真夏の夜のジャズ – ポートレイト・イン・ジャズを読み返したくなる逸品

Fate第3章を観た後は『真夏の夜のジャズ』を観ることにした。夕方5時過ぎからの上映だったので、映画が終わって外に出る頃には夜がどっぷりと更け、映画の世界と合っていてちょうど良い。予告編の古いジャズフェスタの映像にインパクトがあり惹かれたのもあるが、どの映画でも予告編は観客をそそるように出来ている。過去に『吾輩だって猫である』の予告編を見たときも、猫の可愛さにほだされて観に行ったが、実際にシーンの中で出てきた猫のシーンの尺は、予告編と寸分違わずで、それ以上は全く出てこなかったこともある残念な体験から、映画の予告編に対して厳しい目で見るようになった。

本作はどうだったか。ジャズについてはあまり詳しくはないが、知らなくても音楽は楽しめる。それも何やら規則的なクラシックとは違い即興的で自由奔放なジャズだ。1本前に観たFateのようにその土台となる作品を知らなくても、また背景を知らなくても楽しむことは出来る。

出てきた中で知っているのはルイ・アームストロングくらいだったが聞き覚えのある曲が流れたし、撮り方が凝っていてふと1枚の写真を撮るようだと思ったら、監督が著名な写真家だった。

年代物のフィルムの質感で捉えられた岸壁からメランコリックにたゆたう水面がテロップと共に流れた後に、思い思いに楽器を吹き鳴らしながら車で走り回る面々はこの映画のために誂えられた一団だろうか、蛇行した道を車でジャズフェスティバルの会場へと向かう姿はサーカスのジンタのようだ。1920年代の貴婦人のような上品なマダムの装いをしている老婆達も何人か出てくるが、アレこそがアメリカかと見紛うほどだった。ジャズとは対照的だが、フェスタが開催される現地で迷惑がっている住民なのか、はたまたファンなのか。

どこかの部屋の中にシーンが映り、上半身裸だったか、肥えた初老の男が奏でるチェロのシーンもあるが、これはエヴァンゲリオンの碇シンジ君が演奏していたのと同じ曲だ。こちらはおじさん。

サッチモは取りの前で、取りは女性のゴスペル歌手が出てきた。神を称える歌詞を口ずさむ女性の黒人はどれも肥満しており歌唱力は抜群、顔は笑顔なのだがどことなく哀愁を漂わせている。サッチモもいつもの笑顔でローマ法王との謁見に絡めたジョークを飛ばし会場に笑いを誘っていたが、映画館の方の観客はというと10人程度しかおらず、くすりと笑ったのは筆者だけだった。進行役に外国遠征はどうだったか言葉が通じないから大変だったんじゃないかと尋ねられて、「インテリだから困らなかったよ」だとか、「子供はいますか?」と法王に尋ねられて、「頑張っているんですが」とユーモアで返した話だった。

ジャズの演奏シーンもさることながら、観客にも刺激的なカメラは向けられる。まだ溌剌とした若さをかろうじて残している気難しそうな年増の美女。8mmのカメラを必死にステージに向ける帽子を被った女性、或る男性奏者が演奏を終えるとアイドルにするように奇声を発する女性達。演奏に合わせて踊り狂うカップル。ジャズフェスタの照明に当たった女性の横顔は、陰影を強く浮かび上がらせ、50年代当時の熱気を体現している。

一通り見終わって、予告編と比べると少し刺激が足りないと思いつつも、村上春樹の『ポートレイト・イン・ジャズ』を読み返したいと思った。スクリーンの上で音楽を聴いた後は紙の上の活字で余韻の醒めないうちにジャズの世界にドップリと浸る。映画の舞台は夏だが、こういう楽しみ方で涼しくなった秋の夜を過ごすのも良いだろう。