神戸三宮にあるジュンク堂書店のエスカレータを上がって二階にカレンダーのコーナーがある。その棚に陳列されている商品の中でひときわ目についたのが桜の雲海を写したカレンダーだった。手に取って場所を見ると、高遠城址公園とある。自然自分もこのような写真が撮りたくなってきた。
今年の桜は開花が例年よりも10日早く、生き急ぐように咲いては散っていった。高遠は信州の伊那にある。伊那は山深いイメージだから例年より早いと行ってもこちらの時期でいうとちょうど良い頃合いに満開になるだろうと踏んでいた。さて実際に四月に入り数日後に高遠城址公園の桜祭りのホームページに開花の宣言が成された。しかしせっかく高遠まで行くのなら、その北にある松本城も訪れたいし、一泊するくらいなら二泊して南にある富士山を見てみたいとも思ったのだ。というわけで二泊三日の旅となった。
高遠城の歴史
高遠城とはどういうお城だろう。歴史を紐解いてみよう。
高遠城と言えば、甲州崩れの際に、武田家御親族衆である武田信玄五男の仁科盛信が立て籠もった城としてその名を知られているのではないだろうか。時は1582年(天正十年)、木曽義昌の裏切りに端を発した武田攻めにより、織田信忠を総大将とする5万の軍勢が木曽路より襲来。他の武田諸将が寝返りや逃亡を繰り返す中、仁科盛信は家臣と共に高遠城に立て籠もり織田方の猛攻に備えたが、城は一日にして落城。盛信は切腹し、その忠節心と勇名は後世まで語り伝えられることになる。
高遠城は元々は武田信玄四男、武田勝頼の居た城であった。その頃は諏訪四郎勝頼と称していて、名跡諏訪家の跡継ぎとして信玄より期待されていた。そもそも勝頼は、信玄が滅ぼし自害に追いやった諏訪頼重の娘、諏訪御料人(湖衣姫)と信玄との間に生まれた四男で、その出自により諏訪地方の懐柔を意図して諏訪の名跡を継がせたという経緯がある。
更に遡ると高遠城は、川中島の戦いにおける啄木鳥戦法の献策で著名な軍師山本勘助と、東美濃遠山城陥落時の遠山御料人(おつやの方)との悲劇でも知られる秋山虎繁(信友)により大規模に改築されており、更に遡るとこの城は、伊那の国人である諏訪一族高遠頼継の居城であった。頼継は武田晴信(後の信玄)と手を結び、諏訪頼重を攻めたのだったが、今度は自分が信玄に攻められ軍門に降る事になり、その後自害に追い込まれている。
このような経緯があり、信濃侵略の重要拠点であった高遠城は武田晴信四男、諏訪四郎勝頼の居城となった。ところが義信事件が起こる。信玄の長男義信は甲相駿三国同盟により今川家より迎えた姫を正室としており、義信事件の頃には武田家には信玄派と今川派の派閥対立が生じていたという。1560年(永禄三年)に桶狭間の戦いで今川義元が織田信長の奇襲により討ち取られたことにより、信玄は弱体化した今川家への侵攻をもくろんでいた。ところが正室の実家でもある今川家を攻めることに反対した義信は、父信玄と対立。飯富昌景より、義信傅役である飯富虎昌の謀反の計画を知った信玄は義信を幽閉し、自害させたと伝えられている。
この一件で飯富昌景は山県の名跡を継ぎ、山県昌景を名乗ることになる。赤備えで戦場を駆け巡る昌景の精強な軍勢は勇名を馳せることになるが、徳川の井伊の赤備えや、大坂の陣における真田信繁の赤備えで有名な軍装を赤で統一する軍陣は、この飯富兄弟の赤備えに由来する。
武田義信の自害により、四郎勝頼が武田家の跡継ぎとなる。信玄次男の海野信親は盲目であったために僧となり竜芳と号しており、三男の武田信之(西保信之)は11歳で夭折していたためだった。
お家騒動と言えば、信玄自身も、若い頃に家臣達に押されて横暴な父信虎を駿河に追放して、甲斐国主となった人物であった。実の父を追放し、実の子をも自害に追い込む事になる信玄だったが、陰謀渦巻く下克上の戦国時代ならそう珍しいことでもなかったのかもしれない。お隣の徳川家でも、家康はお家騒動により嫡男の信康を自害させている。
