関ヶ原 後編 〜関ヶ原古戦場を駆け巡る〜 - まほろば探訪 第51回

笹尾山の石田三成陣地跡。
笹尾山の石田三成陣地跡。

本来なら10月の関ヶ原祭りがある時期に来るべきなのだが、青春18切符を買ったこともあり、関ヶ原をどうしても一度この目で見ておきたいという思いも強く、JR関ヶ原駅に降り立った。何度かこの駅は通ったことがあり、その際に見える駅に設置された東西両陣営の主立った武将と石高、居城などが記された看板を目にしたことがあったが、今回はいよいよあの天下分け目の関ヶ原の戦いが行われたという地に足を踏み入れた。

JR関ヶ原駅にある観光看板。
JR関ヶ原駅にある観光看板。

本当は石田三成の陣地跡を見てさっさと次の目的地に行く予定だった。この辺り一帯は城が多く、大垣城や岐阜城、名古屋方面に足を伸ばせば清洲城や名古屋城がある。この日はそのうちの幾つかの城も訪れる予定だったが、結果から言うと4時間超ほど関ヶ原の地を駆け巡り、結局目的地としていた城には1つも行けなかった。帰りの夜に桜のリフレクションがフォトジェニックな彦根城の外濠を観には行ったが、中には入っていない。

関ヶ原駅に降り立つと、観光協会の建物がある。職員のおじいさんが出てきて、色々とパンフレットを渡された。どれでも持っていって良いという。昨年の関ヶ原祭りの際に刷られたパンフレットもあり、関ヶ原のウォーキングコースが記されていた。信長の野望のイラストにあるような武将別のパンフレットもあり、力の入れようが凄い。

JR関ヶ原駅を出た向かいに設置されている看板。
JR関ヶ原駅を出た向かいに設置されている看板。
武将ごとに組まれたウォーキングガイドマップ。イラストが信長の野望のよう。
武将ごとに組まれたウォーキングガイドマップ。イラストが信長の野望のよう。

Illustration:長野剛とある。検索してみたら、信長の野望をはじめとしたゲームパッケージを手がけているイラストレーターだった!ゲームと現実が融合する町、関ヶ原。このガイドマップがよく出来ていて、自分の好きな武将の陣地を巡れるようなコースになっている。関ヶ原といっても広く、徳川家康が陣を敷いた桃配山から、石田三成の笹尾山、大谷吉継の山中村、小早川秀秋の松尾山と、歩くと結構な距離がある。そこで好きな武将に的を絞れば、その武将にゆかりのある地が優先して見れるコースに組まれている。

自販機も関ヶ原の合戦図でコーティングされていた。
自販機も関ヶ原の合戦図でコーティングされていた。

関ヶ原巡り。東軍諸将の陣営をゆく。

時間も惜しいので早速出発。まずは松平忠吉・井伊直政陣地跡へ。最初に鉄砲を撃ちかけ先陣を切った松平忠吉と井伊直政のコンビ。

井伊直政陣跡。
井伊直政陣跡。

東首塚もあった。ここに東西両陣営の戦死者が葬られている。

東首塚ののぼりが立つ。
東首塚ののぼりが立つ。
スダジイの古木のみが当時の面影を残す。
スダジイの古木のみが当時の面影を残す。

さて先へ急ぐと、電柱には真新しい広告板が貼り付けられている。関ヶ原の諸将やキーワードなどが表示されていて、これらの電柱の広告板が関ケ原町一帯に広く設置されている。なんとも観光協会の力の入れようが凄い。

「武将物語」や「戦国豆知識」と銘打った看板が電柱に貼り付けられている。
「武将物語」や「戦国豆知識」と銘打った看板が電柱に貼り付けられている。

田中吉政陣跡。関ヶ原の戦い終了後に石田三成を捕縛したことでも有名だが、三成とは仲が良かったそうだ。

田中吉政陣跡。
田中吉政陣跡。

すぐ隣が徳川家康の最終陣地で、論功行賞を行ったとされる床几場あともある。この地で首実検を行ったのだろう。

徳川家康最終陣地跡。
徳川家康最終陣地跡。
徳川家康の床几跡。
徳川家康の床几跡。
立派な案内板。
立派な案内板。

京都の有名な貴船神社の分社がある。

関ヶ原の貴船神社鳥居。
関ヶ原の貴船神社鳥居。

さて、先を急ぐ。関ヶ原歴史民俗博物館。ここでは色々展示されていて職員の方にも勧められたが、先を急ぐので今回はスルー。また別の機会に。

関ヶ原歴史民俗博物館。
関ヶ原歴史民俗博物館。
記念撮影も出来る。
記念撮影も出来る。

2000年には関ヶ原の合戦から400年を記念して壮大なイベントが開催されたそうで、碑が立っていた。何でも関ヶ原東西両陣営の合戦を再現したらしい。是非また開催して欲しい。

