キング・オブ・シーヴス – 実話のロケ地を舞台に老熟した泥棒達の暗躍と高齢故の失態を描く

映画館のカウンターで観たい映画をスタッフに伝える際に、映画のタイトルを当然口にするわけだけれど、上映中の映画のタイムテーブルに「キング・オブ・シーヴス」とカタカナ語で印字されているのを見て、シーヴスって何だろうとふとその意味するところが何を意味するかの理解に躓いた。「キング・オブ」は分かる。しかしシーヴス?、とタイムテーブルを目にして、シールズ?海に関係ある映画?と惑ったのだった。

往年の英国の名優達が一堂に会した宝石泥棒の映画であるという事は予告編も何度も見たし、映画館に行く前に館のホームページで確認して概要は読んでいたのだが、いざカタカナ語を目の前にするとサッパリ理解が掴みかねる。惑ったままパンフレットを購入したのだが、その表紙に原題が英語で載っているとすぐにその意味するところを掴めたのだった。

先日Twitterの方で外国映画のオリジナルのポスターと日本版のポスターのデザインの違いを比較して、日本のポスターはオリジナルのポスターのアーティスティックな持ち味を台無しにしているというツイートがバズって回ってきた。前にも似たような騒ぎがあり、あの時は白鯨(モビーディック)の米日ポスターのデザインの違いが槍玉にあげらていて、その前後だっただろうか、実際の映画関係者の立場から日本の映画ポスターはダサく貶めているというTwitter界隈の非難に対する釈明のような記事がウェブサイトで掲載されたことがあったが、その釈明に対してもTwitterでは非難囂々の向きがあった。

さて今回槍玉に挙げられていたのは、『ザ・ジェントルメン』という映画のポスター。琥珀色のウイスキーの入ったグラスに氷で彫刻された拳銃が銃口を斜め下にして突っ込まれている。そのポスターに映画愛好家からケチが付いた。比較されている日本のポスターの方を見てみると、タイトルのフォントがガラッと変わり、基からあるフォントを使ったというのではなく、Adobeのイラストレーターでデザインしたかのような独特のスタイリッシュなフォントに改変されていた。その上に連なる俳優達のフォントも、これは本国版ポスターの方はどのフォントを使っているのか正確には判別が着かないが、日本のフォントに例えると、明朝体がゴシック体に変えられていた。文字の端が撥ねているかいないかの違いで、たとえばTimes New Romanのように撥ねていれば格調高いイメージに仕上がるが、日本版のポスターはゴシック体になっていてそれも台無しだという。

その失われた格調高さを別の部分で補うためだろうか、本国版ポスターにはない豪華な枠が日本版ポスターに縁取られていた。

ツイートに連なる返信を見ると、9割方ツイート主の不満に同調していた。しかしTwitterというのは数が多いからと言って、またファボやリツイートが多いからと言って、更に言えばフォロワーが多いからと言って正しいことを言及しているとは限らないのは、これまでにTwitterで起こった様々ば騒動を見てきている方ならお分かり頂けるだろう。そもそも何が正しくて何が正しくないのかなんていうことは、その人が生きていた人生にも深く関聯することだから、個別の体験や感覚を基にすると白黒つきにくいところがある。

では実際に、度々起こる、日本の映画のポスターはオリジナル版と比べるとダサいという指摘は、正しいのだろうか。

そもそも映画のポスターというのは、集客のためにある。集客というのはどこでするかと言ったら、街中や映画館に掲げたり、ホームページで告知したり、レビューサイトに載せたりする。では実際に外に出てみよう。街中には通りを行く人達の消費欲を刺激する様々な看板やポスターで溢れかえっている。駅を出れば、居酒屋のチェーン店や歯科医、産婦人科医ほか医院の看板、パチンコ屋、美容院、その他飲食店の看板などが空まで覆い尽くし、周囲は賑やかで色彩の魔法が氾濫している。それら資本主義が親近感のある姿に形を変えて古くからの隣人のように錯覚させるデザインが我々を見下ろし消費行動を促そうと躍起になっている。それらのデザインは消費者の注目を引きつけるように、心理学や色彩学などに基づいて計算高く練られたものだ。我々は普段はそこまでデザインについては気にかけない。それは当たり前の日常の中にある一風景だ。しかしながら自分で何かのポスターをデザインする段階になって初めて、それら街中に溢れているありふれたデザインや色は、日常の一部分だとやり過ごしていたポスターや新聞の折り込みチラシは、人間の行動原理に基づいて入念に練られた結果であることを痛感することになる。

さてこれだけ色彩の暴力が溢れ物欲を刺激して止まない街中で、件のアーティスティックな本国オリジナル版のポスターが掲げられていたらどうか。それは通りかかった人々の目線を引かないのではないか。よしんば普段とは異なるスッキリとしたデザインに一瞬意識が奪われるとしても、隣に掲げられている派手なポスターの方に視線はすぐに移ってしまうのではないか。そもそも映画のポスターではなく、ウイスキーのポスターと見紛うのではないか。

