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垂井町 相川の桜と鯉のぼり – まほろば探訪 第52回

垂井町相川の鯉のぼり。
垂井町相川の鯉のぼり。

1年ほど前に東大阪ジャンクションを撮りに東大阪市役所に夜訪れた際に、若いカメラマンと話が弾み、その日はいろいろな場所に行ってきたということだった。この後は大坂通天閣近辺を撮りに行くのだそうで活動的で感心したものだったが、彼が口にした「鯉のぼり」というキーワードが新鮮で、いつまでも頭の中に引っかかっていた。

昼には鯉のぼりを撮ってきたという。場所はどこだったか聞きそびれたのか記憶に引っかからなかったのか。川に鯉のぼりの大軍を掲げるのだそうで、それはきっと絵になるし、ニュースか何かで見たことがある。

鯉のぼりは男の子の憧れだ。格好いいし大きいし色が繊細でカラフルだ。何かしら夢や願いが詰まっているように見える。その夢がなんなのかは分からないが、とにかく5月の空に昇る大きな鯉のぼりは格好いいと肌で感じる。

しかし大きい鯉のぼりはお金持ちの過程にしかなかったように思う。うちはマンションので、そもそも大きい鯉のぼりは飾りづらい。どれくらいの値段がするのだろうと調べてみたら、2万円から11万円までと値段の幅が広い。3m級の鯉のぼりは買えないこともない。

さて、青春18切符を購入したので、これを機会に関ヶ原に急遽行くことになり、「関ヶ原 桜」でググったら、垂井町という地名のサイトが出てきて、雪を頂いた山を借景に、無数の鯉のぼりが空を舞っている写真が掲載されていた。

都会に住む人間にとって雪を被った山は憧れである。それに男の子の憧れである鯉のぼりが加われば、憧れ度も2倍ということで胸をわくわくさせながら垂井町を旅行コースに組み込んだのだった。

関ヶ原を4時間ほど駆け巡り、古戦場の空気をふんだんに吸い込んでから、東隣の駅の垂井町で下車した。ここもある意味お隣の関ヶ原古戦場と地続きのようなもので、南側にある南宮山は西軍総大将の毛利秀元と、「宰相の空弁当」で有名な分家の吉川広家、毛利の外交僧である安国寺恵瓊、五奉行の一人長束正家、四国の雄で大坂の陣では浪人五人衆の一人として大坂城に入城し数々の逸話を作った長宗我部盛親が陣取っていた。東軍側は中山道あたりに池田輝政、浅野幸長、山内一豊などが南宮山の西軍に対する抑えとして陣取っていて、これらの陣跡を見たいならば、関ヶ原駅よりも垂井駅の方が近いだろう。

垂井町の公式観光サイトを見ると歴史を感じさせるウォーキングコースも紹介されていて、時間があればこちらも巡っておけば良かった。今回は相川の桜と鯉のぼりがメインということで早速訪れてみることにした。

今孔明と呼ばれた秀吉の名軍師・竹中半兵衛重治の町 垂井町

JR垂井駅前の竹中半兵衛重治像。
JR垂井駅前の竹中半兵衛重治像。

駅を降りると竹中半兵衛重治の銅像がお出迎え。垂井町は秀吉の軍師であった竹中半兵衛の根拠地でもある。1544年(天文13年)に美濃国大御堂城に生まれ、1558年(永禄元年)に父重元が不破郡岩手村(現・垂井町岩手)の岩手弾正を攻め、ここに菩提山城を築き根城とした。

学問に秀でていた半兵衛だったが普段の言動がおっとりとしていて戦国気質ではなく、主君の斎藤家家臣から馬鹿にされていた。当主の斎藤龍興も酒色に耽り政を顧みず自分に都合の良いことを言う佞臣達を侍らせていた。1565年(永禄7年)、年賀の挨拶に登城した半兵衛を家臣達が侮辱する小事件が起こる。怒る家臣を制し何食わぬ顔で居城に戻った半兵衛は、斎藤家家臣安藤守就と共に一計を案じる。稲葉山城に人質となっていた弟を見舞う名目で城を訪れ、隠し持っていた武器で佞臣達を斬り殺したのだった。驚いた龍興は城から逃走、その後半年間、稲葉山城は半兵衛たちのものとなった。

これを聞いた織田信長は、美濃半国を与えるから稲葉山城を譲って欲しいと申し出る。しかし半兵衛は、城を奪ったのは主君龍興を諫めるためにしたことで、そのうち城は龍興に返すと言って信長の申し出を断る。

城を龍興に返したあとは隠遁生活を送っていたが、木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)が三顧の礼を以て半兵衛を軍師に迎える。信長の家臣になることは拒否し、秀吉の家臣として仕えることになった。

