カメラを止めるな! – 1カットでゾンビ映画を撮りきる実験感とゴタゴタ感

カメラを止めるな!

巷で今町話題作の映画を見に行ってきた。初めは小さな映画館で上映されていたが、口コミで広がり興行成績20億円突破。何が話題かというと、1カットで映画を作ったのだという。これはまた画期的だな、映画新時代の幕開けか?というわけで中規模の映画館に足を運んだ。

この日は眠れなくて早朝にミストという映画をビデオマーケットという映画配信サービスでポイント購入してみていたのだった。ミストは巨大化した昆虫やたこの化け物が出てきたりする映画で、こちらもスプラッターな要素がふんだんに盛り込まれていたが、『カメラを止めるな!』もゾンビ映画という事でスプラッタ要素満開だった。一睡もしていなくて上映の途中で居眠りしてしまったらどうしようと心配だったが(似たような状況で2回ほど居眠りしてしまったことがある)、この日は2本連続で観て、なんとか居眠りせずに見通すことが出来た。

以下ネタバレ。まだ映画を観ていない人は絶対にここから下は読まないでください。本編を観る楽しみがなくなります。まだ観ていない方は是非劇場へGO!

若い男のゾンビに食われようとする女。ここでカットが入る。髭面の怖そうな監督に叱られる二人の若い男女の役者。全然気合いが入っていない演技で怒っているっぽい。女性の方は「出すんじゃない。出るんだよ!」みたいなことを言って男の僕でも観ていてブルってしまいそうなくらい高圧的に威圧。かなり暴力的な監督で、見た目がジャングルから生還してきた旧日本兵の小野田少尉に似ていて、アロハシャツみたいなのを着ているからジャングルを連想したのかも知れないが、昨今問題になっているパワハラの権化なイメージがある。「お前の生き様が嘘ばっかりだから顔が嘘ッぽいんだよ」とか暴言を吐く。放心状態の女。若い男の役者は顔を思いっきり張られていた。言われてみれば演技に少し素人臭い所がある。

粗筋を話してしまうと、ゾンビ映画を撮っている集団が、本物のゾンビに食われるという話。しかし監督はこれこそ本物だよと嬉々としてカメラを回し続ける。ところどころ演技に粗があるというか、変な間があるというか、ちょっと下手くそっぽいというか、途中でこれはゾンビ映画を撮っていた人たちがゾンビに襲われる映画ではなく、「ゾンビ映画を撮っていた人たちがゾンビに襲われる映画」を制作している模様を撮っている映画なのではないかと思い浮かんだ。ところがゾンビの首が斧で結構派手に飛ばされる。当然再生不可能。だからこの説は違うなと、これはやはりゾンビ映画を撮っていた人たちがゾンビに襲われる映画で、長時間の映画を1カットで取るという試みの映画なのだなと思い至った。というのも、間合いが少しおかしかったり、音声役のスキンヘッドの一人が何かワケありな感じで外に出て行ったり、カメラを地面に倒した感じで臨場感を出したシーン、いかにもゾンビに襲われてパニクってる感が出ている。そしてまたカメラ立ち上がる。走って追いかける時に監督が思いっきりカメラ目線だったりする。斧で頭を割られた女がいきなり立ち上がって驚いたりと、実に行き当たりばったりというかハプニング的であったので、そういったアクシデントも含めてすべて曝け出す意味でも実験的な1カット映画なのだと思った。それが証拠に最後は生き残った女を俯瞰しながらエンドロールが流れ終わり、「カット!」の音声が僅かに被さる。作り手の粗が見える結構生々しい作りの映画だった。だってこれ一回失敗したら撮り直し。だから敢えてNGもそのまま移し込んで仕上げたのかなと。

と思っていたら、全くのどんでん返しで、やっぱり「ゾンビ映画を撮っている時に本物のゾンビに襲われる映画」の制作模様がテーマの映画だった。第2部とも呼べる1年前に遡ったシーンから、なぜ「ゾンビ映画を撮っていたら本物のゾンビに襲われる映画」の本編で素人臭い妙な間があったり、スキンヘッドの音声役がぎこちなかったり扉から外に出そうになったり、カメラを回し続けている監督が通りすがった時にカメラ目線だったり、監督だけなぜかゾンビに襲われてなかったり、斧が頭に突き刺さってるのに起き上がった女に何が起こったのかだったり、カメラが転けた理由や、小屋に逃げ込んだ女が口元を押さえたら脚だけ映っているゾンビに襲われなかった理由など、その他細々とした映画の中の現象が種明かしされていき、ただただ面白かった。この因果関係が極限まで練り込まれている。

この手の種明かしと言えば、岡崎体育の曲で、流行のJ-POPの曲作りやミュージッククリップの種明かしを曲その物に乗せて歌っている面白い歌があった。J-POPが受け手に受ける要素をここで入れてとかここでああしてとかいう感じの歌で、要は作り手の頭の中のテクニックをそのまま歌詞にして曝け出すという感じの曲。要は解体作業だ。

我々が常日頃から触れているそれら音楽の成果物は余りにも洗練されているため、岡崎体育が歌っているように人を惹きつけるテクニックで作られていることに気づかない。そのテクニックが如実に表れてダサいと感じるのが、カラオケに入っているムービーだろう。洗練されていないが故にそのテクニックの根幹がむき出しになってしまい、岡崎体育が歌っているようなテクニックの連続に見えてダサいと感じる。

このようにパターン化されたテクニックが皮肉めかしてあからさまに披瀝されていて面白いのだが、物語にもパターンがあるという。更には昔話にもある一定の法則があり、結局我々は生きている内に自然とこの法則に従って笑ったり泣いたり感動したりしているのではないだろうかと思われてくる。