どん底作家の人生に幸あれ! – 英国の文豪ディケンズの半自伝的小説を映画化

映画の予告編を劇場で見ていたら、彩色豊かな英国の時代劇の映画予告が流れてきた。ドタバタコメディのようで気になったが、後からポスターをよく見てみると、デイヴィッド・コパフィールドという名前が目を引いた。数年程前に岩波文庫で全巻買って結局半分程読んで放り投げてしまった小説の映画化と知ってこれは観に行かなければいけないと堅く心に誓ったのは、やはり予告編に流れてきたシーンがコミカルな演技で面白かったからだ。

それと同時に私が読んだ『デイヴィッド・コパフィールド』とは違う世界線の話のようにも思われて、本棚から引っ張り出してきて第一巻から再読することにした。当然1冊400ページ以上も細かい字でビッシリと詰まっている本5冊を数日の内に読み終えることは出来なかったが、残り100ページを残して第1巻目は読み終えることが出来、その内容を朧気ながらも思い出したのだったが、どういう生い立ちの登場人物だったかはすっかり忘れていて、冒頭などは『レ・ミゼラブル』のコセットの母親のストーリーを彷彿とさせるところがあったが、こちらの執筆年は1849年〜50年で、あちらは1862年なので、英国の方が早い。放り出した理由はしっかりと覚えていて、主人公のデイヴィッド・コパフィールドは学校に通わされることになるが、そこで邂逅した6歳上の上級生のスティアフォースがどうも大人を振り回す悪辣ぶりで好きになれないタイプで、読むのに嫌気がさしたからだった。しおりを挟んであるので第三巻のさわりまでは読んだことは確かなようなのだが、どうも話の内容を覚えておらず、スティアフォースの悪印象だけが記憶に深く刻まれることになった。

しかしながら1巻のほとんどを再読したおかけで、映画の冒頭が面白い程忠実に映像化されていてその再現美を楽しむことが出来た。ただ文庫本にして5冊ある分量の物語を2時間の映画に収める都合上、学校は工場に舞台を変えたり、他にも様々な改編があるようだった。

主演を演じるのはデヴ・パテル、インド系イギリス人俳優で2008年『スラムドッグ$ミリオネア』で一世を風靡。スティアフォース役のアナイリン・バーナードはどこかで見た顔だと思ったら、『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』で主役を張っていた役者だった。数年程前に4階にあるのに黴臭くてじめっとした広い劇場別館で観賞したが、その別館はコロナ禍のせいか、それとも先に述べた理由で評判が悪かったからか、それとも元から採算が取れなかったのか閉鎖された。むしろ閉鎖されて良かった。講演会や音楽会用のホールとして使用されていたのか四方の壁が白く、スクリーンの光を反射するので暗くならず映画に集中出来ないから上映向きではない事は一目見て分かった。まぁそれでも子供の頃の映画館は、人気作品はすし詰めの立ち見状態で、電車が通る度にガタゴト音がしたり、途中でフィルムが切れて中断したりして、震災でなくなってしまったがそれが神戸三宮の代表的な映画館の一つでの出来事だったのだから、映画視聴環境も子供時代から大きく変わったものだ。

映画のスティアフォースは小説とは違い好印象だった。そもそも役者の面つきも大きく寄与しているかも知れない。外国人の俳優を日本人の俳優になぞらえることをよくするが、どっしりとした骨格の山田孝之からアクを抜いて善性だけで形作ったような好印象溢れる甘いマスクの持ち主。このスティアフォースが結構な波瀾万丈を演じるのだが、小説冒頭で船の家に住む女の子に初恋をするもその運命を悲しんでいた理由を後のシーンから知ることが出来た。ただオリジナルでの相手がスティアフォースかどうかは定かではないから、これから読み進めていく内に知ることになるだろう。

他にも一癖も二癖もある登場人物が次から次へと出てくる。主人公の最大の理解者であり守護者でもある乳母のペゴティは言うまでもなく、校長としてではなく工場長として現れる声のかすれた太ったおじさんはちょっとしか出てこないのに「すしざんまい」の社長を彷彿とさせる程キャラクターが濃い。またその脇で工場長のお言葉を鸚鵡返しに繰り返す忠実な下僕も小説の映像化に見事に成功している。他にも処刑されたチャールズ一世の言葉を蒐集している老人はその奇天烈な性格からBTTFのドク・ブラウン博士を彷彿とさせ、カールした髪型がカワイイ世間知らずのお嬢様は苦労人の忠言を煙に巻く。コパフィールドの叔母ベッツィ・トロットウッドを演じるティルダ・スウィントンはどこかで見たことのある端正な佇まいと顔立ちだと思えば、ビル・マーレイとアダム・ドライバー主演のゾンビ映画『デッド・ドント・ダイ』でスターウォーズのルーク擬きの出で立ちで日本刀を振り回す怪演を披露していた。また意外な人物が悪役として跋扈することになるが、小説版も果たして同じ展開を迎えるのか。つまり小説を爽快に読み進めるために映画を観に行ったような向きもある。比較しながら読んだらまた面白いだろう。

小説版の第一巻は、義父となる男も出てくるのだが、今で言うところのドメスティックバイオレンスで恐らく逮捕されるようなことを度々やらかす。躾のための暴力と勉学は両立しないことを如実に物語る説話でもあるが、映画では影絵で済ませたかシーン転換で打擲の音だけで、結構暈かされていた。このご時世、世界的にコンプライアンスが厳しいのだろう。その後学校に追いやられるが、映画では瓶工場になっており、「猛犬注意」のプラカードを掲げられるところは同じだった。今なら児童虐待で問題視されるだろう。そもそもこの頃の産業革命真っ只中の英国の労働環境自体が児童虐待のようなものでもあるが。

キャスティングは、主人公がインド系英国人だけでなく、脇を固める俳優が黒人系、アジア系など、オリジナルの小説とは異なり様々な人種に彩られているが、この方式は中世を舞台にした『ふたりの女王 メアリとエリザベス』でも採られていた。元々英国もアメリカと似ていて人種問題を抱えており、過去には奴隷貿易で利得を挙げていただけでなく、世界中に植民地を持っていた関係で現地の移民も本国に入ってきていた事情もある為なのか、昨今のポリティカル・コレクトネスの風潮を踏襲しているためか、実際の人種とは異なる配役が割り当てられており、本作では黒人の母親の息子スティアフォースが白人だったりして、見ていて少し混乱するところもあった。イギリスの人種問題に関しては、アメリカで黒人が警官に射殺された事件に端を発した暴動の余波を受けて、港町ブリストルの地にまで及び、奴隷貿易で上げた利益で学校や病院を建てた商人の銅像がいよいよ打ち倒されたりしていて、実に複雑な事情を抱えている。ネットスラングで「ブリカス」とよく言われているが、その原因の一端が黒人を積み荷と見なして劣悪な環境においていた過去の負の遺産である奴隷貿易にもあるのだろう。

映画はハッピーエンドに転がっていく。結局最後に印象に残ったのは、冒頭で母親役として登場したクララ・コパフィールドと、恋人の1人で世間知らずのお嬢様ドーラ・スペンサーの二役を演じたスウェーデン人女優モーフィッド・クラークの可愛らしい一連の仕草だった。この女優は先述した『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』にも出演している。

監督は『スターリンの葬送狂騒曲』のアーマンド・イアヌッチ。なるほどあのドタバタ感とラストにはスピーディに話をまとめる手際よさが今作にも顕れており爽快だった。