写真の世界でいう感性とは何か

彼岸花

写真の世界では、「感性」という定義が曖昧故に便利で使いやすい言葉をよく耳にする。よく分からないことでも「感性」という言葉を当てはめればとりあえず収まりが付く。感性という曖昧な言葉を写真の分野に限って言い換えるなら、自らの五感で感じたことを目に見えるものとして表現するためにカメラやレンズや構図や光、その他脳裏にある諸々のスキルなどを意識的にであれ無意識であれ活用して、自分の伝えたかったイメージを写真という二次元の平面上に実体化させることではないだろうか。そこで初めて、他人はその人の感性とやらに触れることが出来る。

街中でシャッターを押しただけの写真、そうして出てきた写真それは感性で撮った写真と言えるだろうか。被写体を捉えたり切り取りなどの構図は撮影者の目が、色づけや絵作りはカメラやレンズが行う。写ルンですやロモで撮ったフィルム写真はデジタル全盛の時代の中では独特の風味があり一見その人の感性のように思えるが、しかしそういう感性溢れるように見える絵作りが出来るカメラを意図的に選んだのは、その人の感性の成せるワザであり、寄り深く掘り下げるならその選択そのものは、感性を実体化するための手段やスキルではないだろうか。

良いと思った一瞬にシャッターを押す。しかしそれもたまたまそういう写真が撮れたというだけのことかもしれない。偶然性は感性と言えるだろうか。そこが写真における感性の定義の難しいところだ。

写真の世界では感性と技術は表裏一体だ。その技術が意識したものであれ無意識のものであれ、写真というのはカメラとレンズというメカで光を通して形作る光の芸術だから、カメラを操りレンズの特性を知り光を読み構図の妙を知ることで、自らが撮りたい写真に近づけることが出来る。

感性という言葉に頼ったり、被写体愛や想いだけが強くても、その想いを実現するスキルがなければ、ただの口先だけで終わってしまう。「プロフォトグラファーです」と自信ありげに撮影前に自己紹介して、顔に強い影のかかった写真になってしまったのでレタッチしたら、一昔前に話題になったスペインのお婆さんが修復したキリストのフレスコ画みたいな代物になってしまったという事例が分かりやすい。口だけデカくて実力、言い換えるならスキルがない。

またスキルがないからといって、その対義語として感性という曖昧で甘美な響きのする言葉に逃げてはいけない。感性という言葉は、曖昧でシンプルであるが故に、使い方の方向性を間違えると、自分の実力のなさスキルのなさを糊塗して誤魔化すのに都合の良い言葉に早変わりする。そもそも二元論でマウントを取ること自体が愚かしい。もはや目的が変わってしまっている。Twitter界隈でよく見かけるマウントバッカリ将軍らのいう事は信用できない。

被写体愛などという語彙力の欠如した単純でありきたりな言葉で写真を説明してしまっては、言葉が写真よりも前に出てきてしまっては、それは写真単体としては魅せる力がないという事だろう。想いのすべてを語れる様な写真を撮ることを心がけたいものだが、そう気負ってもまた良い写真は撮れない気がする。結局は撮影現場で被写体と無心で対峙することだろうか。日々の撮影の中でスキルを習得し、慣れて来ればスキルは感性と結びついて無意識のうちに実行される。座学ばかりで撮影を積み重ねないと写真が巧くならないのは、こういうところから来ているのかもしれない。

というわけでこうして考えて書いたことも、また体の中で消化して血肉と化すことで、無意識の領域へと昇華するのだろう。