Fateはミリシラなので前作の第一章を観に行ったときは、どういう話なのか良く分からなかった。一応観に行く前にツイッターで呟いたら、フォロワーさんから「知らないなら分からないだろうから余りお薦めできない」とは言われていたが、神戸大橋など神戸の名所が随所に出てくると聞いて、神戸市民なら1度は聖地として取り扱われているアニメ映画は観ておくべきかと思い鑑賞してみたら、どうも2時間ばかり苦痛な時間を過ごしてしまった。
前作も好評で列が出来るほどだった。映画が終わってからロビーでくつろいでいると向かいのロビーにシアター1から出てきた学生風の若い二人の男が意気消沈した呈で腰掛けて、「初心者にも分かりやすい作りだったね」と感想を述べたのが聞こえてきた。その後二人は特に会話を交わすでもなく2,3分ほどうなだれるように座ったまま動かなかった。
第一章で印象に残っているのは、言峰綺礼というおじさんキャラクターだ。検索してみると若く描かれていた時があったらしい。これなどはFateを知らなければこの人物の魅力の奥深さが分かりづらいのだが、声優中田譲治の耳の裏にねっとりとまとわりつくような毒味のある声などは1度聞くと忘れられずクセになりそうだった。また激辛の麻婆豆腐を食べているシーンなどは、村上春樹の小説を読んでいたらビールやスパゲティを口に入れたくなるのと同じように口の中に唾が溜まるほどに美味そうなシーンだった。しかし筆者は小学生の時に少年団というボーイスカウトのようなものに入団していたことがあり、その行事の一環である夏の林間学校で年上の偉そうな小学生か中学生が作った激辛の麻婆豆腐を口にしたことがあるので、それが食べられない物であることは良く知っていたから、そのシーンを見ていてなんとも複雑な気持ちになった。今思えばその上級生ぶった小学生か中学生の男は、映画に出てくる間桐慎二と性格が似通っている。意地が悪くて性悪だ。嫌なことを思い出したシーンでもあった。
元々バトル系のアニメは余り好みではない。アニメのドラゴンボールも初期はストーリーが面白かったが中期以降はバトルシーンばかりで始まってから数分以上も前回の予告みたいなバトルシーンが続いたこともあり見るのを止めたクチだ。例外なのは新世紀エヴァンゲリオンのバトルシーンだが、それとて新劇場版ヱヴァQの後半のバトルシーンはもう旧エヴァの残り滓からギリギリ搾り取ったかのようなシーンで、庵野監督は本当は作りたくないんじゃないだろうかというような煮詰まり具合しか覚えなかった。その後シンゴジラであれだけの事をやってのけたのだから、やはり庵野監督の底力には感服するしかない。
Fateも動きが良いというのでこれも味わってみたかったのだが、好みでないバトル系を見たところで何か感じるところがあるわけでもなかった。そもそもキャラクターも知らないし下敷きとなる物語も知らないから感情移入できない。ということで、やはりこれは原作をよく知らないと味わえない映画なのだなというのがその時に抱いた感想だった。衛宮士郎と間桐桜の恋愛模様もなんだかとってつけたような話で盛り上がれない。それらの感想を映画を観に行ったレイヤーさんに話してみたら、自分は良かったと言っていたので、やはり知っている人と知らない人では感情移入に温度差がある。コスプレ写真などは原作を知らなくても撮れるし撮っていて愉しい。写真を撮るという行為は能動的で自ら歩み寄ることが出来る行為だからだ。自分の頭を働かせていくらでも自分で切り開ける余地がある。対して映画は劇場で1箇所にじっと座ってスクリーンを眺める受動的な体験だ。既に用意されたもの、作られたものを受容する行為だ。バックボーンを知らないと楽しむのが難しくもあるし、映画館の中ではまずスクリーンの物語を受容する事が主な人間的活動となる。アメコミ映画のヒーローが集結する『アヴェンジャーズ・インフィニティ・ウォー』を観た時にも同じ事を痛感した。物語を知らないからイマイチのめり込めない。しかしこのヒーローのコスプレ写真を撮るとなったら、知らなくても今までの体験からイメージが湧いてきて愉しく撮る事が出来る。劇場の中と外では全く変わってくる。ここで書いている感想も同じでこれは能動的な行為だ。映画館で映画を観て感じた摩擦によりあらゆる記憶が呼び起こされて感想が生まれる。