信玄の父、甲斐を追放された武田信虎が晩年を過ごしたのが、武田信廉が城主であった頃の信濃伊那高遠の高遠城である。またこの高遠城は勝頼の長男で、武田家の家督を継ぐことになる信勝が生まれた城でもあった。武田信虎と言えば、1988年にNHKで放送された大河ドラマ「武田信玄」で俳優平幹二朗が演じた信虎像が未だに強烈だが、2016年に同じくNHKで放送された大河ドラマ「真田丸」で死の淵につく武田勝頼を演じ好評を博したのが平幹二朗の長男である平岳大だった。他にも「真田丸」では、大河ドラマ「真田太平記」で真田信繁(幸村)を演じた草刈正雄を真田昌幸役に据えるなど、キャスティングの妙とも言える。
後継者となった勝頼は高遠城を出て甲斐の躑躅が崎館に居を構える。名も諏訪四郎勝頼から武田四郎勝頼に改めた。しかし親族衆や家臣たちの中には、「あれは諏訪の人間」と見ていた者たちもいたという。そもそもかつて信玄が諏訪御料人を側室に迎えることに反発していた家臣たちもいた。
信玄の元、数々の戦いで武名を馳せた勝頼。織田信長との決戦を目論んでいた西上作戦の途上で信玄が没し、勝頼は武田家の家督を継ぐことになった。しかし実際には勝頼長男の信勝が元服のみぎりまで後継を務めるという陣代という地位であった。戦場において風林火山の旗の使用は許されず、「大」の旗印を用いた。元来は諏訪家の跡取りとして目されており、勝頼の名が、武田家の通字である「信」ではなく、諏訪家の通字である「頼」であることからも、複雑な立場にあったものと推察される。
信玄は偉大で勝頼は家を滅ぼした愚将だったとする見方もあるが、実際のところは信玄の放縦な外交政策に起因するお家騒動などの負の遺産が、武田家滅亡の根底にあるのではないだろうか。戦国最強と謳われる越後の龍上杉謙信と長きにわたり信濃の小さな領地を巡って争い、制圧が難しいと分かると今度は南に転進して駿河今川家を攻めてお家騒動を招き、西上作戦では三方原の合戦のような局地戦では徳川軍に大勝するものの、浜松城を攻めるでもなく、徳川を滅ぼすわけでもなく、頼みにしていた朝倉義景は越前から出てこず、信玄も信長と刃を交える前に途上で没してしまい、結果として何の果実も得られなかった。武田側に靡いていた三河の山家三方衆も、信玄没後は家康の下に戻り、武田家滅亡の遠因となる長篠合戦を誘発することになるのは僅か3年後の事である。設楽原で武田軍が大敗したことにより、数多くの有能な重臣たちを失い、それら家臣・侍達の僧や庶民になっていた二男三男を呼び戻してまで軍容を整えなければならないほどに軍事力が削がれ、武田家の屋台骨が揺らぎ始める。設楽が原の戦いにおいて、御親族衆の穴山信君と武田信豊が戦線離脱したことに、高坂弾正昌信は二人を切腹させるよう勝頼に進言するが、親族衆であることもあり、実行出来るはずもなかった。この点からも、勝頼は諏訪の人間として、親族衆より格下に見られ、戦場での統制もままならなかったことが窺われる。
また、西上作戦により、京を押さえ勢力を増しつつあった織田信長と手切れになってしまったことも、武田家の存亡にとって致命的となる。死の間際に信玄が、宿敵であった上杉謙信を頼れと遺言したことも、自分の死後の信長の勢力拡大を予知していた信玄の苦肉の策と見て取れる。ライバル同士が戦いを経て親近感を抱くことはよくあることだが、謙信は義の将でもあった。信長との決戦を果たせなかった信玄は、謙信の人柄に賭けるしかなかったのかもしれない。最終的に武田家は三面楚歌の状態に追いやられることになる。
これら信玄が残した負の遺産を継いだ上で、実質には北条と上杉の争いでもある上杉家のお家騒動「御館の乱」における勝頼の外交政策の空回りや、知行地を度外視した対外膨張政策などにより領国経営が行き詰まり、本拠地移転による新府城普請の賦役負担などをきっかけに国内の反発を招き、武田氏と婚姻関係を結んでいた木曽義昌の寝返りをも誘発し、織田軍の侵入を許した。
