がむしゃらに映画館で映画を見たくなる時がある。ふかふかの椅子に座って煩わしいことなど綺麗さっぱり忘れて、薄暗がりに包まれながらスクリーンに見入る至福の時を過ごしたくなる。
その時は周期的に訪れるのだが、今回は12日ぶりにこの欲望に囚われた。この日観賞した映画は2本。フランス映画とパレスチナ映画で、どちらも取り立てて大きな事件が起こるわけでもないのだが、日序的な小事件や、ささやかな笑いに事欠かない、凪のような映画だ。
1本目は『ハッピーバースデー 家族のいる時間』。フランス南西部で夫や孫と共に暮らすアンドレアの70歳になる誕生日を祝うために一家が集うが、様々な出来事を通して各人の人生が紐解かれていく。フランスは時折この手の大家族をテーマにした映画を海の向こうから提供してくれる。大家族の喜怒哀楽に満ちたストーリー。過去にも二度似たようなシチュエーションの映画を見たことがあるので、これで3度目となる。
冒頭に頭の禿げた映画愛好家の次男がキヤノンのデジカメで一家の誕生日の記録を撮り始めるのだが、そこに小津安二郎の撮影手法について言及するシーンがある。50mmで下から撮ると言うと、あれは畳で、目の前にあるのはテーブルだから小津のように下から撮れないと恋人に反駁される。どこかで聞いたことのある手法だと記憶をまさぐってみると、ヴィム・ヴェンダースの『東京画』に小津の撮影手法について語っているシーンがあったような、或いはテレビで見たドキュメンタリーだったかも知れない。意識がヴァンダースに揺られるように飛んだ。
正直ヴェンダースの映画は退屈だ。何本か見たことがあるが、退屈でなかったのは映画『緋文字』で、原作がホーソーンだからストーリーは面白いのだが、この映画にはヴェンダースの持ち味でもある感情の唖に沈み込むような憂鬱なムードはこれといって顕れていない。もし監督名を伏されたまま観賞したなら、名も無い監督の作品と思ったことだろう。本編よりも面白かったのは撮影秘話の方でスペインとの合作で随分苦労したらしいが、むしろヴェンダースの作品は映画本編よりもドイツの時代的背景や撮影裏話を聞いていた方が面白いというところがある。故に唯一面白かったのがヴェンダースが敬愛する小津を取り上げた『東京画』だったのだろう。『まわり道』は昔神戸の映画館で観たフランスのヌーヴェルヴァーグの映画のように退屈だった。しかしその退屈な映画も小津の影響を受けたと知れば、また違った角度で見れるのではないかと考えた。川端康成の小説とも相通じる日本独特の叙情的表現を、同じ敗戦国の憂き目を見た憂鬱な西ドイツを舞台に咲かせようとしたのだとすると、やはり見るべきところはある。しかしながら、『アランフエスの麗しき日々』に至っては、もうこれはただただ退屈としか言いようがなく、1時間40分が苦痛だった。ノーベル文学賞も受賞したペーター・ハントケとの共作だが、衒学的すぎて理解が遠く及ばない。たまたま近い日に足を運んだ絵画展で、アランフエスの情景を描いた歴史画があったので、偶然起きた繋がりに僅かな感動が生じたものの、やはり今振り返ってみてもただただ退屈な映画だった。ヴェンダース本人に言わせると、生涯の中で最も好きなように撮った作品らしい。舞台がほとんど変わらない野外のあの固定画はやはり敬愛する小津の手法を取り入れたものなのだろうか。もはや全く商業的ではなく趣味で撮られたものだとしたら、そこは胸が熱くなるところがある。
一方で『Mrビーン カンヌで大迷惑?!』に出てくる映画監督とふと重ねてしまう。映画プラトーンで最後に背後から撃たれて両手を挙げて死んでいく兵士を演じた俳優ウィレム・デフォーが、監督と主演を務めた映画をカンヌで上演することになるのだが、観客が欠伸や寝息を立てている中で自画自賛、また内容も自意識の流れで、あれはヴェンダースを戯画化して皮肉ったのではないかと思うとおかしみがあった。
