アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語 – 満州の地で愛人から息子へと語られるアンナとの蜜月

アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語

北方四島の帰属を巡る日ロ首脳会談の進展に関するニュースが新聞やテレビを賑わす中で、アンナ・カレーニナを観に行ってきた。まさか冒頭が日露戦争の描写になるとは思いもよらずに。

『アンナ・カレーニナ』は帝政ロシア時代の文豪レフ・トルストイが原作の長編小説で、貴族階級に属し社交界で浮名を流すアンナの不倫がテーマとなっているので、いきなり戦場のシーンが出てきて、同じトルストイのナポレオン戦争を題材にした『戦争と平和』が始まったのかと錯覚したが、どうも冒頭に出てくる三体の石像を見ると中国かモンゴルを彷彿とさせ、しばらく進むとそこが満州の地で、ナレーションから日露戦争の只中であると知ることが出来る。軍装もナポレオン時代の物ではなく、20世紀初頭の出で立ちだ。全くの意外な冒頭シーンだった。しかもこの冒頭シーンがなかなかに長い。まるで黒澤明監督の映画によくあるスクリーン内の制約された時間を打ち破り現実世界の次元の流れとリンクさせるような長回しに似ている。主人公らしき軍人が出てきたかと思ったらとぼとぼと戦場を歩く。貴族の女性の不倫がテーマの映画なのに一体何が起ころうとしているのか。

冒頭はこれまた黒澤明監督の『蜘蛛巣城』の冒頭に出てくる蜘蛛巣城址の石碑を彷彿とさせる印象深い三体の石像がゆっくりとクローズアップされていく。この地でかつて戦争があったことを示唆しているのか、時の流れが人々の意識のすべてを押し流し、石像だけがそこにあった出来事を人々に伝えているのか、人の営みが生じさせる戦争や個人的な諍いも時が経れば消え失せ、石像だけが目撃者として生き残り、その諸行無常のむなしさと儚さを諦観の念で後世に伝える役割を果たしているのか。何とも示唆に富むシーンが冒頭とラストに挟まれている辺り、やはりこの映画、『蜘蛛巣城』と同じ構成を感じさせる。

ストーリーは日露戦争に従軍したアレクセイ・ヴロンスキー伯爵が、アンナの夫アレクセイ・カレーニン伯爵の息子で従軍医師となっていたセルゲイ・カレーニンと満州の地で邂逅するところから始まる。負傷したヴロンスキーが即席の野戦病院で寝ているところをセルゲイが治療に当たることになり、目の前の重症者がかつて母と浮名を流し、母が自分を捨てた原因となった男であることを知る。噴悶しながらも母アンナの事を知りたいと願いでると、ヴロンスキーはアンナとの過去を回想する。告白形式を取ることで、生前のアンナ・カレーニナの人生に迫るという筋書きだ。

原作はずいぶん前に読んだがほとんど忘れてしまった。「不倫は文化」とトレンディ俳優の石田純一が言ったとされるが(実際にはマスコミによっていつもの如くセンセーショナルな話題になるよう都合良く適当に端折られてずいぶんと曲解された形で世間に流布したらしい)、その発言の元となる一端が、この文豪の有名な小説や当時ベストセラーとなった渡辺淳一の『失楽園』にあることも窺える。たとえそうでなくとも、少しでも文芸に素養のある人間なら、「不倫は文化」という言葉の根拠にまずトルストイの『アンナ・カレーニナ』が真っ先に思い浮かんだことだろう。あの発言を見て、文豪の書いた小説を文化と言い換えて箔を持たせようとしたのだろうが、小説を文学と高尚な言葉に言い換え単純に権威づけられたら、そこで終了のようにも感じられた。そこにあの発言自体の軽薄さが当時は感じ取られたのだった。

不倫がテーマの小説、俗な言い方をすると夫よりも若くてハンサムな軍人貴族と不倫して夫をぞんざいに扱ったためにアンナが社交界からハブられて、不倫相手も手紙の行き違いから信用できなくなり、孤立感を強めて自ら破滅していく筋書きだったが、どちらかというと、もう1人の主要人物の方を強烈に覚えている。恐らくトルストイ自身を投影していると思われるその人物リョーヴィンは、自らが所有する荘園の農場に赴いて自ら大鎌をふるい草を刈っていく。そこに貴族でありながら農奴と一緒になって額に汗かき労働の喜びを見いだす。うろ覚えだがこのような感じのシーンがどこかに差し挟まれていて、どことなく後に到来するロシア革命と労働者と農民と兵士からなる社会主義国家成立を予言させる描写でもあった。他の西洋諸国に比べロシアの近代化を遅らせている宿痾である大貴族社会からの脱却を願っているかのような描写が印象的だった。

