ヴィクトリア女王 最期の秘密 – 老女王と若いハンサムな男の淡い交流が物憂い老いを輝きに変える

ヴィクトリア女王 最期の秘密

英国女王の史実を元にした映画が立て続けに上映予定だ。イングランド女王エリザベス1世とスコットランド女王メアリ・スチュアートの確執を描いた『二人の女王・メアリとエリザベス』、アン女王治下の陰謀渦巻く宮廷模様を描いた『女王陛下のお気に入り』、その先鞭をつけるように公開されたのが、ヴィクトリア女王とインド人の召使いの淡い交流を描いた本作『ヴィクトリア女王 最期の秘密』である。

原題は『Victoria and Abdul』。新たに発見された史料を基に2010年に出版された、晩年のヴィクトリア女王とインド人召使いとの交流を描いた書籍の映画化となっている。

映画冒頭にはこの映画は”ほぼ”史実に基づいています、という字幕が出る。英文では、Based on real events …mostly、だっただろうか。

あらすじ(ネタバレあり)

大英帝国支配下のインドで刑務所の記録係をしていた長身のアブドゥル・カリムは、ヴィクトリア女王即位50周年記念式典で記念金貨モハールを献上する役目を仰せつかり、もう一人の献上役モハメドと共に英国へ渡ることになる。短期滞在の予定だったが、式典の午餐会でヴィクトリア女王に見初められたアブドゥルは女王の召使いに任命され、交流が始まり、やがてはムンシ(先生)と仰がれることになる。しかし宮殿に仕える女王の周辺の臣下達は植民地インドからやって来た卑しい身分のアブドゥルを白眼視し煙たがる。秘書、侍医、首相、そして皇太子バーティ(後のエドワード7世)までもがアブドゥルをヴィクトリア女王から遠ざけるよう画策するが、女王はアブドゥルを偏見の目で見ることを許さなかった。アブドゥルに妻があることや、教師ではなく刑務所の記録係であったこと、学校を出ていないこと、淋病であること、女王に講釈したセポイの反乱の経緯でイスラム教徒はイギリスに味方したと言っていたのに、実は首謀者がイスラム教徒で女王に死刑宣告を下していたことなど数々の隠し事や嘘が暴かれその度に女王は失望し時には擁護し、妻を呼び寄せるよう命じ、遂には大反乱の件では怒って帰国を命じるものの、逡巡したのちアブドゥルを側に引き留めておくのだった。やがて女王は死に瀕し、親族が見守る中、寝室にアブドゥルだけを残して最期の別れを告げる。女王の死後、アブドゥルに宛がわれていた邸宅から女王に関する手紙や書類がエドワード7世の手によって焼かれ、一家はインドに帰される。以前の生活に戻ったアブドゥルだが、ヴィクトリア女王像の足にキスをし、忠節を続けるのだった。像の向こうにはアブドゥルの話にヴィクトリア女王が目を輝かせて想像していた美しいタージマハルが控えていた。

豪華で個性的な光る役者達

まず映画冒頭で,甲高い声の式典の指南役とおぼしき侍従のような髭を蓄えた男がアブドゥル達にあれこれと指図する。この冒頭10分ほどのシーン、どこかデジャヴだなと思っていたら、ゲイリー・オールドマン主演の『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』の冒頭の国会論戦のシーンで、労働党のアトリー党首がチェンバレン首相を糾弾している時の甲高い声色とソックリだった。なにぶんこの声は映画の冒頭を盛り上げてくれるが、今回も同じ効果があった。同じ俳優かなと思ってインターネットムービーデータベースを調べてみたら、全く違っていた。しかし声はそっくりだ。

ヴィクトリア女王を演じるのは、ジュディ・デンチ。『恋に落ちたシェイクスピア』ではエリザベス女王を演じ、007シリーズではMI5長官の「M」を演じた。『Queen Victoria 至上の恋』では同じくヴィクトリア女王を演じている。肩書きや勲位をみると重鎮とも言えそうな大女優で、日本人の俳優に喩えるなら、最高権力者徳川家康を何度も演じた津川雅彦の貫禄だろうか。