さて今回第二章を見に行くべきかどうか迷った。去年の年末にFGOを始めたので、Fateに興味が出てきたこともあるし、位置情報を利用したFGOの特典が上映中の映画館で貰えるというのもある。あとはせっかく第一章を観たのだから、ミリシラでも第二章も観ておくべきかという自分自身への義務感が生じたこともある。それに株主優待券を使って無料で観れるので、まぁ別に面白くなくても損はないだろうという事で観に行った。
不思議なもので、前作を観た時とは印象が異なっていた。初めのうちは前作の尾を引きずっていたが、なんだか段々とその世界観にのめり込んでいくのだった。まず冒頭のシーンで雪が降るシーンがあるが、これがとても美しい。ここでグッと掴まれて物語の中に没入していこうとする。不思議と自分の中でキャラクターが生きている感じがした。自分の中では作られた人形でしかなかった士郎と桜がなぜか今作では生き生きとしている。
今作で言峰綺礼はいつ出てくるのか、待ち遠しかったが少ししか出てこなかった。桜が「あの人、私には勝てないもの」という意味深なセリフを残すシーンに一瞬目が釘付けになった。
次々と出てくるサーヴァントもFGOをやっていたから聞き覚えのある声だった。アーチャーやライダー、アサシンといった名前で呼ばれていたが、自分が引いたサーヴァントやサポーターとして使ったサーヴァントが出てきたので親近感が湧いた。ギルガメッシュの放つ宝具もアニメだとこう表現されるのかと単純に感動した。ゲームと映画、声優が同じだということも。
バトルシーンは迫力があるが、まず老人の体から蟲がたくさん出てきて変化(へんげ)する動きの方に目を奪われた。これはなかなか滑らかな動き。この老人も前作同様曲者で、事あるごとに士郎を愚弄し操ろうとする。
間桐桜、前作では主人公である衛宮士郎の恋人という役割を果たしていたものの取って付けたような役柄で、原作ミリシラだからそう感じたのかも知れないが、しかしオリジナルの恋愛映画だってミリシラなのだからやはりどうも二人のシーンが恋愛シーンを差し挟む目的だけにあるようで退屈に感じてしまった。ところが第2作になると、前作とは打って変わってこの間桐桜が生き生きとスクリーンの中で動いている。これはどうしたことだろうか。第一章を観てその世界観の下地が育まれ、そこから幾分かの時を経て自分の中で萌芽し第二章を受け入れやすくなっていたのかも知れない。
Fateをよく知っている人とその話になった時に、第一作はいつも詰め込みすぎて退屈というような話を聞いた。一方で別の人は面白かったと言っていたから、こちらに気を遣ってそう言ったのかも知れないが、第二作はどうして、間桐桜が魅力的な女性に見えてきたのだった。清楚で可憐でそうかと想えば淫蕩で意志が強くて残酷で総てを見透かしていて力強い、それでいてやはり自分では処理できないほどの哀しみを抱えていて弱い存在でもある。およそ人間が生きているあいだに体験するであろう総ての要素がこの1人の女性に詰め込まれている。ツイッターでも映画について少しやりとりしたが、そのような事を言っている女性がいてなるほどなと合点がいったのだった。
あとは聖地探し。しかしこれは難しい。老人と対峙するシーンで一瞬この温室は山のあの施設だろうかとも思ったが、神戸であったり明石であったり東京の方であったりと聖地も色々あるみたいなので、まぁそこまで正確には分からない。
映画を見終わった後、この日はFGOとコラボしていて、スマホゲームを立ち上げて位置アプリと連動させるとFGOのアイテムが何か貰えるという事だったので早速実行した。2週間以上も前の事なので何を貰えたのかすっかり忘れてしまったが。
そしてパンフレットをパラパラとめくっていて原作者の奈須きのこのプロフィールを読んでいたら、ふと10年ほど前に大阪日本橋のとらのあなかメロンブックスかどこかで、『空の境界』という、同人誌にしては分厚い黒い装丁の本を1,000円か1,500円くらいで買っていた事を思い出した。確かアニメイトの上の階にあるメロンブックスのレジ前に黒い装丁のその本がうずたかく積まれていた記憶があるのだが、あの装丁が未だに頭の中に残っていた。もしまだ断捨離していなければクローゼットのどこかに仕舞われているはずだ。