前売り券を買ったきっかけはツイッターに流れてきた公式の宣伝だっただろうか。それとも映画館の予告編だったかも知れない。プールに美少女のスクール水着姿が眩しく、どのような映画なのだろうかと興味を持った。
いざ見にいく前段階になって、同じくツイッターで駄作とのツイートがバズっていた。前評判が悪かったので少しガッカリした気分で観に行ったのだが、なかなかどうして、絵は綺麗だし、ラストシーンも余韻が残る。
なぜこんなに酷評がツイッターにあふれ出したのか。どうも前年公開され大ヒットを記録した新海誠監督の『君の名は』の二番煎じという声が聞こえてくる。おそらく観客は宣伝につられて『君の名は』レベルの感動作を期待したのだろうが肩透かしを食らったと行ったところか。映画には大衆向けのエンターテイメント作品と、大衆受けはしないが優れた内容のインディペンデント系の作品がある。エンタメ系小説と純文学系小説の違いと似たようなものだ。前者はわかりやすく言えばハリウッド大作のような娯楽映画で、見ているだけで2時間があっという間に過ぎるが、インディペンデント系は社会問題や人生の意義を問うような深い内容で優れてはいるのだが、やや退屈ではある。
しかし『化物語』や『魔法少女まどかマギカ』のシャフトが製作しているので、それらの酷評に触れたとしても期待度は高まる。
そもそも最近はツイッターのバズった情報を信用する気になれなかった。地震でライオンが逃げ出したと写真付きで嘘のツイートをした男が逮捕された。ヒアリに関する情報が嘘だったり、パソコンの代金の代わりに体を要求されたとかいう女のツイートも1万リツイートを集めたが狂言だとわかった。ツイッターの拡散希望の内容のほぼ半分が嘘なんじゃないかと思えるくらいバズったツイッターには虚報が入り乱れている。コスプレイヤーが起こした彼岸花の群生地のマナー喚起も、批判している方とされた方の主張が噛み合わない。所詮は現地での場所取りの諍いを、公のためというよりも個人の鬱憤晴らしのためにマナー問題にすり替えたようにしか見えない。コスプレ界隈ではよくある話だ。同じ彼岸花群生地でのマナー問題を取り扱ったネットニュースも、群生地のお寺の場所が間違っているらしくて、本当に取材しているのかと信用できなくなった。
そもそもネットの情報自体が信用できなくなってきている。よくネットユーザーはマスコミの報道は、印象操作のために都合のいい部分だけを切り出していると批判する。確かにそれは事実だろう。ナイフを持った加害者と逃げる被害者をフォーカスしているテレビカメラが、全体像で見ると加害者と被害者が実は逆といううまく出来た風刺画もある。しかしツイッターにしたところで、印象操作のために都合のいい部分だけを取り出してきて批判をしている事例が多々見受けられる。結局マスコミも個人もやってることはそう変わりはしない。拡散するためのデバイスと規模がテレビとインターネットで異なるだけの話だ。2000年前後はインターネットといえども個人がここまで影響力を持つ事例はほとんどなかったように記憶しているが、ツイッターの登場でリツイートにより個人の投稿が数万数十万の単位で拡散でき比較的簡単に影響力を行使できるまでになったのは歴史的にもターニングポイントなのではないかと思われる。そしてツイッターでより多くのリツイートを稼ぐためには、ある形式に沿った書き方が透けて見えてくる。畏まった文体で綴った長文を画像4枚分用意して投稿しただけで、それがなんだかご近所の回覧板のように重要な情報を回しているように見えてくる。それだけで信憑性が担保される。履歴書の空欄を埋めるような感じで、書式が存在してそれに沿ってマニュアル風に書けば、誰からも信用されそうな拡散情報が出来上がる。皆リツイートを稼ぐことを狙ってせっせとその白枠を埋めていく。そこにある情報が本当なのか嘘なのか、印象操作のために都合のいい部分だけを切り出しているのか、話をすり替えてはいないか、注視する必要がある。投稿した人間がどういう意図を持ってこのような情報を作り上げたのかということにまで気を配らなければならない。もし他人を貶めたいがために印象操作するのに都合のいい部分だけを取り上げて捏ね上げられた情報なら、この手のSNSで他人を批判した拡散希望の投稿を安易に信用してリツイートすると民事裁判に問われかねないので、関わらないのが賢明だろう。