勝頼はまた時の運にも見放されていた。1582年(天正十年)、浅間山が噴火。武田家滅亡の凶兆として捉えられる。また浅間山が噴火したのは、信長が朝廷に依頼した祈祷で、朝廷側の神が浅間山の守り神に勝ったと捉えられたとも伝えられている。同年勝頼は信長により朝敵とされ、心理的にも武田家は追いやられることになる。
西に織田、南に徳川、東に北条と三方から取り囲まれ、頼みの北の上杉は御館の乱の騒動から立ち直っておらず他国を支援する余裕もなかった。満身創痍の武田家、まさに内憂外患の状態だったが、それでも勝頼は油断ならざる将として敵対する大名たちから見られていた。織田信長は、武田退治の総大将の息子信忠に、先走りするな、油断するな、自分が行くまで先に攻めるなと何度も手紙で諫めており、北条氏政も木曽攻めで武田軍があっけなく敗退し信濃への織田軍の侵入を許し諸城が早々と陥落したとの報告に、その報告は本当なのか、とてもにわかには信じがたい、虚報ではないのか、もっと裏付けを取るようにと催促した。結果軍を動かすのが遅れ、戦後信長からも軽くあしらわれることになる。
父信長から諫められていた信忠だったが、高遠城攻めでは総大将でありながら率先して前へ出て、城壁をよじ登り勇猛果敢に攻め立てたという。対する仁科盛信も奮戦するが高遠城は一日で落城。盛信は切腹してその短い生涯を閉じた。切腹時には腸を自ら掴み出し壁に投げつけて果てたという。享年二十五。
仁科盛信の忠節心から見ても、勝頼とは仲が良かったらしい。一説によると勝頼は武田信豊(信玄の弟 武田典厩信繁の長男)とも仲は良かったとされているが、信豊は家臣の裏切りにあい殺害されてしまった。画家そして信玄の影武者としても知られる信玄の弟、武田逍遙軒信廉は仁科信盛が入城するまでの高遠城城主でもあったが、とてもかなわぬと見ると逃亡して、戦後織田軍の執拗な武田狩りにより捕らえられ、斬首されている。信玄次男の竜宝も武田狩りにより、寺で自害したとも首を刎ねられたとも言われている。また織田軍は武田家の菩提寺である恵林寺を焼いた。住職の快川和尚が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言った逸話が残っている。恵林寺の他にも領国内の武田氏ゆかりの寺や神社が織田軍の手により焼かれた。領民に賦役を課し修造したばかりの諏訪大社上社も焼かれてしまった。土着の地縁血縁を排除し、織田による領国経営を円滑にするための政策と見られている。
武田勝頼は長男の信勝、北条夫人と共に郡内の小山田信茂の元に逃れようとする。途上家来たちの逃亡によりお付きのものは数えるほどしかなく、信茂にも裏切られ、武田家ゆかりの地、天目山を目指すも果たせず、滝川一益の手勢により追い詰められ、田野で自害。享年三十七。
勝頼の首は信長の元に送り届けられ、その際にぞんざいに扱われたとも伝えられているが定かではない。勝頼、信勝、信盛、信豊の首級は京に晒される事になる。
その三ヶ月後、明智光秀による本能寺の変により、信長は本能寺、信忠は二条城にて自刃。庶民の間では勝頼の怨念の仕業ではないかとの噂が立ったという。
当時甲斐国は織田家臣の河尻秀隆が支配していたが、本能寺の変の際に甲斐国人一揆が起こり、殺害されている。
徳川の世になり、高遠城は旧武田家臣の保科氏が居城となる。その保科氏の元に、徳川幕府第二代将軍秀忠の幼子が預けられていた。後に高遠藩主、更には会津初代藩主となる保科正之である。秀忠の正室であるお江の方は秀忠に側室を持つことを許さず、故に正之はお江の方に知られることなく、高遠城で育てられた。やがて三代将軍家光の代になり、江戸に呼び寄せられて、側近として重宝される。家光が死に、四代将軍家綱の代になると、幼い将軍をよく支えたという。先進的な名君としても知られていて、会津藩主時代には社創制にみられるような困窮貧民救済制度を敷いたり、領内の九十歳以上の老人に扶持を与えるなどの政策も施しており、これは年金制度の先駆けとも言われている。西洋の君主に例えるなら、啓蒙専制君主のような趣があったのではないだろうか。
