ナチスのホロコーストで妻と子供を失った産婦人科医の40過ぎの男と、同じく両親を失った16歳の少女とが織りなす癒やしの物語。年齢だけを見てもただ事ならぬ展開に至るのではないかとどぎまぎするが、世間的に見てもやはり誤解を生じさせるらしく、公園で二人が膝枕をしていると如何にも道徳に厳しそうな身なりの女教師に見咎められて、後日共産主義体制風に詰問されることになるシーンでは緊張が走る。
第二次大戦終了後のハンガリーが舞台。社会主義国家ソビエトの息がかかった共産党政権が跋扈し、後にハンガリー動乱の悲劇が起こることにもなる国だが、映画の中ではまだスターリンが存命中。似たような時代設定で、ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督『残像』という映画があった。あちらは現代抽象アートの芸術家でもある大学教授が、共産党政権の方針に従わなかったために、館長とも懇意にしていた美術館に掲げられていた自身の前衛絵画がすべて取り外され、教室も共産党員に破壊され、画材道具を買うことも拒否され、年金も受け取ることを許されずに、体制により真綿で首を絞めるように殺されていく切実感溢れる映画だった。社会主義政策風に計画的に貧困に堕とされ餓死に追い込まれていくとでも言おうか。このハンガリー映画ではそこまで描かれず、糾弾の手もそれほど厳しくはない。ソ連とハンガリー共産党の影響はあくまで店内BGMのように背後に流れるに過ぎず、戦争で深い喪失を負った二人のプラトニックな愛に焦点を当てている。
しかしこの年の差である。トーマス・マンを原書で読むませた少女クララは周囲の大人を翻弄しがちだが、同じ喪失を負った産婦人科医アルドに心を寄せるようになる。その産婦人科医はというと、実に篤実な性格で、鎮静剤でも打たれているかのように終始沈鬱な表情をしており時折静かな笑みを瞳や唇に浮かばせることもあるが、内には晩秋の道端に斑紋を形作る落ち葉のように諦観の念は形を変えず残っているのがじわりと伝わってくる。
時折少女にせがまれて抱擁したり、一緒のベッドで寝たりするシーンもあったが、あくまでプラトニックラブで、その先へは進まない。やがて少女も心が成長して、最初は嫌っていたクラスメイトの男の子とダンスパーティに行くことになり、口紅を赤く塗ると、濃すぎるとアルトに窘められる。自分の手元から巣立っていく小鳥に焦りと相手のボーイフレンドに対する嫉妬を滲ませているように思われたものの、クララの方でも口紅を少し落としてダンスパーティへと向かう。このときはまだ二人の精神的な紐帯はほどけたばかり。しかしやがて大人へと脱皮したクララはボーイフレンドと仲睦まじくなり、アルトも年相応の新しい妻を迎え、二人のプラトニックな関係は完全に終わりを告げる頃に、スターリンの死がラジオから聞こえてきて、親戚一同が会した明るい部屋は、いっときの開放的な空気に包まれる。
プラトニック・ラヴの本来の意味
プラトニック・ラブ。語源は古代ギリシアの哲学者プラトンから来ており、日本語に直訳するならプラトン的な愛。17世紀の英国、シェイクスピア後の演劇の題目に『プラトニック・ラヴァーズ』という言葉が顕れたと言うが、これは肉体的な情交を伴わない精神的な愛という意味で日本でも同じように流布されている。しかしそもそもプラトンがその著書『饗宴』で描いている愛は、数々の美しい女の肉体を愛でていけば、いずれ精神的な美しさの方にも目覚めて、そちらの方が尊いと思えるようになり、やがては何者にも左右されない永遠の美を見いだすようになるという話で、後半部分だけを抜き出してプラトニック・ラヴと便宜的に名づけたのが流布したのだろうか。まるで女関連で放蕩し尽くした男が悟りを開いてひとかどの人徳者になるような話だが、言われてみれば真実味を帯びている。何ら肉体的体験もない初めから頭だけで道徳的な人間というのは、自分自身が正義であると勘違いして視野狭窄になり独りよがりの狭い了見で他人を糾弾しがちだが、そのようにして正義からかけ離れて人格も人生も破滅していく人間をこれまでに何人も見てきた。殊更道徳的、禁欲的な人間は信じてはいけないと考えるようになったのは、見た目に反して裏ではあくどいことをやっている事が暴かれていったからだ。聖職者の子供に対する性的虐待や、卑近なところではTwitterの捨てアカウントで誹謗中傷攻撃。道徳的な連中を一皮剥けば、七つの大罪の二つ、情慾と嫉妬にまみれた偽善者という正体が暴かれる。
やはり肉体的な体験から出た人生にはそれだけでも真実味がある。この『饗宴』も含めてプラトンの著作は暇が出来たときに書かれたものらしく、本人は書かれたものには重きを置いていなかったというのは、善なる為政者の養成を目的としたアカデメイアを設立したプラトンが、政治というものも水の流れと同じで有為転変と掴み所が無く、常に新しい考えに適応しなければならなかった所以からだろうか。
ヒヤッとさせられる共産主義国家体制下のムード
クララのボーイフレンドはというと、かなりの冒険者で、体勢に逆らうような事を度々しでかすお調子者で憎めない。沈鬱なムードが漂う物語の中で唯一面白おかしく演じている。
面白おかしいと言えば、カフェの壮年口髭ウェイターもホラー映画の登場人物のようでかなり癖が強い。昔見たシャーロック・ホームズのテレビドラマでも、原典には出てこないこの手の癖の強い髭の人物が唐突に顕れたりして目を奪うことがあったが、ケーキを注文する年若のクララに対しても氷山のように堅い表情を1mmたりとも崩さず忠実な藩屏のように職務をこなしていく。
二人で寝ている深夜、秘密警察がアパートの隣の部屋に踏み込み、身の危険を感じた二人は別々に暮らすことになる。ヒヤッとさせられるシーンが度々起こるが、それもすべて肩透かしで終わるのは、前述した『残像』と比べても、そこに重点は置いていない。
タイトルは『この世界に残されて』。大ヒットした映画『この世界の片隅に』を彷彿とさせるタイトルで、映画タイトルではしばしば起こることだが二番煎じが否めない。英語タイトルは『Those who remaind』、残された者たち。原題のAkik Maradtakも同じく「残された者」だそうで、どうも世界と聞くと、ミレミアム前後のセカイ系の物語を豊富ととさせてしまい色々と台無しなイメージがつきまとうのだが、この自意識が染み垂れたセカイ系の世界観も昨今では音楽界や映画で受け入れられているようで隔世の感がある。