本国オリジナル版の方がアーティスティックなポスターで良いと言っても、映画のポスターは他の広告が溢れかえる街中で宣伝するために刷られるもので、四方を白亜に覆われ静けさに満たされた美術館にポツンと飾られるわけではない。半世紀後には『映画ポスターの歴史』のような展示会で飾られる事はあるかも知れないが、興行主はそんな未来の先まで待てない。すぐ利益を上げて制作費を回収しなければならないのだ。その為の映画ポスターでもある。街中ではまさに通行人の視線の奪い合いが夥しいわけだが、その中でアーティスティックなデザインにこだわっていては、効果が期待出来ないというのが、映画関係者の本音ではないか。

では実際に本国オリジナル版のアーティスティックなポスターが日本で採用されたらどうなるか。これはこれでまた批判が集まるのではないか。Twitterに度々出てくる「ロバと老夫婦」の4コママンガのように、何をやっても、彼らが望む通りにやっても次から次へと難癖をつけて非難されるのと同じ事が起こるのではないか。こんなポスターでは目立たないとか、どんな映画か内容が分からないとか、挙げ句の果てにはポスターはアートじゃないスカしてるスノッブだ調子に乗ってるとか(これは出る杭を打ちがちな日本人にありがちな非難だ)。それも日本版のポスターを批判していたその同じ口から、そういった批判が漏れてくる可能性も捨てきれない。

そもそも英語をそのまま日本語に変える際に同じフォントを使ったからと言って同じイメージや効果になるとも限らない。日本は昔から時代の節目に隣国中国や遠い西洋の良い部分を取り入れて、それを日本の風土や国体、感覚に合うように造り変えて独自の制度や文化を形作り発展させてきたという経緯がある。銀行一つとっても、アメリカとイギリスの良い部分を即ち日本の実情に合う部分を折衷して取り入れたという。映画のポスターにも同じ事が言えるだろう。アメリカ人やイギリス人と比べて日本人にアーティスティックな感性を持ち合わせた大衆が少ないかどうかは定かではないし、むしろ芸術に対しては勉強家が多いとも聞くからそれ故に映画のポスターに対して注文が付くのだろうが、少なくとも一目でパッと見て好奇心を引きつけるデザインは、集客というポスターの本来の目的には叶っているのではないか。また、日本のように高度に発展した資本主義国で、日々刺激溢れる広告の中で暮らしている様な状況では、刺激の少ないポスターはむしろ日本人の肌に合わないのではないか。最近阪神大震災で被災した地域を久しぶりに訪れてみたのだが、見違えるように街並みが変わっていた。まるで金持ちが集う店のような豪華な建物やお洒落なスイーツ店が建ち並んでいたのだが、その地域はむしろ下町寄りの普通の地域だった。25年以上前と比べると明らかに街の景色は刺激的になっているし、広告のデザインも洗練されている様に思われてならない。

主演は英国を代表する名優のマイケル・ケイン。最近では『キングスマン』で腹に一物あるスマートな悪役を演じたかと思えば、『グランドフィナーレ』では妻思いの老成した指揮者を演じており、もう棺桶に入る役しかないみたいなことを本人はぼやいているが役柄の広さには感嘆する。この『グランドフィナーレ』もオリジナルのタイトルは『Youth』と濁音のない実にスッキリとした響きのするタイトルで、日本語版のタイトルと比べると重厚感はない。映像美が売りの監督で『ローロ 欲望のイタリア』はその意味では実に秀逸な作品だったが、『Youth』の方は実におとなしめで、時折グランドフィナーレというイメージのする映像シーンはあるが、その大半はトーマス・マン『魔の山』を下敷きに据えたようなサナトリウムでの精神性に高次な生活が描かれている。この映画はポスターの方も派手で、その部分だけを見ると実に面白そうだったのだが、蓋を開けてみるとその落差に愕然としてしまう程で、全く肩すかしを食らわされたような気分で悪いイメージを抱いた。こんな映画なら初めから内容に添ったデザインのポスターにすれば良いのにとも思ったのだが、実際にはあの派手なシーンの写真とそのタイトルに惹かれてこうして鑑賞したのだから、興行主側からすれば目先の目的は成功しているわけだ。目先だけとも言い切れない。肩すかしを食らったとはいえ知らない監督を知り、次回作に興味を持ち観に行って今度は良い映画だったと思ったのだから、長い目で見れば顧客を獲得していることになる。

このマイケル・ケインが今回は伝説的な泥棒の役を演じるワケだから、泥棒でも善人のように見えるが、話が進むにつれて化けの皮が剥がれてきて無欲に見えた老人の澄んだ眼光が欲に澱み本性を表す。それでもケインが演じるブライアンはまだマシな方で、他の練熟した老バーグラー達の中には、半分ボケているようなのも居れば、怒らせるとそこらのチンピラ擬きよりも威圧感のある恐ろしい老人達もいる。無事仕事が終わり家で分け前に預かるシーンで、この中では一番若い40代の悪事に関してはまだまだ無垢な男が平等に別けようと神妙に提案すると、1人の老人が椅子を床に叩きつけて男を威迫し、もう1人のガタイの良い男は阿吽の呼吸で冷静沈着に(逆にそこが恐ろしいのだが)言葉で脅す。このシーンを見ているだけでも、人間関係の事実を見せつけられているようで、この映画を選んだ価値があった。

