スナップ写真が難しい理由 – 肖像権の問題とスナップ写真を上達させる方法

スナップ写真を上達させる方法はあるのか。
スナップ写真を上達させる方法はあるのか。

普段趣味でコスプレやポートレートを撮っているなかで、ふと気まぐれにスナップ写真を撮りに行くと「難しい」と感じる時がある。なぜだろうかと色々考えてみたのだが、明確な答えが出てこない。

スナップ写真の定義は、思い掛けない一瞬、ハプニングを撮ることだという。町をぶらついていて「これは!」といったシーンに出くわした時に、サッとカメラを向けてパッと写真を撮る。スナップ写真は主に人物が被写体とも言われているが、検索してみると、花やビルの写真もスナップ写真として掲載されているのが目につく。その定義はやや曖昧なようだ。思いがけない一瞬や心惹かれた瞬間なら被写体はおそらく何でもいいのだろう。

街中のコスプレイベントで、一般人が勝手にコスプレイヤーの写真を撮ると盗撮扱いになる

スナップ写真で人物を被写体とした場合、肖像権の問題が頭をもたげる。例えばコスプレイベントでは、街中でコスプレをしているコスプレイヤーを、一般人が勝手にスマートフォンのカメラなどで撮影することを禁止している。街中で開催されるコスプレイベントに赴くと、施設の入り口などに「写真を撮りたい場合はコスプレイヤーに一声かけてください」といった但し書きが設置されていることが多い。一般的にコスプレイヤー側からは、コスプレイベントでコスプレしている姿を勝手に撮影されることは盗撮と認識されている。知り合いのコスプレイヤーさんに話を聞いてみると、どこに勝手に掲載されるか分からないし、何に使われるか分からないから恐怖を覚えるとのことだった。

逆の立場になってみれば分かる。町を歩いていたら突然知らない人にスマホを向けられてパシャッと撮影された。その撮影された写真がTwitterや匿名掲示板などにアップロードされて誹謗中傷の的になれば不愉快極まりない事だろう。たとえネットに上げられなくても、全く面識のない赤の他人にスマホを向けられて写真を撮られたら怒りと不安にさいなまれる。馬鹿にしているのか?バズ目的でTwitterに上げるつもりか?となるだろう。このような事例は自分の身になって考えてみることが大切だ。

コスプレイベントで勝手に撮影されることが盗撮という認識なら、スナップ写真の領域でも勝手に知らない人にピントを合わせて撮影することは盗撮という認識になる。そこに現代のスナップ写真が抱える難しさの一因があるように思われる。

インターネットと手軽に写真が撮れるデバイスの登場により写真がより身近に

インターネットが世間一般で利用できるようになってから、特に綺麗な写真が手軽に撮れるスマートフォンが登場してから、写真をホームページやブログ、主にここ数年ではTwitter、Instagramなどに上げることがごくごく当たり前の行為になった。ブログが全盛の頃はまだ自分の顔写真をネットに上げる行為に抵抗感が見られたように記憶しているが、日本で初めて流行したSNSのmixiがこの手の抵抗感を押し下げ、半匿名の性質を持つTwitterが生活に密着し、Instagramが虚栄心と承認欲求をエネルギーとしてネットと現実の垣根を完全に取り払った今、生まれた頃からインターネットが空気のように当たり前に存在していた世代などは、恐らく自分自身が写っている写真をウェブの大海に放流することに余り抵抗を感じていないのだろう。

このブログでも度々言及しているが、スマホの登場により、一億総写真家時代が到来した感がある。だがインターネットが世界を席巻する以前には、写真なんてものはせいぜいアルバムに収めて身内で楽しむ程度だった。写真を趣味にしている人なら、写真雑誌に投稿するか、コンテストに応募するか、或いは個展を開くかくらいが考えられる用途だろう。現代に比べると、昔は撮影した写真が不特定多数の目に触れる機会は滅多になかった。雑誌投稿にしてもコンテストにしても採用されなければ印刷物として流布しないし、採用される率は応募全体の1%以下ではないだろうか。たとえ採用された所で、その写真は一時的に雑誌を介して流布され人目に触れるものの、インターネットにアップロードされた写真のようにスマホで検索さえすれば常時接続未来永劫、人の目に触れられるものではない。本棚や書庫に仕舞われ、或いは裁断され、人々の記憶からも遠のいていく。

しかしインターネットとスマートフォンがある現代は、TwitterやSNSなどに自分の撮った写真を簡単に掲載して不特定多数に閲覧させることが出来る。指1本で撮って、指1本で投稿できる。空気のように当たり前のことになると、そこにふと落とし穴が存在していることに気づかない。肖像権という落とし穴だ。