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そこで映画を撮っている次男について再び意識が戻ってくる。ドラッグに染まり定職も金もない駄目な自主製作映画にのめり込んでいる次男だが、美しい彼女はいる。小津を敬愛しているヴェンダースの語る技法を真似る次男という姿がふと見えてくる。他の登場人物は、まだ人生を知らない3人の小さな孫達、唯一まともに見える長男、ヒッピーみたいな自由奔放な生活を送ってきた長女は、万引きはするは家を売ってカレー辺りにコテージを建てたいと言い出すわと、ちょとした騒動を巻き起こすトラブルメーカーだが遺産を受け取る権利はある。いろいろ登場人物は多いのだが、2時間の映画の中に朝から晩までの1日の出来事が詰め込まれていると考えると、結構ドタバタした展開だ。1日に起きている時間が16時間とすると、2時間の間に16時間の出来事が凝縮されている。普段我々は映画のカット編集に慣れているので、場面が移り変わると、次の日かもしくは数日後の出来事のように錯覚してしまうが、実は1日の中で起きている出来事だと見ている最中に気づかされたのは、70歳の老女のバースデーという日に家族が集ったからだ。1日で家族の前の出し物の演技を練習したり小道具を作ったりする孫、ドラッグを吸った上よそ見運転で事故を起こす映画愛好家カップル、街から不動産屋を連れてきて家を査定させるヒッピーのおばさん、挙げ句の果てには三つ巴の複雑な兄弟姉喧嘩となり、怒り狂った兄が借り物というキヤノンのカメラを三脚から取り外して部屋の隅に叩きつけるシーンは大きな音もして写真撮影を趣味にしている者にとっては心臓が悪かった。結局ラストは皆笑ってハッピーエンド。
主演はカトリーヌ・ドヌーヴでフランスを代表する国民的女優。出演作を見ると、『雨傘のシェブール』や『昼顔』、新しいところでは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』等に出演している。どちらかというとヒッピー風のおばさんを演じたエマニュエル・ベルコの方がその風変わりで突飛な役柄故に存在感が強い。後は弟役もその見た目やダメップリが悪目立ちしていて存在感を放っているのが面白い。この2人は過去にも別の映画で共演しているせいか、ストーリーの中でも密接な繋がりがある。
結局のところ全編通してそんなに派手な出来事は起こらないのだが、1日の中に現実にありえそうな小事件や諍い事などが起こるので、なかなか目が離せない。不思議と時間を忘れさせる2時間だった。細かいところではフランスにも日本に雰囲気の似た古い団地があると気づかされるシーンもあった。そういえばイザベル・ユペール主演の『アスファルト』という団地をテーマにした幻想風映画もあった事を思い出す。
映画の撮影技法について台詞で言わせたり、家を査定していることを知って映画に撮ろうと大家族に立ち位置について細かく指示したり、メタ的に言及しているようにも見える。ラストシーンでは物語の中でも言及されていた誕生日のサプライズ用に姉を撮ったお世辞にも上手いとは言えない4:3の映像で締めくくるなどして入れ子細工のようにメタフィクション化している。
映画をがむしゃらに観たい理由の一つに、仕草をただただ眺めていたいだけというのもある。草上の食卓で会話を交わしながらワインを注いだり、酒をがぶ飲みしたりする仕草、バターナイフを弄りながら食事を取る仕草、本を黙読している仕草、姉が風呂で読んでいる本が気になったが、モーパッサンだったかプルーストだったかゾラだったか。その辺りの小道具の選び方も趣味にあっていた。そういう映画館でしか味わえない感覚的な仕草を愉しみたい。フランス語を習っていたこともあるので、聞き取れる会話もあるしそういう感覚的な愉悦に浸りたい。
良い映画の一つの基準として、現実に流れている時間を忘れさせてくれるという感覚がある。この日は2本、小休憩を挟んで4時間近く映画館の椅子に座り続けたが、両作品とも7,8割方時間を忘れさせてくれた。ラスト近くになると時計を確認してしまうので、やはり少し長く感じたのだろうが、概ねスクリーンに没入していた。その時はまた周期的に訪れるだろう。次は何の映画を観に行こうか。