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関ヶ原 前編 〜関ヶ原の戦いに至るまでの経緯から本戦まで〜 - まほろば探訪 第50回

関ヶ原決戦地。
関ヶ原決戦地。

前から一度行きたかった古戦場に関ヶ原がある。何度か東京に遊びに行った折に電車の車窓から関ヶ原で戦った武将達の名前と石高を記した看板が目に入るのだが、途中下車する時間もないし、かといって関ヶ原だけ行くことになると、交通費が結構かかる。

今回青春18切符でいろいろな名所旧跡を巡る計画を立てる中で、関ヶ原で途中下車してみようとふと思い立ち、早速翌日に行ってきた。

秀吉薨去でにわかに天下が揺るぎ出す

豊臣氏と徳川氏双方の装いを併せ持った大阪城天守閣。
豊臣氏と徳川氏双方の装いを併せ持った大阪城天守閣。

関ヶ原の戦いは1600年10月21日(旧暦:慶長5年9月15日)に生じた天下分け目の戦いとして有名だ。徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍あわせて16万〜18万人の兵が、関ヶ原の地に集結し、雌雄を決する戦いに挑んだ。この戦いに勝利を収めた家康はその後天下を手中に収め、その3年後には征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に就任、江戸に幕府を開くことになる。

話は遡って関ヶ原の合戦からおよそ2年前の慶長3年8月(1598年)、天下人豊臣秀吉が伏見城にて薨去。その折には五大老と五奉行に「かえすがえす秀頼のこと頼み申し候」と遺言し幾たびも誓紙を差し出させたという。

秀吉没後に、律儀者で知られた徳川家康がにわかに動き出す。秀吉の命令に反し、池田輝政や伊達政宗などの有力大名と婚姻関係を結んで家康勢力に囲い込み、我が友と慕う謀臣本多正信と共に天下取りの策略に乗り出す。時には高圧的に、時には泣き落としで、豊臣陣営の武将達を抑えつけ、宥めすかし、心を蕩けさせたりするところなどは姑息で、老獪な家康が狸親父と呼ばれる所以であろう。

徳川家康という人

徳川家康とはどういう人物であったのだろうか。順を追ってみていきた。

徳川家康は三河の大名松平家の生まれで、父は松平広忠、母は於大の方、幼名は竹千代といった。幼少の頃は隣国尾張の織田家に対抗するため、今川家に人質に出されることになったが、家臣に欺かれ織田秀信の元に送られてしまう。その折に少年時代の信長と昵懇になったという説がある。父広忠は織田信秀の策謀により若くして家臣に殺され、以後松平家は今川家の属国扱いを受けることになる。後に人質交換で尾張から駿河の今川義元の元に送られることになり、幼少期は駿府で過ごす。その際に今川家の軍師、甲相駿三国同盟の締結に東奔西走したことでも知られる大原雪斎の薫陶を受けたとされる。幼少時の体験が懐かしかったのか、老年になって家康は二元政治の舞台ともなる駿府城に居を構えることになる。

永禄3年5月(1560年)、駿府より上洛を果たそうとした今川義元の軍勢25000に対して、織田信長率いる5000の兵が奇襲し、田楽狭間の地にて今川義元の首を獲る。世に言う桶狭間の合戦である。この上洛では家康(当時の名は松平元康)が先鋒を務めていたが、義元が討ち取られたことで空になった三河岡崎城に入城し、独立を宣言する。名も元康から家康に改め、尾張の織田信長と清洲同盟を結ぶ。権謀術数渦巻く弱肉強食の戦国時代にあって、清洲同盟は信長が本能寺で斃れるまで20年もの長い間、固く守られることになる。

数年後に松平渦中を二分した三河一向一揆が発生。一向一揆側に着いた家臣の一人には後に知恵袋として暗躍する本多正信もいた。その後紆余曲折を経て正信は帰参を許され、晩年は徳川幕府の中枢にいて権勢を振るうことになる。

信長による朝倉義景攻略中に背後から浅井の裏切りを受け袋小路となった金ケ崎の退き口では殿を務め、1571年の姉川の合戦では浅井・朝倉勢の攻勢に崩れかかった織田軍を良く助け、織田・徳川連合軍を勝利に導く。国境を接する武田氏とも幾たびも刃を交え、1572年、信玄西上作戦の途上に発生した三方原の合戦において大敗を喫するが、空城の計を案じて一命を取り留めた。

