マルクス・エンゲルス – 若き日のマルクスとエンゲルスの交流を描く

マルクス・エンゲルス

ブラック企業というキーワードが日本社会に定着するようになって久しい。労働基準法を超えた長時間労働や時間外労働、残業代未払い、パワハラ、セクハラ、有給休暇を取得させないなど、その事例は数え上げれば枚挙にいとまが無いが、余り目立たない中小企業などが槍玉に挙げられているのかと思えば、最近では日本企業最大手の電通が20代の女性に長時間労働を強いて自殺に追い込んだとしてニュースになった。

1760年代にイギリスで始まった産業革命は、19世紀ヨーロッパに新しい世界観と階級をもたらした。資本家と労働者の登場である。当時の資本家は労働者を搾取していた。小さな子供を炭鉱で働かせたり、労働者に長時間労働を強いていた。今でいうブラック企業よりも酷い状態が19世紀ヨーロッパの労働環境では当たり前だった。

この映画の冒頭は、貧しい人々がドイツの森で枯れ枝を拾っているところを、馬に乗った官憲達がやってきて棍棒のような物で次々と殴り倒していくシーンから始まる。一体何が起こっているのかと瞠目したが、これはドイツで施行された「木材窃盗取締法」による貧者への権力行使だった。当時のドイツでは製鉄のための石炭コークスが不足しており、代わりに木材を使用していたために、「木材窃盗取締法」により、森林の所有者達の財産を守るという目的で法が施行された。この「木材窃盗取締法」に絡む論争はマルクスの思想の原点のひとつともなっており、木々から落ちた枯れ枝は誰の物か、所有権とは何かという根本命題を突き詰めていくことになる。当時貧者達は習慣として森に落ちている枯れ枝を拾って薪にし生活の足しにしていたが、この法は貧者達の習慣化していた生活手段を奪うものであった。産業革命による資本家の所有権ひいては利益追求権と労働者・貧者の生存権との軋轢が表面化した一例である。

マルクス思想を紡ぎ出した原点のひとつとも言えるこのシーンから映画は始まる。一方エンゲルスはマンチェスターの紡績工場の共同経営者である父と労働者の待遇を巡って対立していた。長時間労働で居眠りしてしまい紡績機に指が絡められて無くしてしまった労働者を解雇したことに、他の労働者達が抗議の声を上げたが、エンゲルスの父は取り合わない。エンゲルスは貧民街に出て、労働者達の実態と生活状況をつぶさに調べ上げ本にする。その本を読んだマルクスはエンゲルスと出会った際に本について賞賛する。どうやったらこれだけの物を書けるんだと問うマルクスに対し、エンゲルスは「恋愛」だと答える。エンゲルスは労働者の女と恋仲になっていた。

映画後半では小さな子供に長時間労働をさせているが、そうでもしないと会社が成り立たないというエンゲルスの父の知人と思わしき人物が出てくる。この人物が工場経営者だったかそれとも新聞社の人間だったかは失念したが、これなどは現代に例えると派遣社員や日雇い労働者、バイトなどの不正規労働者を低賃金で雇わないと会社が成り立たない、時給1500円なんて無理という経営者側のロジックとも酷似している。ここ最近はアベノミクスによる好景気で、人手不足からフリーターの賃金も1000円を超えるところが出てきて、働き方改革なども叫ばれているが、この映画に出てくる労働者達のエピソードの一つ一つが、現代の労働者達の事例とも重なり合うように見えてくる。

今でこそ子供の労働などは法で規制されている。他の諸々の労働者の権利も法律により保障されているが、そういったことが当たり前になると、勝ち取った諸々の権利を当たり前にある物のように、空気のように無味乾燥なもののように感じ、先人達の闘争と偉業を忘れがちになる。つい先だっても、小学校から無償で配布された教科書に着いている帯に、朱の文字で皆様の税金で賄われていますので大切に使いましょう的な文言が印刷されていたことに一部の保護者から「気持ち悪い」という声が上がったとニュースになった。しかしかつて日本の小中学校の教科書は自己負担で購入しなければならず、1960年代に高知県の保護者達が運動を始めて勝ち取った小学校の教科書無償化の権利であったという。世界一の経済大国アメリカでは教科書は貸し出し制で使い終わったら返さなければならないらしい。こうして他国と対比すると日本がどのような権利を勝ち取っていったかその重要性と有り難みが見えてくる。しかし問題なのは、権利を空気と同じような物と感じてしまうことだ。これは日常生活にも当てはまり、例えば大地震などが起こると電気ガス水道などのライフラインが寸断され、普段我々が当たり前のように享受していた生活に必需のサービスが届かなくなったことで、それら空気のような存在だったサービスの有り難みを初めて実感するのと同じである。

