寂光院 – まほろば探訪 第63回

寂光院本堂。
寂光院本堂。

建礼門院徳子と聞くと、どことなく華麗なイメージが膨らむ。しかしその名が想起させるイメージとは異なり、彼女の人生は波瀾万丈に満ちている。

父は従一位太政大臣にまで上りつめたあの平清盛。高倉天皇に嫁ぎ、後の安德天皇を産む。清盛のクーデターにより後白河法皇が幽閉され(治承三年の政変)、翌年に高倉天皇が安徳帝に践祚すると国母となる。「平家にあらずんば人にあらず」と平家一門が驕り高ぶる中で平氏に対する反発は日に日に高まり、以仁王が発した平氏追討の令旨を受けて、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵。また同じく令旨を受けて挙兵した木曾義仲が入京し平家を追い落とすと、建礼門院徳子は安德天皇を伴い平氏一門と共に都落ちする。京を制した義仲軍だったが、兵達の素行の悪さが京の人々の反発を買い、朝廷とも対立して争いが勃発、後白河法王を捕縛して幽閉し、天台宗の高僧明雲の首を川へ投げ捨てる。数々の横暴な振る舞いにより周囲の人望を失っていく中で、頼朝の弟である源義経が義仲退治のため京に馳せ参じる。宇治川の戦いで大敗した義仲はからくも落ち延び、栗津の戦いで討ち死する。

そののち義経は一の谷の戦いや屋島の戦いなど各地で勝利し、平家軍を追い落としていく。最終決戦となる壇ノ浦の戦いでは、はじめ平氏が優勢だったものの、潮の流れが変わり戦況は源氏に大きく傾く。平氏の敗色がいよいよ濃くなると、建礼門院徳子の母である二位の尼(平時子)は安徳天皇をかき抱いて「浪の下にも都の候ぞ」と海へ入水する。徳子も二人を追うように入水するが、源氏の兵に掻き上げられて一命を取り留めたのだった。

のちに徳子は許されて出家するが、京を大地震が襲う。それを機に京の山奥にある大原寂光院に隠棲することになる。

平家物語ゆかりの寂光院

平家物語の舞台ともなっている寂光院。最終巻では後白河法王が寂光院の徳子を訪れる場面があり、徳子が極楽往生して平家物語は終わりを告げる。寂光院に併設されている宝物殿「鳳智松殿」にはその様子を記した絵巻物の他に、十数年前に火災で焼失した寂光院本堂の菩薩像内部に安置されていた小型の仏像も展示されている。

紅葉の季節の寂光院。
紅葉の季節の寂光院。

寂光院の本堂は平成十二年(2000年)に心ない人により放火されて焼失してしまった。その際の新聞記事も鳳智松殿に展示されているのだが、それとは知らずに訪れたので、本堂に入り目に触れた折にはずいぶんと綺麗で歳月を感じさせない菩薩像だなという感想を抱いた。寺の人が寂光院の歴史について講釈する中で火災のことを知り、ふと俺の中の名探偵コナンが例の音楽と共に疼き出した。

縁結びの御利益もあるのだったかどうだったか、新緑の季節に訪れた際には、お賽銭を入れて菩薩像から伸びる赤い糸を摘まんだ記憶がある。

本堂から少し離れたところには、高い木々に覆われた天然の広い庭がある。ここに建礼門院徳子が庵を結んで質素に暮らしていたそうだ。

建礼門院徳子が庵を結んだ跡。
建礼門院徳子が庵を結んだ跡。
徳子が使っていた井戸。
徳子が使っていた井戸。
境内には木々高く聳える天然の庭もある。
境内には木々高く聳える天然の庭もある。
天気も良くて新緑が眩しい。
天気も良くて新緑が眩しい。

京都は盆地なので冬の時期はただでさえ寒いが、京都河原町からバスで1時間ほどかかる大原の地は更に寒いのではないだろうか。そのような寂寥とした地に隠棲していたとなると、寒さを凌ぐのにどのように暮らしていたのだろうなどととりとめのないことが思い浮かんだ。

パンフレットには聖徳太子創建とある。そういえば他にも聖徳太子が創建した寺院があったような。どこにでも出てくる聖徳太子、寂光院は父の用明天皇の菩提を弔うために建立されたとある。

秋の季節にも訪れた。大原は寒いので寂光院の紅葉は既に枯れ落ちているのではないかと思い外から様子を伺っていたが、まだ残っているようなので中に入る事にした。お寺の人が本堂で行う同じ講釈を今ひとたび聞き、ボタンを押すと流れる和歌と寺の由来などにも腰掛けて耳を澄ませる。広大というわけではない境内には日本独特の美の慎ましさが表れている。

ひっそりと佇む紅葉も良い。
ひっそりと佇む紅葉も良い。
苔に一筋の光。
苔に一筋の光。
ぽつんと立っていたお地蔵さん。
ぽつんと立っていたお地蔵さん。
紅葉の季節に。
紅葉の季節に。

平家物語の絵巻物の最後にある木こりの姿が気になった。新緑と紅葉の季節に訪れた寂光院。平家物語を原文で読んでみようかという気にさせてくれる。