今回観た中国映画は3時間の大長編だが、長尺の映画といえば、ベルナルド・ベルトルッチ監督、ロバート・デ・ニーロ、ジェラール・ドパルデュー主演の『1900年』がまず思い浮かぶ。20世紀前半のイタリアの或る農村を舞台に、地主と小作人という両極端の階層に属する2人の人間模様が描かれた5時間の超大作で、一昔前のテレビの正月深夜に何度か放送されていた。今は深夜アニメに枠を取られているから、映画自体がその時間帯に地上波で放送される事もほとんど無くなってしまったが、2000年以前は夜更かししてチャンネルを回せば、だいたいどのテレビ局も名作映画を放送していた良い時代だった。
『在りし日の歌』は1980年代から2010年代までの激動する中国社会30年の変遷を下敷きに、二つの家族の悲喜こもごもな出来事や交流を、意識の流れ(Stream of Consciousness)の手法を用いて描かれているヒューマンドラマだ。元々予告編を見たときにこれは中国版の『1900年』ではないかと期待感を膨らませて観る事に決めていたのだが、冒頭以外は時系列順に物語が進む『1900年』と異なり、『在りし日の歌』は時系列がバラバラで、人間が或る出来事を思い出してフラッシュバックするのと同じように、過去と現在を目まぐるしく行き来するので、今どの時代なのか、いったい何が起こっているのか分かりづらくもあった。その分かりづらさは我々が過去を振り返るときに正確にそれは何歳の時でどのような時代だったか朧気ではあるがハッキリとは思い出せないのと同じように、それら欠落をスクリーンに映っている文明の利器、例えばファミコンや携帯電話、更にはアナウンスや集会などを通して示唆される社会政策、着ている服、そして建物の新旧から大まかな年代を推察していく事になる。西暦もテロップで表示されないから、観る者は映っている光景を拾い集め想像力を働かせながら、スクリーンの向こう側にいる人達と同じような意識で彼らの人生をなぞり不思議な一体感に引き込まれていく。
この二つの映画を対比してみると『1900年』は小説になぞらえれば19世紀的手法、『在りし日の歌』は20世紀的手法で描かれている事が浮き彫りになる。それは大まかには他人の物語として感化される映画に対して、自分自身に起こった出来事のような錯覚を催させる物語として、スクリーンの中の人物により身近に添わせるという差異がある。とはいうものの人口抑制策として子供は1人しか持てなかった中国の一人っ子政策の時代に、一粒種の子供を溜め池で不慮の事故で亡くした親の気持ちは親になってみなければ分からないし、中絶手術の失敗で子供ができなくなった煩悶はやはり当事者になってみない事には分からない。ましてや日本とは政治体制が全く異なる社会主義国家が舞台である。
しかしながら日本との共通点が見いだせない事もない。息子達が小さな部屋で遊んでいるのは任天堂のファミコンで、黄色い縦長のカセットが差し込まれている。8bitの音楽が流れるが2人が出て行くと父親のリウ・ヤオジュンはコントローラーを苛立たしげに投げつける。中国が改革開放路線で資本主義経済へと舵を切り、国営工場ではリストラが断行される事になる。人民の仕事や生活が保障された社会主義国家でリストラなんてものがあるのかというのが驚きだったが、国家危急の時、模範人民がその尖兵となれということで、一人っ子政策に従い中絶して表彰された模範人民のワン・リーユンがリストラ対象として名前が読み上げられるのは何とも辛辣な運命の展開だ。国の政策に翻弄された人生と言えるだろう。息子を失った哀しみが癒える事のなかった夫婦はやがて仲間達と離れて福建省の漁村に移り住み養子を取るが、一方で立場上一人っ子政策に従わせる事になったもう一方の家族はというと、不動産業に職を変え中国が経済成長を成し遂げていく中で国の住宅促進政策と合致して大金持ちになる。しかしながら自分の息子の行動が義兄弟の契りを結んだ家族の子供を溜め池で溺死させてしまった事に激しい自責の念に苛まれ死の間際まで煩悶し続ける。中絶と運命により2人の子供を不本意ながら死に追いやってしまった事に対する自責の念だ。
