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フェルメール展 大阪市立美術館 – 黄色と青、幾何学模様と窓からの光-

フェルメール展

大阪市立美術館で開催されていたフェルメール展へ。いつもはこういう催しは会期終了間際に行くほど面倒臭がりなのだけれど、フェルメールだし最近絵画観ていないしでアートに対する飢えが生じ開催から3日後くらいに行ってきた。雨降りの平日だから、混雑しないだろうという期待感もあったが、やや混んでいた。思えば今は5人に1人が65歳以上の超高齢化社会なので、平日でも混むのだろう。

フェルメールの絵画は大阪会場では6点展示されている。結構広いスペースに2点ずつもったいぶって展示されていたので、なんだか豪華な空間に迷い込んだ印象だった。何より美術館の間取りを生かして廊下の向こう側に暖色の淡い照明に照らされたフェルメールの絵が見えて、その前を来館者達が囲うという風情のある景色を見ることが出来、その光景自体がよく出来た一片の現代絵画のようで写真に収めたいほどであった。

まず観たのがヤン・デ・ブライの《ハールレム聖ルカ組合の理事たち》。肖像画だ。同じ美術館で前回肖像画展をやっていたので、あぁまるであの催しのエクストラステージを観ているかのような感覚で絵と対面することが出来た。ワクワクしながら見入っていた。7人のオランダ人。皆あっち向いたりこっち向いたりこっち見たり頬杖着いたりとリラックスした面持ち。一番右の1人はスターウォーズに出ていた俳優に似ている。近々封切りされる黒人差別の捜査官の抱腹絶倒な活躍を描いた映画にも出演しているから、今から楽しみにしている。特徴ある面長な顔だが、アメリカの田舎のワイルドなバーテンダーを演じたり、純朴な剣士を演じたりと振り幅が広い役者さんだ。

フランス・ハルスの《ルカス・デ・クレルクの肖像》。白い襞襟に黒の服を着ているのを見ると、ふと『チューリップ・フィーバー』というオランダ全盛の頃のチューリップバブルを題材にした映画を思い出した。そういえば皆こんな格好していたかなと。この衣装を見ると全盛期のオランダだなというイメージがある。赤毛の髭を蓄えた男は左手を腰に据え、右手は怪我でもしているのか,白い包帯に巻かれた手を黒い三角巾で吊り下げている。

チューリップ・フィーバー 肖像画に秘めた愛 – チューリップ・バブルに翻弄されるオランダ版ロミオとジュリエット

フェルディナント・ボルの《ある男の肖像》。背景にアポロ神やコリント式の柱が描かれていることから、この人物が古代ギリシア・ローマに造詣の深いことが窺えるという、お決まりの絵の中にその人にまつわる物を描くという典型のような肖像画。しかしこの顔立ち、俳優でこのような目鼻立ちをした人物をどこかで見たという思いが頭を掠めた。

ワルラン・ヴァイヤンの《花の画家マリア・ファン・オーステルヴェイク》。女性の肖像画で左手にはパレットと絵筆、右手に聖書か画法書を持っている。

さて次の部屋に移ると、宗教画のコーナー。ヘンドリック・テル・ブリュッヘンの《東方三博士(マギ)の礼拝》。絵の題材でよく扱われる有名なワンシーンでこれまでにも何度か観てきたが、今回は赤子のイエスは美化されず随分ありのままの姿で描かれている。自然主義というものらしい。ずんぐりむっくりというか、宇宙人みたい。しかし生まれたての赤ん坊はそういうものか。ややくすんだ大理石のような肌色。しかしなぜ中央に若い黒人が描かれているのだろうと図録を読んでみると、絵に描かれている時代の頃に知られていたヨーロッパ・アジア・アフリカの三大陸の一つを象徴しているとのこと。後の2人はターバンを巻いた壮年のアラブ人と、聖杯を手にしたヨーロッパの頭の禿げた翁。描かれている三博士は人生そのものも象徴している。

パウルス・モレールセの《ヴィーナスと鳩》。好みですな。瞳以外はふんわりと暈けている肌の淡い描写。健康的な肌の色。微笑みを称えた唇もまた美しく彩られている。顔ばかりを見ているとふと胸元から乳房が露出していることを見落としてしまいそうになる。薔薇はヴィーナスの象徴で鳩もまた愛の象徴、愛の神クピド(キューピッド)が放つ矢、これらのアイテムを添えることで愛の女神ヴィーナスであることを表している。御利益がありますように。