黒田官兵衛孝高と共に両兵衛と称される

本願寺一向宗との10年に渡る石山合戦の最中、信長配下の荒木村重の家臣が兵糧を一向門徒側に横流ししていた。このことを知った村重は信長に処刑されることを恐れ、有岡城にて謀反を起こし、城に立てこもる。その際説得に訪れた旧知の小寺孝高(のちの黒田官兵衛孝高)が、村重に捕らえられ土牢に入れられてしまう。官兵衛が帰ってこないことを怪しんだ信長は官兵衛も村重と共に反旗を翻したと誤解し、人質として取っていた嫡男の松寿丸を処刑するよう命ずる。しかし一計を案じた半兵衛は、身代わりの首を差し出し、松寿丸を菩提山城下に匿った。一年後して有岡城が落ち、官兵衛が救出される。官兵衛は半兵衛に感謝し、信長も半兵衛の機転に救われた形となった。しかしすでにこの時には半兵衛は病死しておりこの世になかった。享年36。

この松寿丸こそが、後の黒田長政である。関ヶ原の戦いでは、半兵衛の子重門と共に丸山より三成勢を攻め立てただけでなく、戦前に小早川秀秋や吉川広家の内応を取り付け、秀吉子飼いの福島正則などを懐柔し、東軍勝利に大きく貢献、関ヶ原の戦いにおいて一番の功があったと家康より大封を与えられる。

竹中半兵衛と黒田官兵衛は共に秀吉の軍師で、両兵衛とも称される。次世代の重門・長政になっても幼なじみである二人の絆は固かった。

JR垂井駅前にある竹中半兵衛重治の銅像、よく見ると、黒田長政が被っていた兜でお馴染みの一ノ谷形兜を半兵衛が被っている。これはどういうことかというと、一ノ谷形兜は元々は竹中半兵衛が被っていた兜だったが、死後に福島正則の元に渡り、関ヶ原の折に仲違いしていた長政と正則が仲直りし友誼の証としてお互いの兜を交換したという。自分を救ってくれた命の恩人の半兵衛の兜を被り関ヶ原の戦場を駆けた長政は陰に陽にと大功を立てることになる。

桜と鯉のぼりのコラボレーション!

咲き誇る桜と空を泳ぐ鯉のぼりのコラボが美しい。
咲き誇る桜と空を泳ぐ鯉のぼりのコラボが美しい。

垂井町に着いたのは午後2時。全く土地勘がないが、今回は鯉のぼりだけが目当てなので、相川を目指す。とっても駅を出て右に曲がって少し歩くと突き当たる。背景に山があると神戸在住の筆者としては、北に向かうことを連想させるが、地図で確認すると、横に寝かしたように相川は西北西の方角に流れていた。

相川の看板と桜。
相川の看板と桜。

端から早速目当ての鯉のぼりが見える。車道には桜が咲き誇り、川岸には車がたくさん駐車されている。川岸を降りて歩く。屋台が2,3件ほど出ており、花見客がレジャーシートを敷いて花見に興じている。若い韓国人の一団がギター片手にハングルで流行歌を歌い上げている。観光客なのか、留学生なのかは分からないが、他にもハングルを話す母子連れがいた。ここまで外国人観光客が訪れる程に盛況なのだろうか。

車道を覆う桜のアーチ。
車道を覆う桜のアーチ。
風が強く桜が吹雪く。
風が強く桜が吹雪く。
無数の鯉のぼりが空を登る。
無数の鯉のぼりが空を登る。

大勢の鯉のぼりが風に舞い空を優雅に泳いでいる。中古の鯉のぼりをリサイクルして有効活用しているということで、中には小学校の児童達の手作りの鯉のぼりとおぼしきものも舞っていた。天気は関ヶ原の時と同じく曇りがちでたまに太陽が覗く程度。借景の山の頂の雪も、今年は3月に夏日のような気候が何日かあったためか白が乏しい。

桜を借景にした鯉のぼり。浮世絵のよう。
桜を借景にした鯉のぼり。浮世絵のよう。
垂井町の鯉のぼり。 垂井町の鯉のぼり。 垂井町の鯉のぼり。 垂井町の鯉のぼり。 垂井町の鯉のぼり。 垂井町の鯉のぼり。 垂井町の鯉のぼり。

桜と鯉のぼりのコラボ。これが撮りたかった。夕暮れ時までのんびりと鯉のぼりの大軍が空を登る田舎町で時を過ごし、彦根城へと向かった。垂井町は南宮山が近く、関ヶ原の両陣営の跡地もたくさんあるのでまた関ヶ原に来た際に訪れようと思う。