写真が趣味なので映画を観る時もついつい光を読んでしまう。今回の映画は二人の女子高生が海を背景に自転車を二人乗りしているポスターが凄く良い感じだったので封切られたら早速観に行こうと心に決めていた。しかし観てみると、どうも冒頭の教室の光が気に入らない。窓や扉の造りをみるに本物の教室なのだろうが、どうも全体的に暗めで右側の窓から光が強く入り、女教師の顔の右半分がやけに明るい。黒板もこんなに小さいものなのだろうか。教室の後ろにある黒板のような大きさだ。(以下ネタバレあり)
手前の男子生徒が一人だけ銀のレフ板を当てたようにギラギラと輝いていて不自然な感じだった。窓は後ろにあるのでこの光はどこから差し込んでるのだろうと疑問を抱いた。他の生徒の顔も何やら暗い。日本の学校の教室というのはこういう雰囲気だっただろうか。10年ほど前に観た『きみの友達』という映画では教室シーンの光はどうだっただろうか記憶を手繰り寄せてみたが思い出せない。他のシーンでもところどころ、このどぎつい光が役者の顔を照らしているシーンがあった。
どうも不自然に光を起こしているような感じがして、これなら自然光だけで撮った方が雰囲気が良くなるんじゃないだろうかとも感じた。もう1人のギターを弾く女の子の団地の部屋もどうも何か余分な光があるように感じられる。また或るシーンではフレアのような白い光がやたらとチラチラ画面の隅にチラついたりした。広角レンズなのかオールドレンズなのか、右下の緑のゴーストが気になるシーンもあった。
どうも光の使い方がなぁと思いながら観ていたのだが、ふたりが仲良くなって行くにつれて、段々と光が自然に感じられるようになった。夕暮れ時に路上ライブをするシーンでは、何度も夕陽が逆光で2人を包み込み、「やっぱり映画も夕陽の逆光だよね」という感想が頭の中で漏れた。先ほどまで気になっていたフレアやゴーストなどが今度は一転、青春の記憶のイメージを添えていた。その後もチラチラとチラついたのでおそらく演出なのだろう。待望の女子高生の制服ポートレートのような雰囲気のあるシーンも挟まれていた。先ほどは不自然と思えた団地のギターを弾く女子高生の部屋の光も自然な感じに見えた。
その後、男子生徒と吃音の主人公がモールのフードコートのテーブルで会話をするシーンでは、やはり二人だけにライトが当たっている感じで、周りのエキストラが暗くて、不自然さが再び蘇ってきた。
主人公の女子高生は吃音で悩んでいる。自己紹介で自分の名前が言えず、酷くどもる。映画の中では吃音という単語が一度も出てこないので、この症状が一体何なのか、映画のタイトルからこちらの予想していた以上に酷く言葉がつかえるので、一瞬何の映画なんだろう戸惑うことになるが、これは原作者の意図で、「吃音漫画にしたくなかった」という事だ。なるほど分かる。吃音という単語が出てくると、どうも道徳的な映画という先入観で観てしまうことになる。自分とは違う人の物語に思えてしまう。
母音の発音が初めにあると、酷くどもるとのことだ。エンドロールに吃音に関する団体名が幾つか出て、ああやっぱりあの子の症状は吃音だったのかということを最後になって強く意識する。映画の途中でも母親が吃音を治すセミナーのチラシを見せるのだが、そのシーンでも、あぁこの女子高生は吃音なのかな、と意識し出すようになる。教師が頑張って励ますのだが、それだけで吃音を克服する難しさが伝わってくる励ましの空回りっぷり。吃音だけでなく他の諸問題にもこの教師の空回りっぷりは共通しているのではないか。
3人の主要な登場人物がいて、人間関係の引力が変遷していくのが面白い。最初は入学式当日にありがちな不安の入り交じった人間模様が描かれていてドキッとさせられるが、やがてひょんな事から関わることになった音楽好きの女子高生と理想的な人間関係へと発展していく。しかしもう1人の男子生徒が異物のように入り込むことで、良好だった人間関係は崩れていく。そこから先、どのようにこの3人は壊れた関係を乗り越えていくのか。
バス停で夜を明かすシーンで吃音の女子高生が思いの丈をぶちまけるシーンでは、劇場内から啜り泣きが聞こえてきた。しかし観客以上にこの女子高生の涙の流し方が凄い。原作の漫画でもこれくらいに涙や鼻水やら涎やらを流したのだろうかと思わせるくらいに大いに泣くシーンが2度あった。
原作は押見修造の漫画。『惡の華』や『ぼくは麻里のなか』などの作品が話題になった。小説家では重松清が思春期の少年少女を描かせると巧いし幾つかの作品が映画化されていてどれも傑作だったが、漫画家では押見修造が思春期の性なども絡めたドロッとした物語が巧い。
さてこの作品の設定している年代はいつ頃だろう。公式ガイドブックを購入してパラパラとめくってみたが、言及されていない。どこかの田舎っぽい町。主人公の女子高生の部屋にはバブルラジカセらしき物がある。テーブルライトは一昔前の傘が被せられている。方やギターは弾けるが音痴の女子高生の団地の部屋にはミュージシャンのポスターが飾ってあり、ロッキンオンらしき雑誌を読んでいる。ミュージシャンのポスターには1993の数字。ラジカセではなくコンポが置かれている。2人が学校で仲良く音楽を聴くのに使っていたのはポータブルカセットプレーヤーだろうか。原作者の押見修造が1981年生まれとのことなので、1993年から1995年辺りかも知れない。白木屋の看板がボンヤリと写っていたし、町ゆく人のファッションも現代のものだった。作品の本筋とは関係ないので、これ以上は掘り下げても無意味だろう。
冒頭辺りの光の使い方が気にはなったが、それも中盤にさしかかるにつれ気にならなくなり、ほろ苦くも美しい青春映画に仕上がっていた。作品自体は10代の人間関係の難しさと障壁の突破が描かれていて、2時間のあいだ10代の頃にタイムスリップした気分だった。このような理想的な人間関係が現実でもあればなぁと思った次第。二人の女子高生役がとても良い雰囲気で本物の生徒のようで初々しくも味がある。もう1人のキーパーソンの男子生徒も強弱で魅せてくれた。