話が大幅に逸れてしまったので、映画の話に戻そう。映画の感想にしたって、その人がどういった期待を持って見にいったのかということに注視すれば、自ずとなぜそのような感想に至ったのか理解できる。しかし賛否両論ある映画については自分の目で見にいった方が早いだろう。あまり他人の感想はあてにならない。その人の歩んできた人生、職業、年齢によって感想も変わるだろう。TwitterでRTやファボを稼いでバズらせたいがためにこの手のマイナスの情報のみを集めてセンセーショナルに取り上げている可能性だってある。
1993年のフジテレビ制作のTVドラマ『IF』をベースにした映画。岩井俊二の出世作
見た感じでは、ストーリーの流れがわかりにくいところもあった。IFというフィラメントの光るガラス玉を投げると重要な分岐点から人生をやり直せるという内容だ。映画を観終わってからわかったのだが、この作品は、今から20数年前の1993年にフジテレビで放送されたIFというドラマが原作だという。タモリがストーリーテラーを務めていて内容もSFチックなので、『世にも奇妙な物語』の傍流ドラマといっても良いだろう。実写版の監督は『スワロウテイル』や『リリィシュシュのすべて』でお馴染みの岩井俊二。当初岩井が希望したタイトルは『少年たちは花火を横から見たかった』だったが、IFというドラマは分岐点から二つの可能性を描いていくドラマだったので『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』というタイトルに変更になったという経緯がある。プロデューサー曰く、二つの可能性を描くという3%の制約以外なら何をやってもOKというドラマだったが、岩井はその3%の制約すら守れず1パターンの脚本をよこしてきたという、まさに型破りな存在だった。この実写版は今でも語り草になるほどの類い稀な映像美で大好評を博し、岩井俊二の出世作となる。
1993年のドラマをベースに制作されている為か、疑問符が付くセリフが1つ出てきた。登場人物の中学生の一人が好みの女性を「観月ありさ!」と叫ぶシーン。え、観月ありさ?結構おばさんだよ?年上好みなのかな?と上映時は不思議に思ったのだが、後からこれが93年のドラマをベースにした作品であることを知り、また岩井俊二版の方を観るに至って謎が解けた。岩井版のセリフをそのまま踏襲していたのだ。当時の観月ありさと言えば美少女で、田原俊彦・野村宏伸コンビが出演していた『教師ビンビン物語』という学校を舞台にしたドラマで小学6年生の役を演じ、若くしてその美貌が輝いていた存在だった。CDデビューもし、小室哲哉の作った曲でキリンの炭酸飲料のCMにも出演していて、当時人気絶頂だった。
つまりこれは岩井俊二版の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の完璧なリメイクを目指しており、当時人気を誇っていた『世にも奇妙な物語』のスピンオフである『IF』を熱心に観ていた10代20代、今現在では30代40代になっているであろう大人達にとっては、ノスタルジーを喚起させる格好の作品に仕上がっている。
問題はやはり『君の名は』の二番煎じを狙って組まれたプロモーションだろうか。本来なら30代40代向けに訴求するアニメ作品ではあるが、『君の名は』にハマった10代20代を対象に期待させるようなプロモーションを組んでしまったために、内容が齟齬を来していてチンプンカンプンで肩すかしを食らったのが、駄作と炎上してしまった所以のように思われる。IFの水晶玉にしても、2つの物語の可能性にしても、観月ありさというキーワードにしても、30代40代なら恐らくこれはどこかで観た事があると胸がざわつく裏の仕掛けなわけなのだが、ベースとなった作品やシリーズの趣意を見ていない・知らない10代20代は、その仕掛けが全く作用しないことになる。
