劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン – 手紙を介した物語の普遍性

昔或る作家が、手紙のやりとりで成立している古い西洋の小説をあげつらい、インターネットの現代ならばこのような小説は成り立たないだろうという、作家でありながらさも凡人が思いつきそうな事をエッセイにしたためていたと聞いたことがあるが、今回観に行った映画で長年考えあぐねていたその答えが提示されていたように思う。

手紙の代筆業と書くと実に素っ気ない、行政書士の類のあまり見栄えのしない仕事のようにも感じられるが、「人の思いを手紙にする自動筆記人形(ドール)」と言い方を変えれば、これはまた違ったイメージを想起させる。

舞台の町にはパリのエッフェル塔に似た電波塔が建造中で、これを観てふと『ふしぎの海のナディア』のシーンが連想されただけでもこの世界観は実に好みなのだが、この電波塔を忌々しいと思っているのが、C.H郵便社で働いているドール達だ。ドールと言うからてっきりロボットかその類のモノかと思っていたのだが、どうも違うらしいことを映画を観ている途中に気づいた。一応前作の映画も観ているが誤解したまま観ていたらしい。

テレビのいつもの深夜アニメ枠で再放送もやっていたが、録画するのを1度忘れるとどうでも良くなり、或いは他のアニメと一緒くたにしか撮れない番組枠だったのか、面倒くさくなって撮るのも観るのも止めてしまったが、原作の小説だけは一作買っていた。しかしこちらも読まずじまい。どうもライトノベルやエンタメ小説の文体は体質に合わない。

電波塔が出来ることで電話が人々の生活に浸透していくことになるが、そうなるとドール達の仕事は奪われることになる。その一部始終が或る感動的なエピソードを通して物語られることになる。涙でマスクが濡れるほどのシーンだったが、その後のフィナーレへと続くヴァイオレットと大佐のエピソードは、どうもちぐはぐとしていて、大佐がヴァイオレットに会いたがらない理由も根拠が弱く、イマイチのめり込めなかった。やっつけ感というかこじつけ感というか、話を収めるためにそのようなシチュエーションにせざるを得なかったのか本が悪いのか、どちらにしてもエピローグは感動的に収まったので良いかということにした。

人の思いを伝える手紙代筆業という仕事は、電話という文明の利器に取って代わられるものの、現実の世界では暑中見舞いや残暑見舞い、年賀状、それら時候の挨拶に限らず手紙文化は電話が一般家庭に浸透して以降も、人々の予想に反してしぶとく生き続けた。やはり電話で直接伝えるよりも、手紙でしか伝えられないこともあるのだろう。特に人の思いというものはどこか物語性を帯びていて、そういった事柄は直接電話で伝える話し言葉よりも、隔たりがある手紙のような書き言葉の方が、正直に想いが伝えやすいという性質があるのだろう。

しかしながらインターネットが1999年を皮切りに一般家庭に広く浸透し始めると、それら手紙文化は廃れていったように思われる。年賀状の売上げの減少を見てもその一端が垣間見えるが、同じ電話回線を使用するインターネットは電話と何が大きく違っていたのだろうか。それはEメール、掲示板、ブログ、mixi、Facebook、Twitter、InstagramなどのSNSが電子空間の中で手紙と同じ機能を果たす様になったからではないか。となると同じ機能を有しながら手間のかかる手紙文化は廃れても当然という事になる。インターネットは手軽かつ迅速なコミュニケーションにより人々の距離を肉体的及び精神的双方共に縮めることに役立ったが、その反面弊害もあることは既に身を以て知っている人も多いことだろう。その弊害の実例はその人により様々で千差万別なので言及は避けるが、大雑把に総括するとコミュニケーションは加速すればするほど、その相手を覆っていた外面を簡単に綻びさせて、嫌な内面が見えてしまう。あたかも長年連れ添った夫婦がお互いの欠点を知っているかのように、夫婦でもないのにお互いの欠点をよく知ってしまうのだ。

それは遅かれ速かれ知られてしまう欠点であったかも知れない。導火線に火が付いて核心部分に到達するのが速いか遅いかの違いで、そのスピードを早めたのがインターネットであるとするならば、弊害は単純に説明が付く。

物語の世界観

大佐の暮らしていた島は戦争で若い連中は全て戻ってこなかった。崖から海に向けて花輪が投げられるが、どうもこのシーンが例の事件で犠牲になったクリエイター達の慰霊と重なって見えた。そう見るべきか全くの見当違いなのか惑うことになった。あまりあの事件と結びつけて語るのも無節操のように思われる。

また老人が語る「戦争をすれば豊かになれると思っていた」という考えは、まさに戦前の日本の国策そのものであり、他の欧米列強の帝国主義、植民地主義のそれでもあったが、結局は全てが水泡に帰した事を示唆している。戦場の装備やシチュエーションとしては第一次大戦に近い。まだ戦争がビジネスと考えられていた時代で、クリスマスまでには帰れる、数ヶ月で終わると皆が思い熱狂の渦の中で始まった戦争が4年近く続いて史上希に見る多くの死傷者を出し、ヨーロッパ諸国を没落させた状況が、物語の中で描かれている戦争やその後の世界観とオーバーラップした。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンの魅力

ヴァイオレットは戦争で両手を失ったが芯の強い魅力的な女性として描かれている。手を失いながらも鋼色に輝く義手で手紙をタイピングするその素早さに逆境をものともしない彼女の強い意思が表れているかのようだ。それもさることながら何度も描かれるヴァイオレットの横顔、島のシーンでのローアングルで彼女を捉えたときの白鷺のような足の細さ、それらに加えて青色に輝く宝石のような瞳に魅入られずにはいられない。

電話の登場により、自動筆記人形の仕事はどうなったか、ヴァイオレットは大佐と島に移り住み、その島には電話が通っていないから、まだドールとしての仕事が成り立つという結末に一応は収まる。つまり生きる場所を変えて生きながらえたという事だ。しかしどちらにしたところで、電話と手紙は別物だから、ドールという仕事も都会の中でまだ生き続けていたのではないかと思われるのだ。直接本人に電話口で言えないことも、手紙なら言えることがある。その当人の想いを汲み取って代筆して手紙にしたためるという仕事を巡る感動物語は、インターネットの刹那的で超過速度的なコミュニケーションに倦み疲れた現代人から見ても実に魅惑的なファンタジーとなり得る、そこにこの作品の魅力の一端があるように思われてならない。現代社会だからこそ、手紙をテーマにした物語が今もなお多くの人々の心を打ち、受け入れられるのだ。