肖像権の問題と訴訟に発展した事例

一昔前に或るストリートファッションスナップを扱ったブログに掲載された1枚の写真が、民事訴訟に発展したことがあった。ブログに或る1枚の写真が掲載されると、それが巨大匿名掲示板で誹謗中傷の対象となり、被写体側が写真の発信者側に損害賠償請求の民事裁判を起こして、カメラマンとブログの編集者に慰謝料の支払いを命じる判決が下った。ブログの運営者は被写体側に掲載許可は取っていなかった。

当時そのブログを僕もちょくちょく覗いていて問題の写真も目にしていた記憶があるのだが、撮影者や編集者側に悪意は感じられなかったように思う。オシャレで流行の最先端を行く、個性的なファッションを謳歌している若い一般人を写した写真がたくさん掲載されていた。しかし撮影者や編集者側が彼らを時代の空気や流行を反映した最先端の若者達と見なし、よかれと思って紹介した写真も、不特定多数の誹謗中傷の対象となってしまったので、このような最悪の事態に発展してしまったという記憶がある。インターネットの社会は性善説よりも性悪説が幅を利かせるという事例でもある。

スナップ写真と撮影マナーは相容れないという問題

人物のスナップ写真を撮る時は、一声掛けた方が良いと撮影マナーの特集でもよく言われている。しかし思いがけない一瞬を撮る場合は、一声掛けたらそれは思いがけない一瞬にはならない。被写体がカメラがあることを意識してしまえば、それはスナップ写真の定義である思いがけない一瞬が、意図的な一瞬になってしまう。

声を掛けて、カメラに向いて貰って、笑顔の一瞬を撮るという写真ならまだ成り立っているかも知れないが、思いがけない一瞬は声を掛けて撮れるものでもない。事後に写真を掲載したりコンテストに出しても良いかと声を掛けるという事になるのだろう。しかし恐らく、何も知らずに写真を撮られた方の一般人は余り良い思いをしないのではないだろうか。

特に知らない子供の写真を勝手に撮ろうものなら、親御さんは怒り心頭を発することだろう。子供を狙った犯罪が頻繁にニュースで報道されて疑心暗鬼が満ちあふれているこのご時世、面識のない子供にレンズを向けようものなら子供たちは警戒するし、親御さんらは不安になり怒りを覚える。

実は以前、家から駅に向かって歩いていた際にお屋敷の前を通りかかると、灰色っぽい作業着を着た4,5人の大人達が、コンデジを使って、道路の向こう側にいた小学生くらいの子供たち数人を撮影しているシーンに出くわしたことがある。大人達が笑いながら子供達を撮影していたので、てっきり子供達の親が撮影しているのかなと思って子供達の方を見たら、どうも子供達が体を引き気味に寄り集まって、終始無言で当惑しているような、少しばかりおびえて嫌がっているような表情をしていた。作業着の大人達の人相は決して悪いようには見えない。どこにでもいるごく普通の、ある一定の知性を備えた趣のある勤め人の顔だ。その為か、この子供達の親御さんかと誤解してしまった。

結局どちらなのか判然としなかったのでその場は通り過ぎたが、今にして思えば、あれはおそらく盗撮の類いだったのだろう。大人達のあの笑いも、振り返ってみるとどちらかというとニタニタとした笑い方だった。あの写真は何に使うつもりなのだろう。獲られた側の体験を自分のことに置き換えてみれば、当然良い思いはしない。

しかしやはり、颯爽と通りがかった美女と素敵な背景を一枚の写真に収めたいという欲求に駆られることもしばしばある。街中の何気ない神社や祠に手を合わせている老人を撮りたいと思うことがある。しかし一方で上述したような理由や出来事から、知らない人にカメラを向けることに罪悪感を覚える。ここにスナップ写真を撮る難しさがある。だが萎縮しすぎるのも良くない。アサヒカメラがその辺りの事について詳しく特集を組んでいたので、興味のある方は一読してみることをお薦めする。

アイデアで肖像権の問題を乗り越える

スナップ写真の撮影において肖像権を克服するためのアイデアを幾つか考えてみた。

雨の日にスナップ写真を撮りに行くと、皆傘を差している。傘を差していると顔が隠れる。顔が写っていないので、撮りやすい。

また群衆を歩道橋などの上から撮ると、顔が写らない。群衆を引きで撮ると1人1人の顔が認識できないほど小さく写る。広角レンズを引きの撮影で使うと人の顔が認識できないほど小さく写る。