脇役の侍医の男がこれまた他の従者達と同じで意地悪い一面を見せるのだが、日本の俳優に喩えると、太平洋戦争直前の東条内閣の政治劇を描いたビートたけし主演のTVドラマ『あの戦争は何だったのか』で大蔵大臣の賀屋興宣を演じていた名バイプレイヤー益岡徹と似ている。髭も蓄えているしギョロッとした目、また骨格も似ているためか声や演技の雰囲気までソックリだ。余談だが賀谷興宣は戦争に反対していたものの開戦を止めることも叶わなかったので大蔵大臣として資源に乏しい日本が戦争遂行できるように知恵を絞り、戦後その政務がGHQに咎められて戦犯として10年ほど巣鴨プリズンに収容されていた。服役中に持病の喘息が治ったというから刑務所の中にいるのが一番の健康法みたいな事を言っていたが、岸信介の証言によると酷い扱いを受けたそうなので苦労されたのだろう。釈放後は池田勇人内閣で法務大臣として返り咲いている。

冒頭の船に揺られる所からヴィクトリア女王との交流までは意外とコミカルな流れで映画が進んでいく。そこに映画の世界にのめり込んでいける要素がある。ハイランドらしき場所でテーブルや椅子を担がせて食事をするシーンなどは戦前の日本の大富豪の逸話を思い出させた。女王は季節によって住む場所を変えているそうで、スコットランド当たりにも出向くのだという。急な雨が降り出すからスコットランドは嫌いだとバーティ(もしくは侍従?)は悪態をつく。スコットランド人が民族衣装のスカートを履いて女王を歓待するシーンも差し挟まれている。アブドゥルが賑やかしい彼らの部屋に入ろうとすると冷たくもピシャッと扉を閉められてしまう。

冒頭の午餐会のシーンもエキストラが大勢いて豪華だが、ヴィクトリア女王のコミカルな仕草が緊張感を緩和していて面白い。スープをさっさと飲み干し(女王が飲んでしまうと他の列席者の皿が下げられ飲めなくなる)、肉を手掴みでしゃぶりつき、可愛いケーキが運ばれると横目でチラリと一瞥して一口でかぶりつき、一枚の記念金貨モハールを献上されると素っ気ない反応を示す。どことなく大昔の英国の粗野な風習を見ているようだ。このシーンで記念金貨の献上役のアブドゥルが禁止されていたにもかかわらずヴィクトリアと目を合わせ、これが二人の交流のきっかけになる。

階級社会と身分差別を気にもとめないアブドゥル

女王も周りの女性達も皆アブドゥルを「ハンサム」と形容する。まさしくa handsam humble servantというわけだ。物語が進むにつれて様々な嘘が暴かれていくが、アブドゥルは悪気なさげにあっけらかんとしていて憎めない。大英帝国に対して反抗心を抱いている風でもなく、史実でも新英的であったという。一方でモハメドはその対象として描かれている。背の高さも違うし、体格も顔の見た目も違う、英国人に対して抱いている感情も異なる。インドを植民地にした大英帝国を憎み、警戒し、事ある毎に自虐的な皮肉を言い、帰国と年金で釣ってアブドゥルの弱みを探ろうとしたバーティ達に対し、あんたらと同じで出世欲があって女王に媚びへつらう男で、自分の才覚でのし上がっていった、クソ帝国はいずれこの先沈む一方だと毒気を吐き同国人を裏切らない。一見コミカルで芸人か道化のように見えるモハメドが、インド人が英国人に対して抱いている真実を暴露してみせることで、平和な現代人が抱きがちな楽観、アブドゥルだけを見ていると大英帝国の植民地にされ被支配者層の一員であるインド人でありながらそんなことには一向に気にかけずあっけらかんとして呑気で英国人と気さくに交わろうとし、植民地主義とか帝国主義とかなんだかんだ言っても平和な空気だなぁと胸の内に浸透しかけていた現代的楽観に釘を刺されることになる。毒気を吐いた後、モハメドは血を吐く。恐らく結核だろう。暑い国で暮らしてきたインド人には英国の寒い風土が合わなかったのだ。