JR伊那市駅からバスで高遠城址公園に向かう
JR中央本線を鳥のように渡っていったので、車窓からは木曽の山々が見えた。ヤフーの天気予報で伊那は前日に雪が降ることは知っていたが、その雪雲が木曽路に迷い込んできたのだろうか。雪が降ったりやんだりを繰り返した。山には山桜が所々に咲いている。これから咲くのかすでに散ってしまったのか。中国では春に降る雪は瑞雪といって吉兆なのだそう。今年はきっと良いことがあるに違いない。
始発でJRで出て、伊那市駅に着いたの昼の3時半頃。駅の外に出るとすぐにバス停がある。無人っぽい古いビルとパチンコ屋と、和菓子のお店。左手には電柱が折り重なった商店街。駅前だからコンビニの1つでもあるかと思ったが、見当たらない。地方の田舎では、駅前は寂れているが、バスで奥へと進むとピカピカに輝く真新しい一戸建てが立ち並んでいるということがよくある。実際にバスに乗って車窓から眺めてみたが、今回もそのような感じの町並みだった。帰りに徒歩で帰ってきた際に知ったが、TSUTAYAがあり、ケンタッキーフライドチキンがあり、ミスタードーナツがあり、マクドナルドがあり、カラオケのコートダジュールがあり、ドトールコーヒーがあり、セブンイレブンがあった。しかしどれも駅からそこそこ遠い。駅前にいただけでは、これらの現代的で全国展開しているチェーン店があるような街には見えない。まさに田舎的ステルスさで都会的な要素が隠されている。
地図上で見ると高遠城址公園までほぼ直線の幹線道路で、歩いても行けるんじゃないかと思ったが、実際帰りに駅まで歩いてみたら3時間超かかった。地図では1時間で行けそうな感じがする。これも田舎ステルス効果だ。一つ一つのスポットが近接しているように見えて、とてつもなく距離がある。
バスに乗れば20分程度で着く。そこから老舗の店が並ぶ幹線道路を15分ほど歩くわけだが、これがまた距離が長いように思われる。前の女の子二人は行けばなんとかなると言いながら歩いていた。本当になんとかなるだろうか。いかにも城下の道路にありがちな大きなT字交差点を渡り、高遠城址公園というだけあり小高い丘のような場所にあるので階段を上っていく。石垣があったと思われる場所は帰りに見たがコンクリートで固められていた。
天下第一の桜、高遠城址公園
入場料は500円。天下第一の桜と銘打っているだけあり、なかなかに繁盛している。中には屋台があり、土産物屋があり、ベンチに座って皆何かを食べている。腹が空いていたので、たこ焼きを買って食べることにした。お土産に高遠の桜餅も買ったが、結構な荷物になり、二泊三日の1日目だったので、次の日の夜までにあらかた自分で食べてしまった。
とにかく桜が咲き誇っている。遠いところから満開の時期に来られて良かった。カップルに夫婦連れにカメラマンにティーンエイジャーの集団に、種々雑多な花見客が様々な路で立ち替わり入り乱れ頭上を覆う桜を愛でている。ふとここが高遠城跡であることを忘れそうになる。それらしい遺構はないかと歩いて行くと、太鼓櫓を発見した。再現なのだろうが、城郭撮影で城の構造について読んだばかりだったので、これが太鼓を打つための櫓であることを知っていて、なおさら深みのある景色となった。
昼の部は早々に、1度公園を出て坂を下り、歩道橋を渡って、大きな白川橋を渡る。ダムと高遠湖と、高遠さくらホテルと、遠景には雪を被った山岳が見渡せる。まさに絵にして額縁に入れて飾る為にあるような光景だ。京都はどこを撮っても絵になるが、伊那の高遠のこの橋から見る光景も、非常に絵になるスポットと言える。
この先を行くと勝間薬師堂の枝垂れ桜が咲いている。高遠城址公園の桜から少し遅れて開花するといわれていたので、日程を一日ずらしてこちらの桜も撮る予定だったのだが、ずらしていなければこの地で桜と雪のコラボレーションを撮れたかもしれない。
