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宝泉院 – まほろば探訪 第62回

京都大原にある額縁庭園で有名な宝泉院。
京都大原にある額縁庭園で有名な宝泉院。

慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の前哨戦と言われる戦いは幾つかあるが、そのうちの一つに数え上げられるのが、伏見城の戦いだ。

慶長3年(1598年)、天下人豊臣秀吉が伏見城にて薨去、にわかに天下の情勢が慌ただしくなる。秀吉股肱の家臣だった石田三成と五大老筆頭徳川家康との間で対立が表面化するなか、福島正則や加藤清正をはじめとする豊臣恩顧の大名らが家康に手なずけられ、三成排斥に動き出す。世に言う七将事件である。三成は佐竹義宣の屋敷に逃げ込み、義宣は家康に裁断を託す。家康が示した妥協策により、三成は居城佐和山にて隠居を強いられる事になるのだった。

一方で会津の上杉景勝に対し謀叛の疑いを弁明せよと上洛を促していた家康だったが、その返答とされる所謂直江状の無礼な文面に激怒し会津征伐を決断、慶長5年6月16日に大坂城を発ち、諸将と共に遠く上杉領のある会津へと向かう。一方で家康が京を留守にしている間に三成が反旗を翻した時の抑えとして、伏見城に鳥居元忠を置く。敵の只中に籠城させるこの下命は死を宣告するに等しかった。しかし元忠は躊躇うことなくこの死兵の役を引き受ける。忠誠心の高い元忠にしか担えない重要な役割だった。

鳥居元忠という人は、徳川家康が竹千代と名乗っていた幼少の頃からの忠臣だった。ある日家康が元忠に対しこれまでの功をねぎらうために官位を授けようとしたら、「それがしはただの彦左衛門で結構でござる」と突っぱねたという頑強な面を伝えるエピソードが残っている。この故事からも家康に対する忠誠心が高かった事が窺える。誠の武士であったのだろう。

家康の留守を突いて佐和山城で隠居していた三成が挙兵、小早川秀秋、島津義弘、宇喜多秀家ら率いる西軍4万の軍勢が伏見城にも押し寄せ、7月17日本格的に開戦する。鳥居元忠率いる2300名の城兵らは奮戦するも寡兵敵せず、元忠は雑賀孫市(鈴木重朝)に討ち取られて壮絶な最期を遂げたのだった。

その壮絶さを後世に伝えるのが、血天井と呼ばれるものだ。果敢に戦った城兵達の霊を慰めるため京都の幾つかの寺に伏見城の天井の遺構が安置されており、大原の宝泉院にも兵達の血に染まった床が天井に祀られている。足形や手形、鎧のような跡が見え、当時の激戦の名残を今に伝えている。

宝泉院は天台宗の寺院である勝林院の宿坊の一つとして、約八百年前に建てられ現在に至る。

宝泉院のすぐ側にある勝林院。
宝泉院のすぐ側にある勝林院。
宝泉院の門構え。
宝泉院の門構え。

境内には3つの様々な庭園を有している。造成された年代が古いものから最近のものまで幅広く、それぞれに独特の趣がある。

宝楽園の枯山水。
宝楽園の枯山水。
鶴亀庭園の手水鉢。
鶴亀庭園の手水鉢。
囲炉裏の部屋。
囲炉裏の部屋。

宝泉院でもう一つ有名なのが、額縁庭園だ。正式名称は盤桓園(ばんかんえん)と呼ばれており、立ち去りがたいという意味がある。新緑と紅葉の季節に訪れたが、昼に見るよりも紅葉のライトアップの時期に見た方が、まことに立ち去りがたい景色であった。

新緑の季節の額縁庭園。
新緑の季節の額縁庭園。
樹齢七百年の五葉松の幹だけが見える。
樹齢七百年の五葉松の幹だけが見える。
樹齢七百年の五葉松。
樹齢七百年の五葉松。
お抹茶と和菓子を頂きながら庭を眺めることが出来る。
お抹茶と和菓子を頂きながら庭を眺めることが出来る。

畳の部屋の奥、仏壇の斜め手前に座して眺めてみると、ちょうどバランスが良い。右を向くと静けさ漂う竹林と紅葉、左を向くと樹齢七百年の五葉松の幹が厳たる肌を披瀝している。

竹林と紅葉、五葉松の双方を見渡すことが出来る。
竹林と紅葉、五葉松の双方を見渡すことが出来る。

住職がやって来て血天井の逸話を講釈している。するするとこちらに近づいてくると、この位置がお庭を眺めるのに一番良い位置だと筆者を指して言った。

広い畳の部屋で柱と鴨居を額縁として庭園を眺めていると、暗闇の中から浮かび上がる優美な静けさと佇まいにいつまでも眺めていたくなる。

宝泉院の額縁庭園 宝泉院の額縁庭園。紅葉。

晩秋の大原は冷え込んでいた。京都の中心地から若干遠いため、人もそんなに多くはない。ポートレートを撮っている二人組の若い女性に、単身の女性、カップル、学生4人組、アマチュアカメラマンなど、同じ空間で皆思い思いに時を過ごしていた。

冬の到来を予感させる寒さの中で、ふと心が温まる一幕だった。

宝泉院ホームページ