タロウのバカ – 平成末期の閉塞した時代精神を野性の子供を通して描いた野心作

タロウのバカ

暑さも和らいだ初秋の夜、行きつけの映画館に『タロウのバカ』と『永遠に僕のもの』の二本を観に行ってきた。前者は封切りされたばかりで、後者は最終上映のレイトショー。

どちらも銃を奪い、銃で人を撃ち殺し、ガソリンで何かを燃やし、社会の規範など端から守るつもりも意識にすらものぼらず、最後はどちらも行き詰まるが、迫るくるものに対するその姿勢はまったく正反対の映画だった。

『タロウのバカ』は映画館を運営している東京テアトルの配給で、ここが配給元となる過去の日本映画をざっと振り返ってみると、社会の片隅や底辺で生きている人間模様を描くことに秀でた作品が散見されるが、日本映画のデメリットとよく俎上にのぼる特有の暗さも漂っている。東京テアトル配給の他の或る映画の予告編を見たときは正直こんな薄暗い雰囲気が漂う映画で人が入るのだろうかと思わせるくらいの極北のような作品も見受けられてここ最近は敬遠しがちだった。

今回は予告編を見て広い空を前に壮大なうねりを見せる高速道路の高架橋や白塗り集団、また主人公に漂う気怠くもやるせない野獣のようなイメージに誘われて、夕暮れ時に特有の厚ぼったくなった体にエンジンが掛かり、三宮まで赴いたのだった。

監督は大森立嗣。俳優大森南朋の兄で、弟が先に売れたことによるコンプレックスも作品の中に盛り込まれている。父は舞踏集団『大駱駝艦』主宰の麿赤児で、本作でも前衛的なシーンを担っている。監督のデビュー作は花村萬月の芥川賞受賞作『ゲルマニウムの夜』で、本作は監督デビュー以前に書いて温めておいた脚本が日の目を見た形となっている。

昭和世代 VS 平成世代のジェネレーションギャップ

冒頭は廃墟のような施設に知的障害者の患者を集めて金を取っている半グレの若い男と、壮年を過ぎたヤクザが車の中で会話するシーンから始まる。半グレの男はやたら利口ぶって戦後の生死観について長々と講釈を垂れるが、始めはこのシーンが説明調で映画の本能的な部分を台無しにしているようでどうも馴染めなかった。しかしその後に続くシーンを振り返ると、反グレの男がダウン症患者に向かって金の無駄で死ねばいいと吐き捨てる反面、ヤクザの方はそんな男に対していつか報いを受けると忠告する姿に、バブル崩壊後の安定した不安定社会に生きてきた若者と、戦後の混乱から高度経済成長を経て近代化を成し遂げた日本とその後に続くバブル経済、その破綻を一通りくぐり抜けてきた老人との対比を見ているようだった。半グレには仁義は一切ないがヤクザにはまだ仁義が残っているというわかりやすい対比を象徴的に描いている。また戦後を肌で知っている男と、知識で聞きかじって利口ぶっているだけの男の思想の対比とも見て取れる。昭和世代と平成世代の対立だ。

元々この冒頭シーンに登場する集団は20年ほど前に書かれた脚本では中国人の不法労働者の設定だったとのことだが、平成末に発生した障害者施設で19人が殺害された陰惨な事件を反映して書き換えられている。

人を愛することを知らない少年達の無軌道な暴力性

一連のシーンが終わるといよいよ主人公のタロウが出てくるが、これが母子家庭で戸籍がない子供で、着ている物がどこか粗末で、母親が育児や子育てに興味が無いネグレクトであったことも仄かに匂わせる出で立ちだ。実際にこの母親は壺を拝んでいるばかりで息子に関心が無く愛情を注がない。タロウが着ているものをよく見ると隙間の多い女性物のニットのように見受けられるがそれを野性的に着こなしているところが洒落てもいるし、実際タロウを演じているこの新人俳優YOSHI(16歳)は13歳にしてルイ・ヴィトンのディレクターにファッションセンスを認められファッションショーやモデルとして活躍し、アート作品も手掛けている早熟の天才で、今作でも既成概念を打ち破るような自由奔放な演技で目を見張るものがある。あぁ、こういう映画が観たかった、ようやく観たい日本映画が観れたと思わせる演技だ。実際監督も演技慣れしていない新人が発揮する暴力性に期待しての起用だったとか。その辺りの経緯はパンフレットを参照されたい。他にもダウン症の2人が出てくるが、内1人はダンサーでダンスを踊り、もう1人の女の子は歌手で雨の中でオリジナルの歌を高らかに歌い上げる。こういった生々しいリアルなシーンは、生命保険や不動産会社のCMのような人も景色も洗練されたイメージ先行の嘘くさい理想郷が描かれた苛立たしささえ催させるアニメ映画にはない。いつも川に2人で佇んでいるダウン症の2人は映画の中では実に素朴で飾り気のない純粋な愛を表象しているかのようでもある。