視線を左に向けるとパウルス・ボルの《キュディッペとアコンティオスの林檎》。ギリシアローマ神話への愛着心の他、神話でもあんまり一般的な話ではないものを題材にしたりその絵を所有したりする事で、自分が博識であることを誇示したという。女性はどことなく古風な顔立ちで全体的に丸みを帯びている。隣で観ていた老夫婦が、この時代の美人はこういうものやったのかもしれんで、平安時代に太った女性が美人だったのと同じでと囁いていた。まぁ近代以前の痩せた人というのは栄養不足でもよく働く農民や労働者というイメージだったらしいから、あながち間違っているとは言えない。

部屋の中で一際異彩を放つレンブラント周辺の画家の《洗礼者ヨハネの斬首》。ヘロデ王の前で見事な舞を踊ったサロメが、褒美に何でも好きな物をやると言われると、母親にそそのかされて、王と母の結婚を非難したヨハネの首を所望したというあの有名なワンシーン。子供の頃に読んだ時は残酷な妻だなぁと思ったものだが、経緯をよく読んでみると、あぁこれはヨハネ恨まれてもしょうがないわと思うに至る。

一際異彩を放つのはヨハネの血色を欠いた首でも、処刑執行人の赤ら顔でもなく、その対比として描かれている美しいサロメの横顔と着ている豪華な服。胸元に光る宝石に白い毛の肩掛け、深緑色のドレス、サロメのやや興奮気味に紅潮した白い横顔と、頭の羽根飾り。尊さと卑しさのコントラスト。ヨハネの体の下の部分は余りに残酷な描写だったため切り取られているとか。

次は風景画。楽しげな農村風景《宿屋デ・クローンの外》から冷たい運河《市街の外の凍った運河》、嵐に耐え抜いた木々《嵐の風景》、コルネリス・ファン・ウィーリンヘンの《港町近くの武装商船と船舶》が油彩らしい質感で緻密にオランダの船を描いている。シモン・デ・フリーヘルの《海上のニシン船》、空気遠近法で描かれた海に浮かぶニシン船。全体を覆うどんよりと曇った黄色い空気の色合いがどことなく美しい。オランダにとってニシンは食糧の他に貿易の品でもあった。ニシンと言えば映画『チューリップ・フィーバー』でもニシンを扱っている商人が重要人物の1人として出てきたっけ?と調べてみると教会から受領した一攫千金のチューリップの球根を帰路の途中で酒の誘惑に負けて酔っ払ってしまい、ニシンと一緒に食べたあのオッチョチョコイの太った男のシーンを思い出した。日本だとニシンはソーラン節を連想させるので、なんだか田舎くさい古くさいイメージがある。そんなニシン漁もオランダの絵画になるとこうも洒落た一枚になるものか。きっと洋画家が西洋の手法を真似てその手の日本の伝統を洒落た風に描いた絵画があるに違いない。

ピーテル・サーンレダムの《アルクマールの聖ラウレンス教会》。正確な測量の元に描かれた教会の建築画。幾何学的で心がすっと透き通る。教会の柱や壁の像、天井から長く吊り下がったシャンデリア、祭壇の縦の直線が印象的。そこに左右にポツンポツンと人が小さく描かれている。

同じ画家の《ユトレヒトの聖母教会の最西端》。こちらも幾何学紋様の教会内部。やはり人が小さめに描かれている。建築画というジャンルがあってもいいんじゃないかという正確さ。

エマニュエル・デ・ウィッテの《ゴシック様式のプロテスタントの教会》。先ほどの画家とは異なり、正確な描写よりも教会に光が射し込むところとか、今で言うインスタ映えでフォトジェニックな柱の並びなどを好いたという。写真などは何も測量しなくても構えて構図決めてシャッターさえ押せば正確に描き出し、さらにそこに光を考えて撮ればフォトジェニックになるのだから楽なものだ。

旗が垂れ下がっていたり、柱に墓碑や盾が飾ってあったりと賑やかしい教会内部。前景には教会に直接死体を埋めるという当時の流行を反映して墓穴が掘られているが、実際にはそのようなものはなかったとか。

静物画のコーナー。ヤン・デ・ヘームの《書物のある静物》。読み耽った感じの本の紙の質感が良い。筆者が購入する映画のパンフレットもたまにこんな感じに反れてたりするが、たぶん弱い紙質なんじゃないか。机からはみ出している紙には「finis」(終わり)と書かれている。これだけ読んだ本の持ち主が、遂には死期を迎えたのか、ボロボロに読まれた書物からその人の人生の厚みを窺い知ることも出来る。勝海舟の「これで、おしまい」という臨終の言葉をふと思い出す。