2000年に開催された関ヶ原イベントの碑。
2000年に開催された関ヶ原イベントの碑。

細川忠興陣跡。四角い池がある。桜なども咲いていた。ふと青い陣羽織にベルのような形の兜を被った佐々木功の顔が脳裏に浮かぶ。

細川忠興陣跡。
細川忠興陣跡。
細川忠興陣跡の碑。綺麗な石碑。
細川忠興陣跡の碑。綺麗な石碑。

幹線道路の横断歩道を渡る。近くにはコンビニがあった。畑を縫う道を上り、黒田長政と竹中重門の陣地跡を探したのだが、どうにも見つからない。トイレの脇の奥の山道を行ったところだろうか。

クマが出るらしい。
クマが出るらしい。
黒田長政の陣地跡を求めて山道を行く。
黒田長政の陣地跡を求めて山道を行く。
道に迷う。おそらくこの奥にあるのだろうが、時間がなかったので退却。
道に迷う。おそらくこの奥にあるのだろうが、時間がなかったので退却。

諦めて石田三成の笹尾山麓に向かう。途中山桜などもちらほら咲いていて荒野の中で春を感じさせる。

その前に関ヶ原古戦場決戦地を通りかかる。この決戦地というのがどのあたりの時刻の戦いを意味するのか分かりづらいが、案内板の解説を読むと、大谷勢が壊滅して石田隊に押し寄せる東軍諸将の軍がこの辺りにひしめき合ったということらしい。

関ヶ原の戦い決戦地。
関ヶ原の戦い決戦地。

辺り一帯はのどかな田園風景。そのような血なまぐさい戦いがあったとは思えないほど平和だ。空はあいにくの曇り空。先を急ぐ。

西軍諸将の陣営をゆく

石田三成が陣を敷いた笹尾山。
石田三成が陣を敷いた笹尾山。

いよいよ石田三成の陣地跡、笹尾山麓にやって来た。柵が設置されている。笹尾山という名の通り笹も生い茂っている。早速登ってみることにした。少し登るとすぐに見晴らしのいい高台に辿り着く。音声ガイド付きの案内板が設置されており、ここから眺めることの出来る山々についても明記されている。実際に関ヶ原の布陣、三成が見たとおりの戦場の様子を再現できるわけだ。抗してみると東軍は思っていたよりも近い位置に布陣していたのだなと実感できる。宇喜多秀家が布陣した北天満山の麓があり、小早川秀秋が居座った松尾山もアレがそうかと逐一感動してしまった。笹尾山から見ると、大谷吉継は結構深いところに陣取っていたようだ。遠く垂水町の南宮山の毛利は徳川家康の背後にあり、小早川秀秋が動かなくとも、毛利が南宮山を下りて徳川家康を攻め立てていれば、西軍の勝利は間違いなかったことだろう。まさに小早川勢と毛利勢が、東軍を取り囲んでいる。布陣だけで見ると、三成は完璧な布陣を関ヶ原の地に形成したと言える。

やって来ました笹尾山!
やって来ました笹尾山!
島左近陣地跡。
島左近陣地跡。
笹尾山からの眺め。
笹尾山からの眺め。

本格的な馬防柵もある。まるでコーエーの戦国無双の長篠の戦いに迷い込んだかのよう。ここは関ヶ原だけど。コスプレ撮影したい感ある。

笹尾山の馬防柵。
笹尾山の馬防柵。

笹尾山を下り、舗装された道を少し歩き、歩道橋を渡って島津義弘の陣地跡へ。なるほどここでじっと座って動かなかった訳か。木が生い茂って居るので、少し見晴らしが悪い。そういえば2017年に公開された映画「関ヶ原」では木々が鬱蒼と茂っているところに麿赤兒扮する島津義弘がスクリーンに映っていた。麿赤兒が関ヶ原の戦いを題材にした作品で島津義弘を演じるのはこれで2度目。麿赤兒の演技見たさに「関ヶ原」の前売券を買ったという経緯もある。