タロウは戸籍がなく学校にも通ったことがない。友人のエージ(菅田将暉)とスギオ(太賀)は高校生で、エージは柔道の推薦入学で高校に入ったが、上には上がいることを悟り挫折して部活には出ずに街の半グレ集団の下っ端みたいな関係にある。スギオはこの3人の中ではまだ社会常識を保てている一般的な日本人の典型のような人物だが、タロウやエージとつるむと野性的本能を剥き出しにして暴力を振るうことを厭わない。しかし1人で行動すると後のシーンで自転車に乗った女をレイプしかけるシーンがあるが未遂に終わるといった呈で何をするのにも中途半端な存在だ。所詮は野性的にはなれない集団社会がお似合いの農耕民族。そんなスギオは自衛隊に入って戦車を操縦したいと言うが、エージに戦争が起こったらどうするのと突っ込まれてたときに絶句してしまうシーンが、平和に倦んだ日本人の思考そのものを露呈した瞬間のようでもあった。物質に満たされた長く平和な時代に稀釈された人間関係の頓挫した現実感の中で、3人はその稀釈された現実に無頓着に生きている主婦やサラリーマンを襲い暴力を振るう。そこにはなにかしら稀釈された現実感を目覚めさせる鉄槌の役割のようなものがある。

スギオには片思いの女子高生がいるが、14歳の頃から援助交際をしている「ヤリマン」で100人以上の男と肉体関係を結んできて正確な数すら覚えていないほど自らを情欲の渦に溺れさせている。しかしピアノを弾いているときは物静かで静謐なイメージがある。全く以てこのイメージのギャップが惹きつけられもし、ふとカーテンの後ろ側を覗き込んでしまったような、しかし現代ではそれがどこかしら当たり前で素知らぬ顔で生活しているのかも知れないという他人の逸脱行為に寄せてしまう淡い期待をもよおさせる。こちらの女優・上田紗々も何を考えているのか分からない真っ新な他人のような透明感があり今後のスクリーンでの活躍に期待が持てる。

足立区という格好の舞台

舞台の街は直接言及はされていないが、おそらく3人の会話から足立区だろうと見当を付けた。女子高生コンクリート殺人について喋っているシーンは橋で、淡いピンク色の高速道路の高架橋が空をうねるように流れている。この高架橋は映画の中で間近に出てきたり住宅街の路地の向こうの遠景に出てきたりする。まるで人体の血管のように空を縫う高速道路の高架橋(首都高速中央環状線)。半グレたちが乗るバイクのナンバープレートには「足立」の文字が刻まれている。街並みはどこか乾いていて、長年放置された錆び付いた住宅街のような様相を呈している。

昔銀座から秋葉原、北千住を抜けて、東京と埼玉の県境の足立区辺りまで歩き通したことがあるが、関西から東京に出てくるときは、同じ日本国内でありながら国境を越えて外国に旅行に行くような気持ちで期待感で膨らむのだが、繁華街を抜けるに従ってその期待も萎んでいき、国道4号線沿いに荒川にかかる千住新橋を渡って足立区の住宅街に入ると、地元と同じ街並みが外国と思っていた東京にもコピー製品のようにあり、まるでパラレルワールドに迷い込んだかのような別の期待が楽しく膨らんできたのだった。さしずめ荒川は大阪の淀川に相当し、荒川を堺にして荒川区と足立区が別け隔てられているところなどは、淀川を堺に都市部の大阪市北区と住宅街の淀川区に分かたれているのと同じで、その先に続く尼崎も足立区と似たような殺伐とした街並みで、唯一異なる点は、足立区から埼玉に入ると四方は見渡す先までビルや戸建ての住宅に埋め尽くされていて際限を知らないが、尼崎から西宮まで進むと北の方に緑萌える六甲山地が立ち現れて街を割っている光景だ。更に南に広がる大阪湾が人の営みに制限を与えている。

山や海に護られない周りが人間と人工物だらけの足立区で、この3人は本能的に暴力を振るい自由の呈で非日常的な日常を過ごしていく。やがて復讐と絶望を迎えるが、タロウは行き場のない憤りを荒川沿いのグラウンドで練習に励む同い年のサッカーチームの少年達に割って入ってぶつけていく。タロウの目の前にいるのは母子家庭で戸籍のない、親から愛情が注がれなかったタロウとは異なる、日常に溶け込んだ恵まれた多数の子供達。ふたつの間には激しい温度差があり、しかし銃は捨ててしまったので少年達に危害を加えていくというでもなく、空回る雄叫びを狂った半鐘のように周りに、虚空に向かって響かせる。その時のタロウは少年達すら眼中にない。極北のクライムムービーならここで大量殺人を犯して終幕しそうではあるが、そのような結末を迎えなかったことで、仲間を失うことで覚醒し絶望の淵に立たされたタロウのその先にある未来に余裕を持たせたようにも思われた。

『タロウのバカ』も『永遠に僕のもの』もクライムムービーだが、『永遠に僕のもの』が1970年代にアルゼンチンで実際に起こった殺人事件をベースにしているのに対して、『タロウのバカ』は全くのフィクションながら、現代日本の時代精神を反映している。それはあたかも巫女の様な能力に恵まれた純文学作家が現代社会に棲む人々の狂気を嗅ぎつけ時代を象徴する未来の事件を予言した作品を紡ぐのと同じような感覚でこの映画の中の仕草やセリフの何気ない一つ一つは現代日本社会の今を映し出している。