宝石泥棒実行中は無欲な眼差しであたかもその行為自体を愉しんでいる愛嬌すら覚えた老泥棒達の面々が、利得を分ける段階になってあくどくなっていき、我々とは別人格、別世界の道徳に生きている人間だと気づかされる。最後には全員が捕まるシーンで正義の観客は溜飲を下げる事になる。このシーンもマイケル・ケインの演技は見物。どういう立ち振る舞いを見せるのか最後まで目が離せなかった。

この映画は実際にあった事件を描いている。撮影ロケ地はダイヤモンド取引の中心地ハットンガーデンで、実際に宝石窃盗事件が起こった街でもある。映画が始まってしばらくしてから、通りの賑々しい様子が映されている。それならまだ分かるが、夜に強盗に押し入るシーンもハットンガーデンで撮られているようで、夜の俯瞰した通りのシーンを観ていて良くこんな撮影が出来たなと普段写真撮影をしている筆者としては羨ましい程。

先日Twitterの方で基になった実際の宝石事件の顛末を取り上げたテレビ番組のワンシーンのスクショを掲載したツイートが回ってきた。映画についての言及はなかったが、なぜ警備員が店の中で調べなかったかというと、そこまでの給料は貰っていないという面白エピソードとして紹介されていた。そういえば少し前にも同じスクショを見かけたことがあったが、最近起こった事件で、40代後半のプログラマーが三井住友銀行他のコードを流出させたとかでTwitterの炎上からニュースに発展し、そのプログラマーが年収300万円で氷河期世代の犠牲者・時代の犠牲者と皆同情していたのだが、どうも炎上した経緯を確かめてみると、とても同情出来るものではなかった。

その騒動もあり宝石泥棒の警備員の面白エピソードが世界的な格差社会時代を象徴或いは世に訴えかける事例として再び脚光を浴びたのだろうが、映画の中では警備員の行動に関してはそこまで深く面白くは描かれてはいなかった。

実際に起こった事件の方は前代未聞の宝石泥棒という事で、大ニュースで報じられたのを朧気ながら覚えていたが、映画だけでなくドラマの方でも『ハットンガーデンの金庫破り』というタイトルで2019年に制作されている。

本編中には俳優達の過去の出演映画シーンも織り交ぜらており、これが英国映画の60年代の黄金時代を象徴するシーンかと観ていると、乗っている車のデザインも実に英国風で洒落ていて、冒頭のタイトルの英字の出現からも洒落た造りの映画だったが、むしろ劇中で挟まれている古い方の映画も見てみたいと思わせる程。皆若くて血気に溢れた面つきをしている。という事で60年代の英国映画巡りをAmazonプライムで出来るか模索中。

最後に再びポスターの話。英語をそのまま使ったポスターは幾ら英語教育を中高6年間受けてきたのが平均的な日本人でも分かりにくいだろうが、かといってカタカナ語に直した英語をそのまま使っても、それが慣れ親しんだ言葉でなければ分かりづらい。最近は政府や役所、企業の方でも、コンプライアンスだとかレギュレーションだとか、挙げ句の果てには森騒動の際にはアンコンシャス・バイアスだとかが出てきて、自分だけは意味が分かっている素振りのその上から目線の言葉選びにいい加減にしろよという感じだが、明治維新・文明開化の折りには、西洋から輸入された言葉をどう日本語に直そうか先人達は必死になって練りだし発明したものだったが、そのことが日本独自の言葉を守ったとも、インドの言葉の現状と比較して言われており、昨今の長ったらしいカタカナ語の氾濫は、エリートの傲慢というか、怠慢というか、安直に広げて使うことで、英語の素養の低い者までがカタカナ英語を得意げに使って中身のない空っぽな自分語りに埋没している連中もあり、一体このカタカナ英語をそのまま使う風習はどの辺りから始まったのかと思っていたら、ちょうど先日読んでいた40年前の学者の書いた本にも「デマンドする」などと突然出てきてその意味が掴みかねて面食らったのだった。その当時その使い方が流行っていたのか、奇を衒いたかったのか、格好つけたがるのは知的水準の上下には関係ないようだ。

さて筆者も実際このレビューの中で日本では日常的に使わない幾つかの英語をそのままカタカナ語に変換して使ってみたが、その印象は如何だっただろうか。実にイメージが掴みにくいのでは無かっただろうか。映画の日本語訳タイトルがダサいというのも、そう遠くない過去の名作タイトルの使い回しが多くて一理あるが、かといってカタカナ語のままでは伝わりにくい、いっそ英字のままで記してくれた方がスッと意味が入ってくるから、やはり英語のタイトルを日本人の趣向に合うように、また集客効果が上がるように変えるのは、翻訳する者の腕の見せ所と言ったところだろう。