島津義弘陣跡。
島津義弘陣跡。
島津の十文字の旗が翻る。
島津の十文字の旗が翻る。

次に開戦地へ。井伊直政に連れ添われた初陣の松平忠吉勢が、先陣を担う予定だった福島正則に抜け駆けして、宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ちかけた場所だ。

関ヶ原開戦地。
関ヶ原開戦地。

すぐ近くに小西行長勢が陣を敷いた場所がある。桜が綺麗に咲いていた。

小西行長陣跡。
小西行長陣跡。
陣跡近くに桜が咲いていた。
陣跡近くに桜が咲いていた。
小西行長陣跡近くからの景色。
小西行長陣跡近くからの景色。

田んぼに囲まれた道を延々と歩き、宇喜多秀家の陣地跡へと向かう。本当にこの道で合っているのかなと確認しようとしたが、ルートを書いてあるパンフレットを落としてしまった。

長い一本道が田舎風情をかき立てる。
長い一本道が田舎風情をかき立てる。

宇喜多の旗が見える。まだこの奥を進むみたいだ。林に囲まれた道を行き、宇喜多秀家の陣地跡に到着。木々に囲まれて鬱蒼としている。

宇喜多直家の旗。ここはまだ入り口。
宇喜多直家の旗。ここはまだ入り口。
林の中を進むと・・・。
林の中を進むと・・・。
宇喜多秀家陣跡。
宇喜多秀家陣跡。
宇喜多直家陣跡の石碑。
宇喜多直家陣跡の石碑。

大谷吉継の陣があった山中村の山を登る

先へ先へと進む。三成の陣地跡で帰る予定が、せっかくだから三成の盟友、大谷吉継陣地跡も見ていこうと足が逸る。小さなダムにさしかかったところで、コンクリートの橋を渡ろうとする5匹ほどの猿の群れと遭遇した。大人の猿と子猿。父親ザルだろうか、キーーー!!と威嚇してくる。これはシャッターチャンスを逃してしまった。手前側の山肌には渡り損ねた猿が一匹居た。近づくと逃げていく。

こちらの様子をおびえながら伺う猿。
こちらの様子をおびえながら伺う猿。
山中に隠れている猿。ダムの橋を挟んで両側に5匹ほどいた。
山中に隠れている猿。ダムの橋を挟んで両側に5匹ほどいた。

橋を渡り終えて短い山道を歩いている最中もキッキと猿の鳴き声が聞こえてくる。どこかにまだ猿が隠れてこちらの様子を窺っているのだろう。

舗道に出る。工事のトラックがやってくる。バイクがエンジンの爆音をいつまでもふかしながら鳴り止まない。近くに平塚為広の旗が見えたので行ってみる。平塚為広の碑とあった。陣跡ではないのだろうか。まぁ大体この当たりだろう。

平塚為広の碑。
平塚為広の碑。

トラックが塞いでいる方とは違う道を行き、山道に入る。ここからはちょっとした山登り。息を切らしてようやく到着。念願の大谷吉継陣地跡。お墓もあった。ここに来た時点で喉がカラカラ。しかし自動販売機なんて山中にない。1本ジュースを駅までの自販機で買ったがすでに飲み干してしまっていた。

山中村の山奥にある大谷吉継の陣跡。
山中村の山奥にある大谷吉継の陣跡。
大谷吉継陣跡の碑。
大谷吉継陣跡の碑。

吉継のお墓もあった。隣にあるお墓は、吉継の介錯をして、首を隠した家臣の湯浅五助隆貞の墓。藤堂高則に首を隠しているところを見つかり、自分の首と引き換えに隠し場所を秘密にしておいて欲しいと頼んだという。

大谷吉継と湯浅五助の墓。仲良く並んでいる。彼の地で二人は何を思うだろう。
大谷吉継と湯浅五助の墓。仲良く並んでいる。彼の地で二人は何を思うだろう。

この近くに大谷吉継が松尾山に陣取る小早川秀秋勢の様子を伺った松尾山眺望地があるという。早速行ってみることにした。確かによく見える。

山中村が見渡せる。向こうに控えているのは松尾山。小早川秀秋陣跡の旗がうっすらと見える。
山中村が見渡せる。向こうに控えているのは松尾山。小早川秀秋陣跡の旗がうっすらと見える。
松尾山眺望地より臨む松尾山の小早川秀秋の陣跡。
松尾山眺望地より臨む松尾山の小早川秀秋の陣跡。
記念撮影も出来るよ!
記念撮影も出来るよ!