同じ工場で働いている二つの家族、リウ・ヤオジュン、ワン・ユーリン夫妻と、シェン・インミン、リー・ハイイエン夫妻(中国では結婚しても姓は変わらない)は、同じ日に子供が生まれ、二家族は義兄弟の契りを交わす。ワン・ユーリンに新しい子供ができたが、近代化のための人口抑制策である一人っ子政策が敷かれていた時代、中絶するしか術はなく、計画出産委員会副主任のトップだったリー・ハイイエンに中絶を強要される。或る日、それぞれの家族の子供2人が一緒に溜め池で遊んでいたら、そのうちの1人が溺死してしまう。息子を失ったリウ・ヤオジュン、ワン・ユーリン夫妻は悲しみに暮れ、シェン・インミン、リー・ハイイエン夫妻は自責の念に苛まれる。やがて改革開放路線が引き起こした混乱の最中、勤めている国営工場でリストラが断行され、中絶により模範人民として表彰された事のあるワン・ユーリンは模範を示せという名目のもと、改革の尖兵としてリストラ対象になる。哀しみの癒える事のない夫妻は仲の良かった仲間達とも別れ、福建省の漁村に修理工場を営む事になる。
純粋な社会主義国家から資本主義的社会主義国家へと時代が激しく移り変わる中で、息子を失った家族は貧しさへと転落していく象徴として、もう一方の家族は成功者に成り上がる象徴として描かれているようでもある。しかしながら友情は変わる事なく、劇中に何度も流れる『友情はとこしえに』(日本のタイトル:蛍の光)の歌詞をなぞらうように過去を懐かしみ、未来をともに歩もうとする。『蛍の光』は日本では卒業式に流れる曲で有名だが、本来はスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン:Auld Lang Syne」で友との別れを惜しむ曲だという。パーティで反共的文化である欧米の流行音楽が流れる中、副委員の役職を持つリー・ハイイエンがこれは不真面目だと不満を漏らすと、曲を変え『友情はとこしえに』が流れると場が和む。欧米風の長髪や香港スター風の服装に身を包み、大きなラジカセを担いで踊っていたおよそ社会主義国家の中国人らしくない風体の仲間チャン・シンジエンが、闇のダンスパーティに参加して風紀を紊乱した咎で刑務所送りにされたシーンを観ると、中国という国は日本の明治時代よりも言論や表現の自由が抑制されているのだと痛感する。そしてその状況は報道を見る限りでは多かれ少なかれ今現在も大して変わりはない。国を批判すれば当局にしょっ引かれて再教育を受けるか、それより酷い事になる。それと比較すると言論や表現の自由が憲法で保障されている現代日本は天国のようでもある。
やたら食事のシーンが出て来て宮崎駿の映画か村上春樹の小説かという程。春樹がスパゲティなら、こちらは肉まん(パオズ?)。他にも中国料理らしい真っ赤な麻婆豆腐のようなものが薄い皿に適量で盛られている。弁当は日本のものより一回り大きい餃子だ。ラスト近くのシーンではかつて住んでいた共同住宅が、他の開発から取り残されている姿は日本の団地とかなさるところがあった。およそ古い集合住宅には似つかわしくない「按摩」の電飾が点滅しているシーンを見てふとクリスチャン・ボルタンスキー展で見た美術品を思い出した。時の移ろいを感じさせるシーンだ。
2時間ほど経ちそろそろ飽きが来だしたかなという頃合いに、スクリーンの景色が一変し、これまで劇中に出てきた古くて汚い台所に変わり、日本とさして変わりない現代中国の裕福なキッチンが映し出されて目が冴える。その直前にワン・ユーリンが手紙を残して自殺未遂し、リウ・ヤオジュンが担いで病院に担ぎ込むシーンがあり、現代的な病院で脳のレントゲン写真がズラッと並んでいるシーンが続くので勘違いしそうだが、これはリー・ハイイエンが脳卒中か何かを発症した後を示唆している。非常に分かりづらいが運命が枝分かれになった2人の女の、死との直面を対比させている。それ以後も過去と現在が織り交ぜられて進行していくがようやく着地点に辿り着きそうな案配。そこでかつて住んでいた共同住宅に車で案内され、再び義兄弟を交わし義夫/義母と呼ぶリー・ハイイエンの息子から或る秘密が明かされる事になる。
シェン・インミンの豪邸に集うかつての仲間達。フェイスタイムでかつてリウ・ヤオジュンの不倫相手で渡米した年下の同僚の女性に息子が生まれていた事を知る。変わる事のないケータイの呼び出し音は8bitのファミコンの音楽だろうか。家を飛び出していた養子が出て、リウ・ヤオジュン、ワン・ユーリン夫妻は久しぶりの声に喜び合う。過酷な運命を時の流れと共に乗り越えたふたりは、哀しみを我が内に携え、新しい人生を再び歩み出そうとする。