長男信康は織田信長の長女である徳姫を嫁に迎えていたが、姑の築山殿(今川義元の娘)との折り合いが悪く、徳姫が父信長に信康の行状を讒言したために重臣の酒井忠次が召し出され、信長が本当かと問うと庇うでもなく仰せの通りだと応じたため、信康を切腹させるよう命じられる。信康の才気を信長が恐れた為など諸説あり、ドラマなどでもよく知られる悲劇だが、或る説では徳川家内の親子対立を起因とするお家騒動が本当の原因で、酒井忠次が信長の元に赴いたのは、信康の処断について徳姫の父である信長からあらかじめ了解を得たかったのだという。だとすれば、隣国武田家の信玄・義信親子の派閥抗争と似たような構造でお家騒動が起こっていたということになるし、徳川の筆頭家老格であった忠次が家康の嫡男を庇わなかった話も、それに対して信長が「如何様にでもせよ」と信康成敗を黙認した話も辻褄が合う。

天正10年6月(1582年)、本能寺の変にて織田信長斃れる。堺を見物中の家康は観念して切腹を覚悟したが家臣が思いとどまらせ、後に神君伊賀越えと称される本国三河への逃避行を敢行。服部半蔵の助力でどうにか三河に逃げ帰った家康は信長の弔い合戦に挑もうとするものの、山崎の地において既に羽柴秀吉の軍勢により明智光秀は討たれていた後だった(山崎の合戦)。本能寺の変についても諸説あり、秀吉が裏で糸を引いていたとか、明智光秀の兵の中には、てっきり堺にいる家康を襲撃しに行くものだと思っていたという証言もあるという程、織田家中で家康殺害は暗黙の了解となっていたという説もある。

天正12年(1584年)、織田信雄に請われて陣を張った小牧長久手の戦いでは、およそ3倍の秀吉軍を翻弄し、中入りを敢行した池田恒興、森長可など信長時代の重臣達を討ち取っている。このように戦術面では勝利したが、戦略面では信雄と和議した羽柴軍の勝利だった。

のち秀吉に大坂城に上洛するよう請われ、最初は断っていたが、秀吉の姉朝日姫を正室として迎えることになり、更には実母の大政所をも人質として差し出されては無下に断るわけにも行かず、大坂城に赴いて臣下の礼を取る。その際、秀吉の陣羽織を所望し、この家康が来たからには秀吉の手を煩わせることはないと言わしめて秀吉を感激させたという。

このような経緯から家康は律儀者とみられていた。清洲同盟は信長の死まで20年にわたり継続していたし、旧主君筋から請われれば与力する。ところが秀吉が没してからは人が変わったように天下取りの野心を燃えたぎらせる事になる。

秀吉の忠臣、石田三成は家康の野心を見抜いていた。なんとかして家康を排除しようと奔走するが家康の方が一枚上手。最も頼りにしていた前田利家は秀吉の後を追うように没し、すでに秀吉家臣の間では、国境を接する小西行長と加藤清正の対立から文治派と武断派の対立が生じてした。慶長の役の論功行賞の遺恨も引きずり、事ここに至り七将襲撃事件が発生。家康の元に逃げ込んだ三成を差し出せという加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興ら七将に対し、三成を佐和山城に隠居させることで矛を収めさせる。

石田三成の人となり

西軍の実質総大将と言われる石田三成は豊臣秀吉の忠実な家臣だった。三成の人となりを示す幾つかのエピソードを紹介しよう。

秀吉が鷹狩りの帰りに近江にある観音寺に立ち寄り、喉が渇いていたので茶を所望した。佐吉(後の三成)と呼ばれる小僧が大きい茶碗になみなみと注がれたぬるい茶を持ってきた。秀吉はそれを一気に飲み干し、もういっぱい所望した。同じ小僧が今度は中くらいの茶碗に注がれたやや熱めの茶を持ってきた。秀吉はそれも飲み干すともういっぱい所望した。今度は小さな茶碗に熱い茶が注がれていた。子細行き届いた心配りに触れた秀吉は佐吉の才覚を見抜き、小姓として取り立てた。という逸話が残っている。

また或る茶会の席で、1つの茶碗で茶を回し飲みをするという催しがあった。らい病を患っていた大谷吉継が飲んだ際に、顔から垂れた膿が茶に入ってしまった。その後は皆嫌がって飲むふりをしたが、三成だけは何も気にすることなくその茶を飲んだという。大谷吉継と石田三成が強い信頼関係で結ばれたエピソードとして知られている。

戦働きの方はどうだろう。小田原征伐の折には秀吉の命で忍城を水攻めにするが、堤防が決壊し失敗してしまう。賤ヶ岳の戦いの折には「賤ヶ岳の七本槍」の活躍が喧伝されているが、三成も戦場で大いに戦働きをしたという話が残っている。