手持ちもしくは三脚を使って長秒露光で群衆を撮れば、人の顔が写らず、動きの残像が撮れるかも知れない。また群衆の歩く方角が決まっているなら、後ろから背中を撮れば、顔は写らない。

モノクロに加工してみるのも良いだろう。

マニュアルフォーカスのレンズで撮っていたので狙っていた人物にピントが合っていない。しかしどこか視界が霞んでいるようなボンヤリとした雰囲気が出ていて良い。

スナップ写真を撮る難しさとその克服法

スナップ写真を撮る難しさは、他にも要因がある。例えば街を歩いていて、ビルなどの写真を撮っていて、どうも面白くないなと感じることがある。しかし他人が見れば面白い写真に仕上がっている可能性もある。また今は面白くなくても半年後、1年後、5年後、10年後、20年後に見れば、また違った印象で写真を見ている可能性もある。50年、100年、200年経てば、当時の街の様子を写した貴重な資料になっているかも知れない。

面白い形をしたビルもあるにはあるが、何か違う。街に溶け込んでいないとか、そういうくだらなくて安っぽい似非哲学の次元の話ではない。撮影者自体が街に溶け込もうが溶け込むまいが、思いがけない一瞬や心引かれる被写体と出逢えれば、シャッターさえ押せば一瞬は撮れる。むしろ溶け込めない方が人間の防衛本能から感性が鋭敏に野性的なって緊張感のある写真が撮れる。

もし上手く撮れない、難しいと感じた場合は、レンズを変えると良い。標準レンズで上手く撮れなかったら、広角レンズ、それでも駄目なら超広角レンズや、魚眼レンズといった具合に。その逆もまた然り。

その日は標準レンズや中望遠レンズで撮っていたので、どうも収まりが悪かった。また街並みの好みもあるだろう。同じビジネス街でも、面白いビジネス街とつまらないビジネス街がある。これは人の好みによるだろうが、どうも都市設計の計画とも絡んでいるような気がする。大阪の西の方のビジネス街はつまらないが東の方は面白い。神戸のあの辺りのビルは面白いといった具合に。結局はポートレートと同じで被写体選びも大切という事か。

通りかかる人間の意見も大切だ。夜景のビルの写真を撮っていたら、眼鏡をかけた若いサラリーマンが、「つまんな」と通りすがりに毒づいてきた。毒づかれた反応を見たかったのか、その若いサラリーマンは通り過ぎた後にこちらに振り返ってジロジロと見てきた。こういう人間がいるところは、やはり概してつまらない場所なのだ。そして往々にして、その人間の発した言葉というのは、本人自身の人生を形容している場合が多い。そこに長年通い詰めているから、その場の雰囲気がつまらないものであると無意識のうちに感じていて、胃の中にため込んでいた日々のつまらないという感情がふとそのような言葉になってポロリと出てきたのだろう。そのサラリーマンが言うように、街全体につまらない空気が蔓延しているのだ。

別のビジネス街で撮っていると、サラリーマン達が好奇心溢れる表情で面白そうにこちらを窺っていた。全員がそうではないが、こういう場所で撮ると実に面白い写真が撮れる。

ビルは綺麗なのだが、実直に、そのままの姿で撮ると、実につまらない。そういう場合は超広角レンズで撮ると、面白く撮れる。エリアを変えてみることも重要だ。いっそのこと、超高層ビルや遠く離れた山から、思いっきり引いて撮ってみるのも良いだろう。

ロバート・キャパの有名な一枚の写真『崩れ落ちる兵士』の真贋

思いがけない一瞬と言えば、ロバート・キャパがスペイン内戦で撮影した、銃弾を受けて両手を広げて倒れかかる男の写真『崩れ落ちる兵士』が有名だ。だがこの写真も当初から真贋論争が戦わされていて、写真に写っている風景や戦史、当時のカメラの機能の分析から、実戦中ではなく、訓練中の兵士を、しかもキャパのパートナーである別のカメラマン、ゲルダ・タローが写したものだという説もある。

また有名なパリ市庁舎前でキスをするカップルのスナップ写真「パリ市庁舎前のキス」も、モデルを雇っていた事実がつい最近、民事裁判の過程で判明した。

このようなエピソードに触れると、写真というのも崇高なものではなく、政治的で、人間臭いもののように思われる。写真を何か崇高なもののように、根付いていない浮ついた言葉を並べ立てて語っているのを見ると、酷く胡散臭く感じる。プロカメラマンやプロの写真家なんていうのは皆胡散臭い連中だ。Twitterを覗いてみればすぐに分かる。