ボヘミアン・ラプソディ – 映画ラストのバンドエイドのシーンが圧巻!

ボヘミアン・ラプソディ

有名なアーティストの楽曲がテレビコマーシャルに使われているのをテレビをよく視聴していた頃に見かけたが、クイーンのWe Are The Championsも缶コーヒーのCMに使われていて、それがきっかけでこの曲をよく知っていた。しかし誰の曲なのかを知るまでには数年の歳月を要した。

このように感受性豊かな中高生の頃に見たCMがきっかけで、ヒットした当時のことや歌っているアーティストの事を知らなくても若者達の人口に膾炙することがあるが、ヒットした当時のことを知っている往年のファンからすると、CMに好きなアーティスの楽曲が使われることに複雑な思いを抱く人もいるみたいで、村上春樹もビーチボーイズだったか誰だったか有名な曲がCMに使われているのを見て静かな怒りを覚えたというようなことをファンとの交流を記した本の中で述べていた覚えがある。

コマーシャリズムが楽曲の持つ本来の意味を毀損していたり、変なイメージが定着してしまうことに嫌悪感を覚えるのかも知れないが、かつてCMやバラエティ番組で聴いたこれらの曲を改めて本家の文脈を通して観たり聴いたりしてみると、金儲けのためにCMやくだらねーバラエティなんかに使いやがって!そのせいでそっちのイメージが頭らかこびりついて離れないじゃないか!と往年のファンと同じ感慨というか恨み節を抱くようになった。クラシック音楽にしてもそうだが、音楽が一企業やバラエティ番組の金儲けのために使われてしまうと、そちらのイメージが定着してしまい、本家の曲を聴いたときに滑稽さが頭の中で勝手に膨らみ笑い転げてしまう、その意識の沼からなかなか抜け出せない。

CMといえば、QueenのWe will rock youも、最近何かのCMに使われていた。中学か高校の学校の年配の校長先生が校庭の全校集会で話を始めようとして、マイクを強く握りしめて顔を力ませこの楽曲を歌い出すという、イメージの逆転を突いた見事なCMだったが、果たしてこれは元の楽曲の歌詞の神髄を毀損しているだろうかそれともQueenのファンが作ったのだろうか、純粋に大衆を刺激するための奇をてらった演出だろうか、よく言われているクリエイターが賞狙いのために作ったCMだろうか。あれこれとクソ真面目に考えていると思考が電気コードのように絡まって収拾が付かなくなった。イメージを毀損するような使われ方をしても人口に膾炙した方が良いのか悪いのか。先般のCMに全く脈絡のないかつての名曲が使われると曲のイメージを毀損するという批判を汲んでそのようなCMが出てきたのかも知れないが、どちらにしても落としどころは企業の営利活動のためという目的なので、複雑な思いを抱くことになる。大体どの歌にしてもTVCMやTVドラマ主題歌とのタイアップがないと認知度が低くヒットしづらい構造になっている。CMとタイアップすれば楽曲が売れる効果があるから、安易に否定も出来ないし、過去にもフレディのソロ曲が化粧品メーカーのCMとタイアップしていたらしい。

それにしてもWe will rock youを用いたCMの内容は靴で踏んづけた犬の糞のように記憶にしっかりとこびりついているのだが、肝心のどこの企業のCMだったか全く覚えていない。ということは、まさにクリエイターの賞狙いのために作られたCMと言うにふさわしいCMだ。やはりハズキルーペのように社長自らが制作したCMでないとどこの企業かも認知されないのだろう。CMというのは提供するのが良いサービスであろうがなかろうが資本力のある強者が弱者である大衆を電波の絨毯爆撃を用いて大衆が好む有名人やキャラクターなどあの手この手を使って気づかれないように興味を掘り起こして洗脳し物を買わせてお金を吸い上げる手段だから、やはりロックとは相容れない所があり、それが引っかかるといったところだろうか。劇中に流れる曲でラジオからクソみたいな音楽が流れてくるというような歌詞の曲が歌われる。正確な歌詞は忘れたが、ふと昨今の握手券付きでヒットチャート一位を独占しているアイドル集団のことが頭に思い浮かんだ(ちょうど映画を観たこの日の夕方からそのグループアイドルの卒業公演がライブビュー上映される予定だった)。要は秋元康とそのシステムをどう読み解くかという問題に帰結するのだろうが、その他の音楽にしてもまぁなんとなくではあるが似たり寄ったりのような気がしないでもない。どちらにしてもラジオも音楽も余り聴かないのだが。