戦場の面ではあまり目立った活躍はないが、後方支援の面では並々ならぬ才覚を発揮した。文禄・慶長の役の際には、豊臣軍を朝鮮半島に速やかに輸送するための船や物資を効率よく割り当てた。

しかしこの文禄・慶長の役が三成にとって運命の分かれ道となった。秀吉の忠実な家臣だった三成は正義感が強く、諸将達の狡や怠慢を許さなかった。小早川秀秋をはじめ、黒田官兵衛孝高、加藤清正などが三成の報告(言われた方の立場からすれば讒言)によって秀吉から勘気を被り、三成を恨んだという。

三成の壮大な計略、家康包囲網

佐和山に隠居した三成だったが彼は諦めなかった。五大老の一人で会津の上杉景勝の家臣、直江兼続と連絡を取り、家康を挟み撃ちにする策を練る。家康は上杉景勝に上洛するよう求めたが頑なに拒否。直江状と呼ばれる書状を家康に送り、その中で秀吉の遺命を守らない家康を責め激怒させた。これを機に家康は会津討伐の兵を挙げる。

下野国の小山に到達したところで、三成が挙兵したとの報告が届く。諸将を集めた家康は、三成に加担する者は責めないからこの場から立ち去っても良いと一世一代の大博打に出る。三成嫌いの福島正則は清洲城を明け渡し内府に付き従うと言明。その他の秀吉の配下だった武将達も続々と家康に靡いていく。この小山評定と呼ばれる歴史的シーンで、一人だけ三成に加担した小大名がいた。また小山評定の場には居なかったものの会津征伐途上で三成側に靡いたのが真田安房守昌幸である。その後昌幸は上田城に立てこもり、徳川秀忠軍3万の軍勢を釘付けにして関ヶ原へ遅参させた。もし関ヶ原の戦いが半日で終わっていなければ、あるいは逆転劇もあったかもしれず、昌幸の功績は計り知れないものとなっていただろう。

西へと取って返した東軍だったが、家康本隊はなかなか江戸から出ようとしない。業を煮やした豊臣諸将は家康への手土産として岐阜城を攻め立てる。守るのは織田信長の嫡孫で清洲会議において秀吉に担ぎ出された三法師、織田秀信。しかし福島正則・池田輝政などの諸将が攻め立て岐阜城は敢えなく陥落する。

対する西軍は伊勢方面を攻略、北陸方面では大谷吉継が前田利長勢を翻弄する。

伏見城の戦い

伏見城は家康の老臣、鳥居彦左衛門元忠が守りを固めていた。そこへ島津義弘、小早川秀秋勢ら西軍が城を囲み、城の明け渡しを要請。再三の使者を立てたにもかかわらず元忠は開城を断る。城への総攻撃が始まり、伏見城は敢えなく落城。元忠は雑賀一族の鈴木重朝に討ち取られた。後に鳥居家が改易に匹敵する不行跡を起こした際、伏見城の戦いでの元忠の功績が引き合いに出され、鳥居氏を取り潰すには元忠の功があまりにも大きすぎるとして国替え減封に免れている。

田辺城の戦いでは、歌人でもある細川幽斎が大軍相手に善戦

一方、丹後田辺城では、細川幽斎が500の兵で15000の西軍を相手に籠城戦を展開していた。取り囲む西軍の中には幽斎を歌道の師と仰ぐ諸将達もいて戦意が乏しかったこともあり、半月近く持ちこたえたものの落城寸前となる。しかし古今和歌集の解釈の秘伝である古今伝授を当時唯一相伝されていた幽斎が死に、古今伝授が永久に失われてしまうことを惜しんだ朝廷が仲裁の勅使を送り、幽斎は一命を取り留めることになった。「芸は身を助く」を地で行く逸話。この田辺状の戦いにおいて、西軍15000の兵は城に釘付けにされ、関ヶ原への到達に遅れてしまう。もし到達していれば西軍が勝利していた可能性もあるだけに、幽斎の功は大きい。

大津城の戦い

大津城では京極高次が西軍から東軍に寝返り、籠城を決め込んでいた。大津城が降伏するのは関ヶ原の当日。西軍諸将15000の兵は関ヶ原に間に合わず大津城に釘付けにされた形となった。京極高次の妻は悲劇の浅井三姉妹の一人お初(後の常高院)で、大津城陥落により、小谷城、北ノ庄城に続き、三度落城の憂き目を見ることになった。