アブドゥルをムンシ(先生/教師/秘書)と呼び慕うヴィクトリア女王に対して、皇太子のバーティや首相、秘書、その他周りの人々はアブドゥルを敵視しはじめる。史実でもヴィクトリア女王は身分の貴賤や肌の色に囚われない先進的な考えの持ち主だったらしいので、双方の軋轢などもだいたいは史実通りなのだろう。ナイトの爵位をアブドゥルに授与すると言った女王に対し、階級社会の秩序が乱れると慌てふためいたバーティは侍医に命じて女王が精神障碍である診断を書かせて退位を迫るが、女王は子や孫の人数、在位年日数、その他諸々の数字を正確に並べ立てて自分が正常であることを証し、最後には声高に反駁する。

イギリスは紳士の国とよく持ち上げられているが、その歴史を紐解くと他国に対してなかなかに酷いことをしてきた国で、アイルランドやインド、中国などに対して、現代人の視点から見ると惨いことをやってのけている。アヘン戦争などはイリギス議会でも議論を二分して1票差で開戦が決まったと言うから産業革命を経て19世紀半ばにしてようやく文明国になりかけていたのだろうかとも思われるが、それにしても中世や近代という時代はどこの国であっても様々な人間的な権利が保障されている我々現代人の感覚からすると常に残酷な側面を持ち合わせているものだ。

映画『キングスマン』でもそうだが、イギリス映画では度々階級社会が克服すべき問題として取り上げられている。今作でも階級社会に加えて支配者と被支配者、白色人種と有色人種の差別が描かれているのだが、主人公のアブドゥルが落ち込むことなくあっけらかんとしていて、重いテーマのシーンが随所にあるのだが、彼の表情を見ていると困難にめげないを通り越して、気にしないでいることに観ている方は救われるところがある。先日ツイッターで、元TBSアナでフリーアナウンサーに転身した宇垣美里が、聞く必要がないことを「この人何言ってるのかな〜暇なのかな〜」と自分がマイメロになった気持ちでスルーするいう内容の動画スイートがバズっていたが、その感じと似通ったところがある。ちなみに宇垣美里アナウンサーは、テレビ/アニメが趣味で、自身も『魔法少女まどか☆マギカ』のコスプレなどをしていてとても可愛い写真がツイッターに上がって話題になったあの女性だが、再び上述した件でツイッターでバズっていたのでツイッター民には人気のようだ。

「老い」という普遍的なテーマ

物語を彩っている歴史的意匠を剥がすと、夫に先立たれて人生に喜びを見いだせない老女とハンサムな若い男とのロマンス映画とも見て取れる。先進国は世界的に高齢化社会に向かっているが、映画のターゲットも高齢者の方を向いているから、最近老人をテーマにしたこの手の映画が多いのだろうか。劇場で予告編を見ていると、50代60代を主役に据えたロマンス映画が思いの外多いように見受けられる。

午餐会で退屈そうなヴィクトリア女王がアブドゥルと出会い目を輝かせて生気を取り戻し生き生きとする姿がチャーミングだ。一方で周りの人々に反対されてアブドゥルに帰国を命じた女王が今度は対照的に巻き戻しのように生気を無くしてうな垂れ、ゆっくりと寝室への階段を上っていくシーンは一片の絵画を見ているように象徴的で胸を打たれる。

人は誰しもいずれ老いる。老いて行くに従い喜びを感じることが遠くなる。そのような老いの中で人生に喜びを見いだすには何が大切なのかを今一度考えさせてくれる映画でもあった。しかし映画を観ていると、肌は皹割れて老化するものの、世界を見通す目は年を経てもガラス玉のように美しかった。