劇場で予告編を見てこれは絶対見に行きたいなと思ってからはや数ヶ月、ボヘミアン・ラプソディの大ヒットが報道で伝えられ、観に行かなくてはと思っていたものの優待券や前売り券を買っていた別の映画を優先してなかなか見れなかったが、昨日コスプレ撮影の帰りのバスで映画の話が出たので急に何か映画を観に行きたくなり、ボヘミアン・ラプソディを選んだ。ポイントが貯まっていたので無料だったが、劇場は平日にもかかわらず、またそろそろ上映期間が終了しそうにもかかわらず観客は結構入っていた。50代から70代くらいの人も結構いた。ちょうど本日25日朝(現地時間24日)に米アカデミー賞が発表され、『ボヘミアン・ラプソディ』が主演男優賞他5部門を受賞した報道の影響かもしれない。

エジプト系アメリカ人のラミ・マレック演じるフレディ・マーキュリーの半生を綴った本作、フレディについてはエイズで若くして亡くなった程度しか知らなかったが、インドからの移民で、出っ歯で、ギョロッとした目つきなどに目を奪われた。どちらかというと髭を生やしたタフでワイルドな男というイメージが強かったが、映画初っぱなからそのイメージは崩れ去る。YouTubeでライブの模様は幾つか視聴したことがあるのだが出っ歯であることは全く気づかなかった。映画の全編に渡りこれらフレディの顔の特徴が目に付く。

髪をオールバックにして髭を生やしたフレディが自分の建てた豪邸で額縁を吟味するシーンでは、同じ役者かと思われるほどの様変わりだった。メンバーと話しているときも温和な性格に見えるが、CBSからの高額報酬に目が眩んでソロでの活動を薦めた側近や、バンドエイドの依頼を伝えなかった仲の良い側近に対して激高し関係をサッパリと絶つ一面も覗かせた。

ゲイというセクシャリティに関して丹念に描かれており、フレディが女性の恋人との関係で心が激しく揺れ動いた懊悩の描写などもある。男の仲間は多いが孤独に囚われていたり、終生の友となる男との馴れ初めはどこかユーモラス。しかし筆者はゲイではないのでその悩みが分からず、本作品からフレディの人間関係に関する孤独や苦悩に寄り添うのは難しかった。しかしトイレに入ろうとするガタイの良い男をじっと見つめるフレディの眼差しはやはり物語として、また人間の欲望の表現として面白みがある。

劇中ではクイーンの楽曲が度々流れて、様々な伝説的エピソードが描かれている。ラストではバンドエイドの模様が描かれるが、大観客の中で歌うクイーンのシーンは圧巻。大スクリーンだったので迫力を堪能できた。人間ドラマなら中規模程度の映画館の中サイズのスクリーンの方が綺麗に見えるので最適かなと最近感じるようになったのだが、ライブシーンや音楽シーンのある今作なら大スクリーンで観た方が良いと実感した。突き上げた拳を叩きつけるフレディの仕草は振付師が考えたものではなく、完全なアドリブだそうで、確かにYouTubeで本人のライブ映像を見たときはどことなく不器用な振りに見えたが、そう考えるとその直球のパフォーマンスには痺れるものがある。

ライブエイドでは母親に関する歌だったり自身の苦悩に関するものだったり、シーンを織り交ぜながら字幕で歌詞が流れるが、その言葉の一つ一つがこれまでフレディの人生の経緯を観てきた鑑賞者の胸に深く突き刺さる。ライブエイドの前にフレディは両親の元を訪れる。実直な性格で敬虔なゾロアスター教徒でもある父親はこれまでのフレディのセクシャリティ面での報道を見て気持ちを重くしていたのだったが、アフリカの飢餓を救うためのチャリティコンサートに出演し、父親がかつて息子に諭した家訓通りの善の行動を起こしたフレディを抱きしめる。そして早々に立ち去るフレディを名残惜しそうに見送るのだった。

映画を見終わった後にクイーンの曲をじっくりと聴きたくなった。昔TSUTAYAで借りてパソコンにコピーした音楽データが残っているだろうか、それともCDで買っただろうか。CMやドラマではなく映画を観て音楽を聴きたいと思ったから、より理解が深まり楽しめるかもという期待がある。というのも、CMやテレビドラマの主題歌から入るとどうしてもその曲しか聴かないのだ。アルバムを買ったところでCMやドラマに流れていた曲にしか興味が湧かない。ひょっとしたらコアなファンになるきっかけになるかもしれないが長い人生の中で今まではそうではなかった。コマーシャリズムが過度に浸食した音楽というのはその程度なのかもしれない。しかし本作のように直にクイーンとフレディ・マーキュリーを扱った映画から入ったならば、どの曲に対しても深い興味が湧くという期待感が今のところ大きい。