第二次上田合戦で翻弄される徳川本隊

中山道を急ぐ徳川秀忠の軍勢3万は、信州上田城を守る真田昌幸の策略にはまり翻弄されていた。第二次上田合戦である。昌幸は巧みな計略を駆使して上田城に押し寄せる秀忠の軍勢をけんもほろろに撃退。徳川本隊は数日間上田城に釘付けにされてしまう。その後木曽路を急ぐものの難所で行軍は遅れ、秀忠は関ヶ原の本戦に遅延してしまうことになる。家康をして「信康が生きていれば」と言わしめた失態であった。

慶長5年9月15日、東西両軍が関ヶ原に布陣

石田三成、宇喜多秀家、島津義弘など西軍諸将は大垣城に集結したが、東軍が石田三成の居城佐和山城を攻撃し、そのまま大坂城へと進軍するという噂が流れたため、大垣城を出て南宮山の南を迂回し、関ヶ原へと向かう。対する家康も岡山を出て関ヶ原の桃配山に向かった。

関ヶ原は高原に囲まれた盆地で、東西に中山道が通り、東は木曽路、西は近江・京へと向かう。中央からは北に北国街道、南に伊勢街道が延び、交通の要所でもある。672年の壬申の乱の折には大海人皇子の命を受けた多品治が不破の道を封鎖しており、乱後には不破関が設けられた地でもある。歌枕の地としても有名で数々の和歌に詠まれており、江戸期には松尾芭蕉の俳句にも登場する。

西軍の石田三成が関ヶ原に到着したのは午前1時頃で、関ヶ原の北西、笹尾山の麓に陣取った。総勢5000。その前方を三成の家臣・島左近清興、蒲生頼郷(横山喜内)がそれぞれ1000。島左近は「三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近に佐和山の城」と呼ばれたほどの名将で、再三仕官を断る左近に対し、三成が2万石という破格の禄を持って迎えたという逸話は有名である。

石田三成が陣を敷いた笹尾山。
石田三成が陣を敷いた笹尾山。

二番手は島津義弘勢1500、内訳は島津義弘750、島津豊久750。

島津義弘陣跡。
島津義弘陣跡。

三番手は小西行長勢6000が北天満山の麓、四番手宇喜多秀家勢17000は南天満山前方に五段構えの陣で布陣。

小西行長陣跡。
小西行長陣跡。
宇喜多秀家陣跡。
宇喜多秀家陣跡。

三成到着前にすでに野営で陣を敷いていた部隊もおり、山中村の山深い地に大谷吉継勢600、平塚為広勢・戸田重政勢合わせて660、山中村に大谷吉勝勢・木下頼継勢が合わせて1700。松尾山にはすでに陣を敷いていた美濃大垣城主・伊藤盛正を追い出した小早川秀秋が15000の兵で陣を敷いていた。松尾山の前方には、赤座直保600、小川祐忠2100、朽木元綱600、脇坂安治1000の4隊を配置。これは小早川秀秋の裏切りを予見していた大谷吉継が、秀秋の抑えとして置いたとされる。

山中村の山奥にある大谷吉継の陣跡。
山中村の山奥にある大谷吉継の陣跡。
大谷吉勝らが陣を敷いたとおぼしき山中村の谷あい。
大谷吉勝らが陣を敷いたとおぼしき山中村の谷あい。
松尾山眺望地より臨む松尾山の小早川秀秋の陣跡。
松尾山眺望地より臨む松尾山の小早川秀秋の陣跡。

毛利勢の布陣

関ヶ原の東に位置する南宮山には総大将の毛利秀元勢15000、その前方、南宮山の麓に吉川広家勢4200、同じく南宮山の麓、南宮大社の近くには毛利の外交僧で毛利家を西軍に引き込んだ安国寺恵瓊1800、後方に、五奉行の一人長束正家1500、同じく南宮山の後方栗原山に長宗我部盛親勢が6000。

東軍の布陣

対する東軍は、一番乗りの福島正則勢7200が中山道近くに南天満山の宇喜多秀家勢と対峙する形で布陣。続いて田中吉政勢3000、筒井定次勢6000が中山道の北側、北国街道辺りに布陣。福島正則の背後に藤堂高虎勢2400、京極高知勢3000が布陣。

福島正則陣地跡。
福島正則陣地跡。
藤堂高虎・京極高知陣地跡。
藤堂高虎・京極高知陣地跡。

二番手、細川忠興勢5400、加藤嘉明勢3000が石田三成勢と対峙する形で布陣。同じく黒田長政勢・竹中重門勢5000が最右翼にあたる丸山に布陣。

細川忠興陣跡。
細川忠興陣跡。

三番手の徳川勢は井伊直政3600、松平忠吉3000、本多忠勝勢500が東軍についた豊臣諸将の後方に布陣。寺沢広高勢2400が梨の木川の近くに布陣。古田重勝1000、織田有楽500、金森長近1100、生駒一正1800が後方に布陣、徳川家康30000は桃配山の麓に布陣。

