語られ、マスコミがこぞって当時の中高校生を取材して、少なからずも当時の中学生・高校生は多感な時期故に生じる自らの日常生活の不満をこの事件に託して鬱憤を晴らしていたような節も見受けられた(ただし人生の目的がしっかりとしている優等生や進学校の生徒は除く)。あの事件で喚起されたそうした言葉にならないふつふつとした若さ故の静かな苛立ち或いは攻撃本能を土壌として1999年に出版された『バトルロワイヤル』は当時の若者達の渇望と穴を満たすようにしてすんなりと受け入れられたのではないだろうか。対して選考委員の評判は中学生が殺し合いをするというその衝撃的な内容から芳しくなく、そこに子供と大人の価値観の相違というジェネレーションギャップを感じずにはいられなかった。しかし小説家という生き物はまさに現代の巫女か預言者のような役割を果たす。豊かな感受性で時代精神を汲み取りそれを物語として醸成し、時に現実に起こる時代的な事件を予言したり、人々の想いを様々な形で代弁しカタルシスを満たしてくれる。今そのような物語を紡ぐのが最も巧い作家はエンタメ小説では『告白』『白雪姫殺人事件』などで知られる湊かなえ、純文学作家では阿部和重だろう。

それらの騒動と熱狂からおよそ10年経ち、今度は教師が生徒を殺すという作品が出てきた。これはどういうわけか。昨今では体罰などを行うとすぐにマスコミなどで問題になることを見越して、子供達が逆に教師を虐めて追い詰め、教師の方が精神を病んで仕事を辞めざるを得ないという事態も生じていると聞く。つまり大人のいう事を聞かない生意気な生徒が増えてきた。それと同時に生徒達と同じ目線で立ち振る舞う友達のような教師も多くいるように思われるが、その象徴こそが「ハスミン」と生徒達から友達目線の渾名で呼び慕われている本作の主人公だ。しかしその友達教師は殺人鬼だったという所が、所詮子供と大人は違うと釘を刺しているようでもある。宮沢りえ主演の80年代に公開された映画『僕らの七日間戦争』での教師のイメージはガチガチの管理教育のそれと同等だった。強面俳優の大地康雄が演じていた教師像はまさに荒れる学校対策から生まれた当時の管理教育の峻烈さそのものを体現していた。00年代には『バトルロワイヤル』で生徒に干渉しない感情を持たない教師像があった。80年代が色彩豊かな感情溢れる時代だったならば、90年代は無味乾燥で感情が抑えられた時代だった。それがバブル崩壊とも相まって時代の暗さを生じさせた。それからおよそ10年後の『悪の教典』では、友達教師がメインとなった。その脇には生徒から小馬鹿にされている痩せ細った眼鏡の喉に痰が常に絡んでいるおじさん教師と、保護者からの突き上げに頭が上がらない事なかれ主義の校長か教頭が衛星のようにいる。まさに我々が普段からニュースや特集番組で見聞きする現代の日本の学校そのものを象徴している。

本作ではMack the Knifeという奇矯な歌が何度も流れる。それは最初は大昔の映画で流れるような音楽だったが、ジャズ風味の陽気なメロディに変わり、最後にはパンチの効いた軽快で洒脱な音楽の中で、ハスミンこと蓮実聖司(伊藤英明)が、文化祭で飾り付けられた夜の校舎で散弾銃を手に生徒達を楽しげに殺しまくる。残虐な行為ではあるのだが見ているこっちも楽しくなりスカッとする。殺される生徒側も派手に吹っ飛んだりして殺される演技が凄い。中にはギャグっぽく殺される生徒もいてやっていることは残酷なのだが笑いを誘う。殺戮シーンに通常伴うであろう心理的衝撃が、明るい音楽とそれぞれの役者の演技で緩和されていた。

テレビドラマなら、最後は犯人を窘めて視聴者を残虐な世界観から日常の倫理観に連れ戻すところだが、この映画はそのような学校の道徳の授業のような終わり方はしない。『羊たちの沈黙』のレクター博士のように次の獲物を示唆して終わる。まさに蓮実聖司は日本版レクターだった。