ただ今回この映画では、その重要人物の1人であるリョーヴィンが一切出てこない。あのシーンが映像でどのように描かれるのか楽しみにしていたのだが、映画ではアンナとヴロンスキーの不倫関係と心の揺らぎのみが描かれる。

アンナと夫は年が離れている。はじめは近づいてくるヴロンスキーを拒むが次第に惹かれていくアンナは、夫をつまらない男と罵る。夫は敬虔なキリスト教徒であるために、離婚を望まない。弁護士からは宗教は離婚を認めているから問題ないというが、それでも離婚に至ることを頑なに拒む。

どこまでも敬虔で真摯な態度を見せる夫に対してアンナは自由を求めて、社交界ではすっかり噂になる。ヴロンスキーが宥めるのも聞かずにオペラ会場に赴くが、他の貴族達から憎悪と蔑みの目で見られ、気丈に体面を保つ堪えた表情を女優が見事なまでに演じている。

ラストシーンでは日本軍が丘の上に立ち、迫撃砲も2台ほど出てきて、即席の野戦病院に砲撃を加えていく。映画冒頭で赤十字の旗がないというシーンが挟まれていて、そのフラグがラストに回収される形となっている。日本軍のかけ声も自然な日本語で(もしロシア側なら「ウラー!」となるところだろうか)、旭日旗を翻して前進する日本軍の歩兵達の姿を見ることも出来る。丘の上から砲撃する日本軍の姿はさながら203高地から旅順港に向かって砲弾を打ち据える姿の再現のようでもあり、203高地の奪取を目指した日本軍がロシア軍の砲撃に悪戦苦闘する姿の鏡のようにも見える。前者の立場を取って敢えて深読みするなら、北方領土の返還を求める日本に対し、「ロシアにとって屈辱である日露戦争の敗北を忘れるな。兵士達の犠牲で獲得した領土をやすやすと渡してはならない」とロシア人に喚起を促しているかのような趣がある。

冒頭からヴロンスキーになついてくる満州族と思われる少女が出てくる。顔つきから言うと目が細くふっくらとしていてモンゴル人を彷彿とさせる。最近読んだ本によるとロシアのルーツはモンゴル帝国であるという。かつてモンゴル帝国はバトゥの遠征でロシアを支配下に置きその地にキプキャク=ハン国(ジョチ・ウルス)を成立せしめた。モンゴル帝国の影響を大きく受けたロシアは後にその支配から脱し、支配されていた時代を「タタールのくびき」と呼ぶことになる。果たしてこの少女が何を意味しているのか、かつて世界史上初の世界帝国を打ち立てたモンゴル帝国(大元ウルス)、日露戦争後に崩壊の序曲へと突き進むロシア帝国、対照的に北東アジアにおける覇権を獲得した大日本帝国は後に満州の地に五族協和と王道楽土というスローガンを掲げて実験国家である満州国を成立させるに至る。この三者が1904年の満州に一堂に会していることになる。優しい目をした少女はかつて支配者であったモンゴルのまなざし、片足を負傷したヴロンスキーは没落していくロシア、日本軍の進撃はその勃興をそれぞれ象徴しているような気がしてならなかった。冒頭とラストに出てくる三体の石像も、それぞれの民族を表しているのかも知れない。もしくはアンナとヴロンスキー、カレーニンの3人とも重ね合わせることが出来る。

最後になったが映像美もなかなかのもので、パンフレットによると、電気の照明は使わずに蝋燭など当時の照明を再現して撮影したという。蝋燭の灯された数多のシャンデリアの中での舞踏会のシーンが圧巻。要所のシーンも豪華な宮殿か貴族の屋敷で撮影したのかと思われるほどの煌びやかで豪奢な室内だった。カメラワークも競馬場での落馬のシーンなどはカメラにモデルがぶつかりそうなほどに大胆で迫力があった。