井伊直政陣跡。
井伊直政陣跡。

一方南宮山の毛利勢の抑えとして、池田輝政勢4500、浅野幸長勢4800、山内一豊勢2100、有馬豊氏勢900が関ヶ原東方の中山道あたりに布陣。

午前8時、開戦

戦いの始まりは霧の晴れた午前8時。井伊直政に連れられた松平忠吉が福島正則勢の前を通り抜けようとし、正則配下の可児才蔵に制止されるが、初陣の忠吉に戦場を見せたいと言い繕って通っていく。これは秀吉子飼いの福島正則に先陣を切らせない為の策略だった。正則に先陣を切らせれば後の論功行賞において豊臣恩顧の大名に最も多い知行地を与えなければならない事になる。

正則の陣を通り抜けた井伊勢が宇喜多秀家勢に鉄砲を撃ちかけ、対する秀家勢も鉄砲で応酬し関ヶ原の戦いが始まった。

関ヶ原開戦地。
関ヶ原開戦地。

福島正則勢は宇喜多秀家勢と対戦。二倍以上の兵力のある宇喜多勢に対して、福島勢は果敢に攻め立てる。宇喜多勢の勢いに押されて引き返してくる味方の兵に対し正則は「死ね!死ね!」と叱咤したという。

山中村の大谷吉継勢に対して、藤堂高虎勢・京極高知勢・寺沢広高勢が襲いかかる。

一方笹尾山方面では、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、田中吉政が石田三成勢に襲いかかる。対する三成は腹心島左近が応戦。左近は緒戦にて鉄砲傷を受け人事不省に陥る。大筒などでも反撃を試みるが、入れ替わり立ち替わりで攻め立ててくる東軍諸将に対してやや押され気味になる。

島津勢は井伊勢と対峙。両軍睨み合ったまま戦端は開かず。

小西行長勢は、古田重勝、織田有楽勢と対戦。後に後方の中山道で待機していた有馬豊氏、山内一豊勢も加わる。

西軍有利の展開であったが、松尾山の小早川秀秋と南宮山の毛利勢が動かない。秀秋は家康より内応の誘いを受けており、どちらにつくか迷っていた。一方南宮山の毛利勢は、前方に控える吉川広家がこれより弁当を食べると言って身動きが取れないでいた。広家も毛利本家の所領安堵を約束に家康に内通しており、後に「宰相殿の空弁当」と称される計を決めこんで毛利本隊を南宮山に釘付けにしていたのだった。

松尾山の小早川が動かないことにしびれを切らした家康は、秀秋の陣営に向かって鉄砲を撃ちかける。問鉄砲と呼ばれるこの策が功を奏し、秀秋は家康方につくことを決意。松尾山を下りて大谷吉継勢に襲いかかる。

戦が始まる前から秀秋の裏切りを予見していた大谷吉継は、松尾山の前方の平野に赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治の4隊を配置していた。攻めかかる小早川勢に対して大谷勢は平塚為広、戸田重政らが奮戦し、小早川の大軍を3度も麓へ押し戻す。しかし秀秋裏切りの抑えとして置いていた四将までがことごとく寝返り、大谷勢の横腹をついた。大谷勢は劣勢に陥り、壊滅。らい病を患っていた大谷吉継は病に爛れたこの首を敵に晒すは恥辱と、介錯後に首を埋めるよう配下の湯浅五助に命じ、「憎きは金吾中納言。3年のうちに祟り殺してくれん」と自害して果てたのだった。

小早川秀秋の裏切りにより、宇喜多秀家勢、小西行長勢も劣勢に陥り逃亡。東軍諸将が笹尾山に向かって殺到し石田三成も支えきれずに逃亡した。南宮山の毛利勢は山を下り退却。南宮山周辺の西軍諸将も撤退を開始。