ヤン・ウェーニクスの《野ウサギと狩りの獲物》。写真のような絵画は最近よくツイッターでも見かけるが、こちらは写真よりもリアリティ溢れる狩りで捕らえたウサギの毛が精細に描かれた絵画。よく見ると白っぽい線がたくさん描き込まれていて、何かに似ているなと、白髪かな、白飛びさせた人物の写真データを無理矢理暗くして白飛び回復させようとした時に浮かび上がる白い線に似てるなと。リアルよりもリアルとはこの絵のことか。

風俗画のコーナーへ。ユーディト・レイステルの《陽気な酒飲み》。芸人さんがモデルらしい。5,60歳くらいのおっちゃんが、酒に頬を赤らめてこちらを向いて微笑んでいる。ポーズは酒の入った壺を両手で横に掲げているので、まるでバーテンダーがシェイクしている風にも見えて滑稽。そういえばTwitterの方で100年ほど前の弁髪の中国人男性が大きな口を開けて白米を食べるポーズを笑顔で取っている白黒写真が流れてきて、いつの時代も余り人の表情は変わらないな。せいぜい400年ほどの時の流れで人の顔がそう変わるわけもない。

ニコラス・マース《糸を紡ぐ女》。これなどは他に掲げられている絵画と比べるとフンワリとした描写で一際を引いた。闇の中に照らされた老婆が糸を紡いでいる。フェルメールにも影響を与えたと言われている室内の日常。

対してヘラルト・ダウの《本を読む老女》は、聖書の文字や帽子や襟巻きの毛並み、顔や手の皺が細かい部分まで描かれており、背は陰影の中に溶けている。こちらも明暗がハッキリとしており、静謐な老女の横顔と聖書が対になっている。

ハブリエル・メツーの《ニシン売り》はニシンを売る若い女とそれを買おうとしている老女とのコントラストが激しい。若い女は明るい光に恵まれ、老女は暗い影の中にいる。オランダといえばニシン。当時も安価で健康に良くオランダ人に持て囃されたそうだ。

ハブリエル・メツーの《手紙を読む女》と《手紙を書く男》は対の作品となっている。フェルメールの技法を模範した作品であることは、幾何学的な配置の他にも女が身につけている白い毛皮に黄色の上着から窺い知ることが出来る。《手紙を書く男》の方は下のタイルに描かれている絵がフェルメールの絵にある物と同じだという。《手紙を読む女》に掲げられている嵐を航行する帆船の絵が女の今後の恋愛模様を予言しているかのようで示唆に満ちている。恋愛とはそういうものなのだろう。

いよいよフェルメールの作品。1つの部屋に最初の2作品が掲げられている。

ヨハネス・フェルメールの《取り持ち女》。似たような題材の絵画を以前見た覚えがある。他の3人が影の中に潜んでいて、黄色い服を着た女が視覚に際立つ。

リュートを調弦する女》は館内に流れていたビデオで森村泰昌が自らの視点で解説していた。リュートの先が壁に掲げられた地図のタペストリーの縁に至り、その軸の先がそのままリュートを調弦する女の目線と繋がり窓へと投げかけられるというものだった。なるほどと頷く。

女は真珠の首飾りとイヤリングを身につけ、白い縁の黄色の上着を着ている。

恋文》。こちらも同じ出で立ちの女性。シターンと呼ばれるリュートに似た楽器を片手にしている。床は幾何学模様。扉から覗くような構図で二人の女(女と召使い)が描かれている。

手紙を書く婦人と召使い》。後期の最高傑作と言われている。壁に掲げられた絵画、床の幾何学紋様、テーブルの赤い布、窓から射し込む光とそれを反映した二人の女の描写。

真珠の首飾りの女》、こちらは大阪展にはなかったが図録に載っていたので感想を。大阪展は6点だが東京展では9点掲げられていたという。日本第二の都市、冷遇されとる。

白に斑点模様の毛に縁取られた温そうな黄色の上着を着た女性が窓を向いてリボンを結ぼうとしている。横顔が美しい。女の視線の先にある広く取られた空間が鑑賞者を女の想いに沿わせる。

手紙を書く女》は最後に飾られていた。《真珠の首飾りの女》と同じ衣装を身にまとった女が鵞ペンで手紙を書きつつ、優しい表情でこちらを向いている。黄色の服に青のテーブルの敷物が目を惹く。女性は何を想うのか、画家は何を想い描いたのか。