『あの花』との類似性
30代40代に向けた仕掛けが隠されている作品と言えばTVアニメ及び映画にもなった『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。』も上げられる。ところどころに「ケンちゃんラーメン」など、80年代90年代を多感な子供時代として過ごしてきた世代を直撃するようなキーワードがちりばめられていて、それらのテイストに触れふと記憶が子供時代に引き戻され、これは10代20代向けと言うよりも、30代40代向けの失われた世代に向けた作品ではないだろうかと思われる節があった。事故死したまま未練がありあの世へ旅立つことが出来ない子供と、大人へと脱皮しかけているまだ多感さを残した高校生。時間的に失われた子供時代=記憶として未だ未練のように残っている子供時代を再び取り戻し、折り合いをつけて、周囲から祝福される中で肯定的に昇華させる、あの作品の裏を深読みする、もしくは自分なりに解釈し咀嚼するなら、『あの花』は失われた世代が喪失する過程で置き去りにしてきた自分自身の業を昇華させる為の作品では無かったか。
声優について
声優に関しては特に不自然に感じることは無かった。女優や俳優を声優に起用して不自然に感じるなら、声優の声は可愛すぎると女優・俳優を起用しまくっている昨今のジブリアニメなど不自然極まりないことになる。普段のアニメの声優に慣れてしまうと、どうもそれが普通の声のように思われてくるのだが、このような作品ではむしろ声優経験の無い素人っぽい声の方が二次元でありながら情感が三次元のように生々しく伝わってくる。
声優は悪なのか? 宮崎駿、細田守、富野由悠季のご意見を伺いましょう(外部サイト)
絵に関しては、『化物語』や『魔法少女まどかマギカ』という前衛風の名作を世に送り出したシャフトの面目躍如で何ら不満は無かったが、GANTZの作者が深夜アニメのようなつまらなさと酷評していた。
それらも含めて、どうもTwitter上では批判的な流れの方が強いように思われたが、批判の尻馬に乗るのは簡単だし、どうもリテラシーに欠ける感じがする。自分の目で見て、自分で作品の背景を調べて、そこまでしなければ単にその場の雰囲気に流されているだけの愚衆である。ということで前評判がすこぶる悪い中、少しガッカリしながら観に行ったのだが、結果的には満足できる作品だった。まぁ期待大で観に行ったら期待値以下でガッカリするか、前評判悪くて観に行ったら結構良かったという差異があるのかも知れないが。
ただ、円盤の売り上げを見るとそこそこ好調のようで、あのTwitter上の酷評の嵐は何だったんだと拍子抜けした。
CGによる水の動きが不自然なのが唯一の難点
この作品の難点を上げるとすれば、3DCG?の不自然さだろうか。ホースで水を拭きかけるシーン、IFの水晶玉、メルヘンチックな馬車に乗るシーンなど、随所にCGを使ったとおぼしき描写が観られたが、水のCGの動きはどうも不自然で、絵と融合していない感がある。一番良いシーンなのに、そこが勿体ない。後は馬車のシーン、アレはいるだろうか。女の子には受けるかも知れないが、男の目から見るとどうも唐突で子供じみていた。
他のアニメ作品でも言えることだが、電車やら機械の動きやらで「CG処理したな」というのが素人目でも分かる不自然に滑らかな動きを目にすると途端に興ざめしてしまう。絵と動きが合っていないのだ。一昔前にたくさんの旗がはためくシーンでこれもCGによる動きだったが、不自然すぎて興ざめしてしまった。爾来アニメでCGの不自然に滑らかな動きを見るとどのような大作人気作でもその一瞬は興ざめするようになった。
ラストシーンの意味は
なずなの前の父親が当作品のキーアイテムとなっているガラス玉とともに海に浮かんで水死体で見つかるというワンカットのシーンが差し込まれていた。これがどういうことを意味するのか、ラストのシーンで判明する。まさに記憶が引き戻される効果がある。そもそもあのラストシーンも、93年の実写版でカットされたラストシーンが再現されているので、製作陣のこだわりを感じたのだった。