最後に戦場に残された西軍は島津義弘勢。四方を敵に囲まれ孤軍となった義弘は、撤退する味方が殺到して身動きが取れない後ろではなく、前方の家康本陣を突っ切って退却することを決断。島津家お得意の戦法、捨てがまりで死兵と化した鉄砲隊を配置して追いすがる東軍諸将に向かって射撃しては、敵の追撃を鈍らせ、義弘を逃すという戦術を取った。家康本陣の前まで辿り着くと、方向転換してその横をすり抜け、関ヶ原を脱出。1500の兵が80名となったものの、逃避行の途上で懇意にしていた商人に助けられるなど紆余曲折を経て無事薩摩への帰還に成功した。この追撃戦で、義弘の甥の島津豊久、義弘の影武者となった長寿院盛淳が討死。徳川方は、井伊直政、松平忠吉が鉄砲傷を受け、本多忠勝は落馬するなどの被害を被るなど壮絶な退却戦だった。後に「島津の退き口」と敵からも賞賛された死中に活を求める中央突破。井伊直政、松平忠吉はこのときの鉄砲傷が元で死んだとも伝えられている。

関ヶ原合戦終了は午後4時。首実検を終えた家康は小早川秀秋などの裏切り組を先鋒にして、三成の居城佐和山城を攻めさせる。佐和山城は敢えなく落城。籠城していたい石田一族は皆討ち死にもしくは自害して果てた。

徳川家康の最終陣地。床几跡。
徳川家康の最終陣地。床几跡。

戦後の西軍諸将たちの動向

逃亡していた小西行長は伊吹山中で竹中重門の手の者に捕らえられる。行長はキリシタン故に自害を拒み、自分を敵方に差し出して褒美を貰うよう匿っていた関ヶ原の庄屋に勧めるが、庄屋がこれを拒み竹中重治の家来に処置を委ねたのだった。

石田三成は自身の領地内にある古橋村のオトチ岩窟に隠れていたところを、田中吉政の手下の者に突き止められ捕縛される。持病の下痢に苦しめられていたという。自身の領地では善政を敷いていたため、村人達は三成に食事などを運んで世話していたが、余所の村から来た者に密告される。

安国寺恵瓊は京都の六条に潜んでいたところを、奥平信昌の手の者に捕縛される。

石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の三名は京の町を引き回しの上、六条河原にて斬首。三条河原にて梟首される。三成の辞世の句は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」享年41。

宇喜多秀家は東軍方の追っ手から辛くも脱し、薩摩に潜伏していた。1603年に島津が秀家を匿っていると噂が立ったために、島津忠恒により身柄を家康の元に差し出される。のち、島津忠恒や縁戚である前田利長の取りなしで罪一等は減ぜられ、八丈島に島流しとなる。その後1655年(明暦元年)までその地で生きながらえた。享年84。

消極的に西軍に加担することになった長宗我部盛親は井伊直政の取りなしで堪忍料1万石を与えらるという沙汰で命脈を保ちかけたが、家康の処遇に不満を抱いた家臣達の内紛が原因で家康の不興を買い改易となる。京で寺子屋の先生をしていた盛親は14年後に豊臣秀頼に請われ大坂城に入城することになる。

島津義弘は同じく井伊直政の取りなしで領地を削られることなく薩摩大隅56万石を安堵される。はじめ家康は西国大名3家に討伐令を出していたが、関ヶ原に1500の兵士しか送らなかった島津側が兵力を温存しており、戦上手の島津義弘以下勇猛果敢な武将達も健在。長期戦に持ち込めば西国大名らが反乱を起こし再び天下は揺らぐという家康の不安や、薩摩沖で明との貿易船を沈めることで貿易による経済基盤を期待していた家康を恫喝するなど島津の心理戦が功を奏したという。

信州上田城で秀忠の軍勢を釘付けすることに成功した真田昌幸・信繁(幸村)親子は改易され、紀州九度山に蟄居。犬伏の別れで、信之は東軍についていたために没収された領地は信之に受け継がれる。昌幸はその後病死するが、信繁は秀頼に請われ大坂城に入城。過去2度の上田合戦を含め、大阪の陣の真田丸の攻防、天王寺口の戦いなど、真田は4度にわたり野戦上手の家康に煮え湯を飲ませることになる。

関ヶ原の戦い後の論功行賞

東軍諸将の論功行賞を見ていこう。秀吉子飼いの福島正則は尾張清洲城の20万石から安芸広島城の49万石に大幅加増。同じく子飼いで九州で黒田官兵衛と共に暴れた加藤清正は肥後熊本城25万石の領地が52万石に加増。福島正則など豊臣恩顧の諸将を東軍に靡かせることに尽力した黒田長政は豊前中津城18万石から筑前名島城52万石に加増。池田輝政は関ヶ原本戦では戦闘に参加しなかったものの、岐阜城攻略の功が認められ三河吉田城15万2000石から播磨姫路城の52万石に。