空気のように当たり前のことと思うようにになると、それがかつて先人達が、資本家や権力者達から血と汗と涙を伴う闘争の末に勝ち取った権利であるということを忘れる。忘れると、今度は自分たちが闘争して権利を勝ち取るという行為を成せることを、闘争心を忘れる。最終的な問題はそこにある。そしてただ現状に対してTwitterなどでぼやくだけに終始することになる。しかしインターネットが無かった時代と比べ、まだぼやけるだけ幸せなのかも知れない。その1つのツイートが世界を変える可能性を秘めていることだってあり得る。

先人達が勝ち得た権利を空気のように享受することに慣れきってしまうと、いざ自分自身が困難な状況に陥ったときに、それを訴え出ることすらしなくなる、闘争することすら知らないということになる。

映画のラストでは、共産党宣言の冒頭が流れる。「ヨーロッパに幽霊が出る——共産主義という幽霊である」という有名な一節だ。マルクスとエンゲルスの思想を起点として発展した共産主義思想は、20世紀初頭に世界史上初の労働者の国ソビエト社会主義共和国連邦を生み出した。その後社会主義思想は世界中に伝播し、中国、東ヨーロッパ諸国、東南アジア、キューバなどで社会主義政権が誕生し、20世紀後半にはアメリカ、西ヨーロッパ、日本などの資本主義陣営と対立することになるが、1991年のソ連邦崩壊を皮切りに、中国の文化大革命による社会主義の限界と改革開放政策への転換、北朝鮮の実態、カンボジアの大量虐殺、キューバの貧困、東ドイツと西ドイツの格差問題などが明るみになるにつけ、マルクスとエンゲルスが青写真を描き、後継者達が発展させた人口国家社会主義国はすべて失敗に帰し、資本主義国家が最終的に勝利を収める形となった。

唯一成功した社会主義国であると揶揄される日本は、かつては老人に対する年金制度が充実し、医療費負担も1割、労働者の権利も法律により手厚く守られており、年功序列・終身雇用制度は、生活の安定をもたらした。

しかし資本主義陣営と社会主義陣営の対立であった冷戦が終結したのと同時期にバブルが崩壊し、またグローバリゼーションが世界経済を支配するようになると、日本も例外では無く、構造改革を経て格差が生じ始めた。価値観も多様化し、世代間、男女間、同年代間での対立も生じるようになり、1つの価値観を共有することが難しくなる時代となった。

マルクス自身は貴族の女性と結婚したが、時の政権に批判的な姿勢から逮捕されライン新聞から離れたり、24時間以内の国外追放を命じられたりと、自身も貧困を体験した。対してエンゲルスは資本家側の人間だったので金には困らなかった。ドイツの共産主義結社である正義者同盟に二人は加盟するが、後にクーデターを起こし、一人はみんなのためにと書かれた白い垂れ幕を取り払って、労働者のための赤い垂れ幕に変える。共産主義者同盟誕生瞬間のシーンである。ラストでは共産党宣言の草稿を練るマルクスとエンゲルス達の模様も描かれている。これらの仕事を若い20代から30歳になるまでに成したのだから凄い精力だ。

この映画では女性の発言力も視界に入ってくる。マルクスの妻のイェニーは積極的に発言する姿が眩しい。演じるのはヴィッキー・クリープスで、くぼんだ目に特徴があり、映画『コロニア』にも出演していた。

マルクスを演じるのは、アウグスト・ディールで4カ国語を自在に操り、今作でも英語、フランス語、ドイツ語を流暢に話していた。眼光鋭い男前の顔立ちだ。

エンゲルスを演じるのは、シュテファン・コナルスケ。こちらは美少年がそのまま成長したような美しい目鼻立ちをしている。

抽象的な言葉だらけの美しい思想などと彼らに何かと槍玉に挙げられる真性社会主義者で無政府主義者の父と呼ばれるプルードンはオリヴィエ・グルメが演じている。日本人俳優に例えると4年前に逝去した斎藤晴彦に顔立ちが酷似しており、白人なのに妙に親近感が湧いたのはその辺りに原因があるのかも知れない。肖像画のプルードンと比べると、あちらは労働者といった苦労の跡が見える呈だが、こちらは若干インテリ風である。黒澤清監督の『ダゲレオタイプの女』にも出演。

九〇年代に起こったソ連と東欧諸国の社会主義政権崩壊と明るみに出たその内情の悲惨さにより、マルクス・エンゲルスの思想は忌避されてきた感があるが、グローバリズムに伴う格差や分裂、今までの価値観の崩壊により、今こそ彼らが解き明かそうとした資本主義社会の仕組みとそれに伴う救済の思想が求められているのでは無いか。現在進行形の諸問題に依拠しての読み直し、解釈のし直し、再構築が必要であるように思われた。

マルクスとエンゲルスについて知る入門としても良い映画だ。筆者もこの二人のことやその周りに衛生の如く存在する社会主義者達のことについてはほとんど知らなかったが、この映画を観て大著『資本論』を読んでみようと思ったのだから。