壬申の乱の不破関跡

案内板。歴史の名所だらけの関ケ原町。
案内板。歴史の名所だらけの関ケ原町。

山を下りると幹線道路が延び、トラックが走っている。ようやく自動販売機に辿り着いたが、トラックの排気ガスだろうか、外観が埃っぽい。冷たい飲み物を取り出し、水分補給。先へ急ぐ。

桜が綺麗に咲いていた。
桜が綺麗に咲いていた。

桜がぱっと咲いているところに出て、この近くに不破関跡があるという。行ってみたら、資料館に行き当たる。ここから先へは降りれないから、再び道を迂回して不破関跡へ。古風なお家の門構え。

不破関跡。
不破関跡。

不破関守跡。不破関が停廃されてから設置された。この当たりに不破関守の屋敷があったらしい。

不破関守跡。
不破関守跡。

壬申の乱の折りに大海人皇子が兜を掛けた兜掛石があるというのでいってみたが、普通に民家の庭先を通るような場所にあった。

壬申の乱の折に大海人皇子が兜を掛けたという石。
壬申の乱の折に大海人皇子が兜を掛けたという兜掛石。

山中村の大谷吉継陣跡を降りてからここまでずいぶん歩いた。これはきっと車があった方が便利だ。そういえば自転車をレンタルしていると書いてあったが、ここ10年自転車に乗ってないので乗れるかどうか不安。

再び東軍諸将の陣跡を巡る

福島正則陣地跡へ。井上神社前にあったということで、樹齢800年の大木は関ヶ原合戦図にも描かれている。

福島正則陣地跡。大木はさながら歴史の生き証人のよう。
福島正則陣地跡。大木はさながら歴史の生き証人のよう。
福島正則陣跡にある神社の鐘と大木。
福島正則陣跡にある神社の鐘と大木。
秀吉子飼いの大名であることを思い出させる豊臣の紋。
秀吉子飼いの大名であることを思い出させる豊臣の紋。

藤堂高虎陣地跡を目指し、比較的新しい住宅街の中を進む。どうやら中学校の敷地内にあるらしい。春休み中で良かった。ピカピカの真新しい校舎。入ってすぐ右に藤堂高虎と京極高知の陣地跡がある。やはり各武将の家紋の入った色とりどりの旗がひらめいてると、凄くたぎる。全国の武将が一堂に会して合戦に臨んだ関ヶ原に遂に来たのだと実感する。馬印バンザイ。

藤堂高虎・京極高知陣地跡。中学校の敷地内にある。
藤堂高虎・京極高知陣地跡。中学校の敷地内にある。

本多忠勝陣地跡も訪れたかったが、ここで断念。JR関ヶ原駅前に戻る。関ヶ原を駆け足でおよそ半周してきた形だ。家康の陣地があった桃配山と、小早川秀秋の松尾山には訪れることが出来なかった。毛利諸将が陣取った南宮山はもう一つ東の駅の垂井町にあるので、見送り。平地は駆け足で、山は歩きで、山中村を越えてからは疲労と喉の渇きからとぼとぼと巡った関ヶ原。関ヶ原古戦場を逆時計回りに半周したことになる。今度訪れるときはゆっくりと巡りたい。

本多忠勝の陣跡は見られなかったが、忠勝の家紋を記した物入れがあった。
本多忠勝の陣跡は見られなかったが、忠勝の家紋を記した物入れがあった。

JR関ヶ原駅には三大古戦場の看板が掲げられていた。1つは1615年のワーテルローの戦い。この戦いでナポレオンは再び帝位を追われ、セント・ヘレナ島に流される。1つは1863年のゲディスバーグの戦い。南北戦争最大の激戦地であり、アメリカ南北戦争は19世紀に行われた戦争の中で最大の戦死者を出したと言われている。そしてあと1つはここ、1600年の関ヶ原の戦い。この戦いを以て天下の趨勢は徳川家のものへと大きく傾くことになる。