姫路城天守閣。数少ない現存天守の内の一つ。
姫路城天守閣。数少ない現存天守の内の一つ。

細川忠興は丹後宮津城18万石から豊前小倉城40万石。藤堂高虎は伊予板島城8万石から20万石に。浅野幸長は甲斐甲府城16万石から紀伊和歌山城38万石。

和歌山城天守閣。
和歌山城天守閣。

加藤嘉明は伊予正木城10万石から伊予松山城20万石。三成捕縛に功のあった田中吉政は三河岡崎城10万石から筑後柳川城32万石。山内一豊は遠江掛川城から土佐浦戸城20万石。

犬伏の別れで東軍側についた真田信之は、上野沼田城2万七千石から信濃上田城9万5千石に加増。東軍に味方すれば100万石を与えると家康から100万石のお墨付きを貰っていた伊達政宗は東北にて上杉景勝と交戦、陸奥岩出山城58万石が62万石と微増、関ヶ原が1日で終結したため100万石の約束は果たされなかった。同じく長谷堂城の戦いで上杉景勝と交戦した最上義光は出羽山形城24万石が57万石に加増。北陸にて大谷吉継の策略に翻弄された前田利長は加賀金沢城83万石から119万石に加増、加賀100万石の礎を築く。

徳川諸将の論功行賞

徳川諸将の論功行賞を見ていこう。井伊直政は上野箕輪城12万石から近江彦根城18万石に加増。後に加増され35万石となっている。福島正則を制して先鋒を務めた松平忠吉は武蔵忍城10万石から尾張清洲城52万石に加増。本多忠勝は上野大多喜城10万石から伊勢桑名城10万石に転封。東軍総大将の徳川家康は関八州255万石から400万石に加増。

現存天守の彦根城天守閣と、外濠の夜桜。
現存天守の彦根城天守閣と、外濠の夜桜。

関ヶ原裏切り組の論功行賞

関ヶ原裏切り組を見ていく。小早川秀秋は筑前名島城36万石から豊前岡山城51万石に加増。朽木元綱は近江朽木城2万石を安堵。脇坂安治は淡路洲本城3万石安堵。小川祐忠は伊予今治城7万石を改易。赤座直保は越前今庄城2万石を改易。事前に旗幟を鮮明にしていなかったためと言われているが、朽木・脇坂との扱いの違いに疑問が残る。

吉川広家は出雲富田城12万石から周防石見城に3万石に減封。加増が約束されていたが毛利本家を憚って辞退したためと言われる。

西軍諸大名の処置

西軍大名の処罰を見ていく。大坂城にいた西軍総大将毛利輝元は安芸広島城120万石から長門萩城の37万石に大幅減封。関ヶ原の戦いにおける西軍総大将の毛利秀元は周防山口城20万石から長門長府城3万石に減封。

長束正家は関ヶ原撤退後に水口城にて籠城、東軍諸将の説得により開城するも騙され自害、改易。東北で最上・伊達と交戦した上杉景勝は会津120万石から出羽米沢城30万石に減封。大津城攻めに参戦した立花宗茂は筑後柳河城13万石を改易。後に家康により1万石の大名に取り立てられている。岐阜城の戦いで東軍と戦った織田秀信は美濃岐阜城13万石を改易。五奉行の一人で大坂城詰めの増田長盛は大和郡山城20万石を改易。後に長盛の子が大坂の陣に豊臣方として参戦した咎を問われ自害している。どちらつかずの佐竹義宣は常陸水戸城54万石から出羽秋田城20万石に減封。

豊臣秀頼は222万石の領地を65万石に削られている。これは東軍諸将への論功行賞に豊臣氏の直轄領を当てたため。

毛利、上杉など大幅に領地を削られた大名達は家臣達を放免せずにすべて召し抱えたままでの減封となり、その後財政のやりくりに苦心したそうだ。関ヶ原の負け組の内、薩摩の島津と、長州の毛利が約260年後に関ヶ原の意趣返しで徳川幕府を滅亡に追いやることになる。毛利に至っては、毎年の年賀の挨拶に家老が「倒幕のご沙汰は」と聞き、藩主が「時期尚早」と返答する習わしがあったという俗説がある。明治維新後は薩長が政府の要職を独占し、伊藤博文や山県有朋、井上馨などの長州閥が幅を利かせることになる。

藤堂高虎は7度主を変えると言われるほど世渡りが上手かったが、最終的に徳川家康に靡いた。幕末の鳥羽伏見の戦いの折には、譜代大名の井伊家と共に、再び主を裏切ることになる。

