マンチェスター・バイ・ザ・シー

アメリカの海沿いの街が舞台のストーリー。終始寒風が吹いていそうな景色がしみる。登場人物は下流階級の人たち。大人から高校生まで汚い言葉が飛び交う。アメリカのテレビだとよくピー音が入るけれど、映画では表現の自由が尊重されるのだろうか。

壮絶な過去を抱える便利屋が主人公。やはりガタイがいいと、女性にもモテるのだろうか。黒人の女性に誘惑されたりする。

なんというか、あまり共感できる部分が少ない。アメリカと日本という違いもあるかもしれない。もしこれを日本で映画化するとすれば、どの辺りの役者が演じるのだろうか。無職やニート、日雇い労働者なら『愛の渦』や『夜空はいつでも最高密度の青色だ』の池松壮亮あたりが適役だが、もっといかつい俳優がやることになるのだろうか。もし日本を舞台とすれば、俳優の一挙手一投足にまで、そこに込められた感情につぶさに共感することができたはずだ。

やはり育ってきた土壌というのがあるので、この手の土壌に、言い換えれば風土に支えられたストーリーというのは共感しづらいところがある。出てくる登場人物にイライラさせられるのはアメリカの荒々しいマッチョな部分がむき出しになって表現されているからだろうか。どうも受け付けない。

一方でイギリス映画の『私は、ダニエル・ブレイク』は、共感できるところが多かった。初老の大工が病気をして年金を申請するが、官僚主義のお役所仕事に翻弄されて人間の尊厳を傷つけられ怒り狂うというストーリー。共感できたのはおそらく『私は、ダニエル・ブレイク』は制度を根本にしてストーリーが展開しているからだろう。もはや年金の受給方法すら世界共通規格となった感のある映画だった。だからこそ遠く離れた外国の映画であるのに、極東の日本人も共感できる。

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』に話を戻そう。壮絶な体験というのが、冬の夜に買い物に行っている間に、火の不始末で家が火事になり娘が二人焼死してしまい、その後夫婦仲もうまくいかずに離婚するというものなのだが、見た時期が悪かったのだろうか、ちょうどその頃どこかの大学の文化祭か何かで、おがくずに白熱電球を灯したアート作品の中に入った幼い子供が焼死してしまうという事件の模様を映した動画がツイッターで流れてきた。うろたえる父親の姿共々そちらの映像の方が壮絶で、映画のストーリーにいまひとつのめり込めなかったというのもある。

壮絶な体験というのは、それと同等かもしくはそれを超える体験を実際にしたり目で見たりした人には、平凡に映ってしまうものなのだろうか。まだ不幸な体験をしたことのない人ならば、他人の不幸を自分のものとして置き換え、他人の不幸な体験と自分がまたその不幸に陥っていないその落差から心動かされるものがあるのかもしれない。