遠くから見ると小高い場所に枝垂れ桜が咲いているのを確認して、山を登る。道を間違え田んぼのあぜ道の端の坂に迷い、曰くありげな巨大な岩と遭遇した。仁科五郎盛信と関係がありそうだが、そうではないらしい。お膳岩といって、婚儀などの際に必要なお膳をお願いすると翌朝その分だけお膳が置かれていたという。しかし誰かが狡して内一個か二個お膳を返さなかったら他のみんなも狡していって、ご利益もなくなってしまったそうな。多分村の偉い人が翌朝にお膳を置いたけれど、返してくれなくなったので、親切にするのも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまったのではないだろうか。教訓めかした岩である。
地図はプリントアウトしてきたのだが、実際に現場に立ってみると土地勘がからっきしない場所ではどこがどの道なのか分からないものだ。地図は読める男だと思っていたが・・・。こういうときにスマホのGPSが役に立つが、二泊三日の旅なのに充電器を忘れてしまい、ツイッターでも節電のために旅の間の三日ほど「どこどこなぅ」を速報の写真付きで呟けなかった。現金をあまり持ってきていなかったので、スマホがないとジュースも気安く買えないし、最悪電車にも乗れなくなる。
ここから仁科五郎盛信のお墓があるという五郎山まで2.6km程あるらしいが、さすがに寄っている時間はないので今回は諦めた。
白山観音から臨む高遠城址公園の桜の雲海
アスファルトの道路から神社へと続く山道に入り、またアスファルトの道に出て、「白山観音400m」の立て看板があるので近づいてみると、これは本当に道なのかというジグザグの登り道が見える。とりあえず登る。これは山道だ。空が青暗くなる中、なんだか登ってばかりだなとぼやき息を切らしながらしばらく進むと、十人ほどのカメラマンの一群が見え少しホッとした。なるほどウェブで調べた通り、前の方は三人くらいしか陣取れるスペースはない。それに撮影時に実感したが、枯れ枝が邪魔でせっかくの高遠城址公園の桜の雲海の両端が遮られている。
しかし電波塔か何かの土台のコンクリートのところに立ち、恐ろしく高く伸ばせることで有名なハスキーの三脚を使って撮っているカメラマンがいたり、斜面に陣取って撮っている強者もいた。あれは落ちそうで怖いから自分には無理だ。ということでのんびりジュースを飲んで待つことにした。
一人、また一人と満足して帰って行く。最終的に二人きりになった。その一人もお先に失礼しますと言って帰ってしまい、暗い山の中でひとりぼっちで撮影。心細いってもんじゃない。怖い。前に花火撮影の折に神戸の山から下りたときはイノシシに遭遇したが、今回はどうだろう。イノシシやクマ出没の看板はなかったと記憶している。
しかし美しい光景。ジュンク堂書店で見たカレンダーと同じような念願の写真が撮れた。ここまで苦労してやって来て良かった。しかし枝が邪魔だ。
ところで白山観音という名所。これなんだろう、観音様の像なんてあったっけ? 撮影スポットから細い山道がまだ続いていたけどあの先に観音様の像を祀った祠でもあるのかなとこの記事を書く際にネットで検索してみたら、円い柱に支えられた大きな石の観音像の写真が出てきた。え、電波塔か何かだと思っていたコンクリートの柱、アレ観音様の像だったの?? 夜で暗かったし上を見上げなかったから気づかなかった。電波塔みたいな柱とか失礼なことを申しました。
夜の山中に一人でいる寂しさと恐怖に押されて山を下りることにする。LEDライトを持ってきていなかったら確実に足を踏み外して転げ落ちるような山道。無事下山し、元来た道を戻り再び高遠城址公園へ。ライトアップされていて、昼よりも花見客は少ないように思われる。
昼の公園も良かったが、夜のライトアップも美しい。桜雲橋の問屋門の前の路に花びらの光を落としたプロジェクションマッピングも施されていた。そしてのびのびと咲く桜が夜空をハート型に象る有名な撮影スポット。
昼、夜、山からと3度美味しい花見となった。また機会があれば訪れたい名所だ。今度は人混みを避けて、桂泉院のあたりからのんびりと桜を愛でたい。