京に近い重要地の彦根に置かれた譜代大名筆頭の井伊家は後年に井伊直弼を大老として幕政に送り出し、安政の大獄で吉田松陰などの尊王攘夷派や一橋派などを弾圧する。1860年(安政7年)の桜田門外の変で水戸浪士と薩摩浪士に襲われ殺害されるが、その咎を問われ彦根藩は領地を10万石減封されている。譜代でありながら大政奉還後は藩論を新政府支持に改め薩長方に寝返ったのは、徳川幕府に冷や飯を食わされた恨みもあったのだろうか。当時の幕府がいかに求心力がなかったかが見て取れる。

秀吉子飼いの福島正則は、武家諸法度に反して許可なく城を修築した咎で改易させられているが、これは当時権勢を振るっていた本多正純との口約束のもつれで、正純自身の権勢が凋落を見せていた頃だったので、政争のとばっちりを受けたとの見方も出来る。同じく加藤清正も広忠の代になって改易されている。のちに熊本城に入ったのは細川氏だった。

新説・関ヶ原の戦い

これが通説の関ヶ原の合戦の推移となっている。ところがここ最近になって異説が出てきたのだ。緒戦は有利に展開していた西軍、午前8時から午後4時まで戦が続いていたかと思われていたのだが、実際には開戦時間は正午で、戦は2時間ほどで終わったという。

小早川秀秋は緒戦から寝返っており、松尾山に最初に陣取っていた西軍の伊藤盛正を追い出して居座ったという。山中村の平野に陣を敷いていた大谷吉継は関ヶ原方面に出て緒戦から徳川諸将と裏切った小早川秀秋に挟まれ壊滅。その後押し寄せる当軍に宇喜多秀家、小西行長、石田三成も壊滅し、島津義弘は中央突破の撤退戦を試みた。戦は2時間足らずで決着がついたという、なんともあっけない結末。夢もロマンもない。

秀秋を寝返らせるのに成功した問鉄砲も、そもそもそんなものなかったとか、あったとしても松尾山まで遠すぎて効果自体がなかったとか、関ヶ原から70年以上も経った史料に初見されているということで、家康の戦術眼を讃えるための幕府関係者による後世の作り話であったり、話を面白くしようと後付けされたりといった話もあるそうだ。

元々、現在流布している関ヶ原布陣図が明治の時代になって陸軍の演習のために作成されたもので、元来伝わっていた関ヶ原の布陣図とは異なるという。

次のような逸話もある。明治時代に日本に陸軍教官として訪れたドイツ人メッケルが、関ヶ原を訪れた。日本の軍人にどちらが勝ったと思うかと関ヶ原の合戦の布陣図を見せられ、メッケルは西軍が勝ったと自信ありげに言った。布陣図を見ると、魚鱗の陣を敷いた東軍に対し、西軍は山を背に鶴翼の陣を敷いて、東軍を取り囲む布陣となっている。だが実際には東軍が勝った。右翼の小早川秀秋が裏切り、背後の毛利は動けなかったからだ。しかしこの話は司馬遼太郎の創作とされている。まるで村上春樹の「風の歌を聴け」に出てくるデレク・ハートフィールドの逸話のように、実在する作家だと読者に思い込みこませるのと似た手際の良さだ。作家冥利に尽きる。

改めて関ヶ原合戦の布陣図を見ると、完璧すぎる綺麗な布陣だ。東軍を取り囲むように西軍が配置されている。陸軍の演習として使うのに適しているようにも思われる。何よりドラマを引き出せる。

ということで異説では、関ヶ原ではなく山中村で戦われたあまりパッとしない決戦だったという話になる。そうなると関ヶ原の観光はどうなるのだろう。関ヶ原町の電柱には関ヶ原の合戦に関する武将名や重要キーワードの解説が打ち付けられ、比較的真新しい。立派な観光協会も出来ているし、土産物屋もあるし、各陣地跡には旗が立ち、詳しい解説が掲載された案内板も立ち、三成の陣地跡に至っては2、3カ国語の音声解説付きの地図まで設置されている。秋には毎年関ヶ原祭りが開催される。

400年も信じられてきた関ヶ原の合戦の全貌が、一次資料を基にした研究では全く異なる推移を辿ることになる。しかし人は事実よりも物語・ロマンを好むものだ。おそらく今後もこれまでに信じられてきた関ヶ原の戦いが支持されていくのではないだろうか。この記事に書き記した逸話なども、本や小説、ドラマ、ネットなどで見聞きした事を元に書き記している。つまり一次資料と二次資料を混ぜ合わせた内容となっている。いずれ一次資料や発掘調査などを元にした新説が出てくるかもしれない。いち歴史ファンとしてはそれまで気長に待とうと思う。