日本で恐らく一番愛されているが、その生涯については謎に包まれている最後の戦国武将、真田信繁(幸村)について、膨大な資料を元に読み解いていく力作。信繁だけに留まらず、大坂の陣の徳川方の詳しい動向について考察されている点でも優れた研究書となっている。
真田幸村といえば講談や小説、時代劇だけでなく、20世紀末以降はTVゲームでも人気のキャラクターとなっているが、その実像については余り知られていないのではないだろうか。映画やテレビドラマのイメージの幸村と、一次資料を分析していくことで見えてくる信繁(幸村)の実像との差異。
武田遺領の分捕り合戦である天正壬午の乱において、徳川勢と対峙するために信繁は上杉景勝の元に人質として送られる。のちには豊臣秀吉の人質となり大坂城に送られるが、実際には豊臣大名として扱われていたという。その辺りを与えられていた知行などから読み解いていく。
関ヶ原の戦いにおいて、父昌幸と共に石田方に付いた信繁はその後紀州九度山に幽閉され、鬱屈した日々を送ることになる。九度山での生活はなかなかに大変だったらしく、父昌幸は真田家を継いだ信之の元に酒や金子を無心したりしていた。一方で猟などにも出かけており、自由気ままな生活でもあったようだ。
幽閉後は信之とは一度も会うことがなかったかと思われていたが、実際には一門衆の河原綱家と共に信之は父の元に会いに行っていたという。NHK大河ドラマ『真田丸』で再会のシーンがあって、あれはてっきり脚本家の脚色シーンかと思っていたが、事実面会していたという事で面食らった。
のちに昌幸は家康に一矢報いること無く没してしまうが、信繁の方は1614年に徳川と手切れとなった豊臣秀頼の誘いに応じて大坂城に入城することになる。その後はドラマでも知られているような展開を経て、その勇猛果敢な戦いぶりから、島津氏をして『真田日本一の兵なり』と言わしめるに至る。
真田丸がどこにあったかの考察にも多く割かれている。一次資料を読み解きながら、またこれまでの研究者達の成果物を読み解きながら比較検証していくくだりが面白い。本書は大体そういった構成になっている。
著者はNHK大河ドラマ『真田丸』の制作が決定してから、出版社に請われて本書を執筆したとのことで、『真田丸』の時代考証を担っていることもあり、おそらく脚本家も本書を読んで新しい信繁像を作り上げていったのではないだろうか。大野治長が秀頼の馬印を頂いて合戦に臨んでいたが、秀頼の出馬を請うために馬印を掲げたまま大阪城に帰ってしまったため、大野治長勢が崩れてお味方敗色と受け取られ形成が逆転してしまったり、大坂城に火をつけたのが秀吉が藤吉郎と呼ばれていた時代からの料理人の仕業であったりと、随所に思い当たる節が出てくる。それらもてっきり脚本家の三谷幸喜の脚色かと思っていた。真っ昼間の城内に料理人と密談している黒装束の忍者とかを出す嘘くささから、三谷幸喜の脚色というイメージがあったが、実際に古参の料理人が最後には徳川方に寝返って火をつけたのだという。
大坂城に上がる火の手を見て、城の外で戦っていた豊臣方の浪人達は敗色濃厚と見て、またその前に秀頼の馬印を掲げて戦っていた大野治長が、秀頼の出馬を請うために馬印と共に大坂城に帰ってしまったのを見て、お味方の敗色濃厚という空気が充溢し、実は豊臣方に有利に進んでいた戦の流れが、一気に形勢逆転し、押されていた家康は野戦の名手の本領発揮でその隙を逃さず攻めの姿勢に転じた。他にも真田大助が父信繁の命に従い戦場を離脱して大坂城に派遣されたことや、治長が手負いの傷で一時人事不省に陥っている姿が周囲に動揺と戦況のマイナスイメージを与えたこと、他の武将が信繁に意見を伺うために一時戦場を離脱したことなど、これらの連絡将校にでも任せておけば良さそうな些末な動きが、城の内外でお味方敗色の兆しとして他の諸将や浪人達に受け取られ、有利だった形勢が一気に逆転してしまっていた。どうも本書を読んでいると、大坂夏の陣は、それら兵の士気に関わる失点が無ければ、ひょっとしたら豊臣方が勝利していた可能性もあったように思われてくる。
それがこの本書の特色で、信繁の実像に迫る過程で、徳川家の豊臣秀頼に対する態度や、大坂の陣の戦況模様など、これまで俗説として語り継がれ、イメージとして広く一般に流布してきた悪人・徳川家康に対する固定観念を打破する試みも、一次資料を根拠にして成されている。
まず大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件だが、そもそも当時の認識では、あのような形で人の名前を分断するのは呪詛として捉えられるのが一般的で、詮議の場でも文を作った当の本人が認めたという。つまり今までドラマや歴史漫画などに描かれていた家康の言いがかりでは無く根拠のある話だった。恐らく後世の人間が善悪を対比させ話が分かりやすくひいては面白おかしくなるよう創作したのだろう。
さて信繁が大活躍を見せる大坂冬の陣だが、真田丸に関する記述も詳しい。元々大坂城の南側は他の天然の堀で守られている面と比べて台地続きとなっており守りが薄い事は昔から知られていた。そこに砦を作ることは、信繁の入城前から既に決定していたことであったという。これを紆余曲折を経て信繁が受け継ぐことになったが、後藤又兵衛とその件について諍いもあったという。これも『真田丸』で描かれていた記憶がある。つまり真田丸は信繁の独創では無かった。この件に関しては、後藤又兵衛と明石掃部の二人を昇格させ五人衆とすることで決着が付いたらしい(要確認)。
真田丸は信繁の独創では無かったとはいうものの、真田丸を拠点に信繁は徳川勢に対して大打撃を与える。しかしこの点に関しても、信繁の武略が優れていたというだけでは無く、徳川方の統率に問題があった。まず1600年の関ヶ原の戦いから14年が過ぎており、その間に戦が無かったので、実戦経験に乏しい諸将や兵卒が多くを占めていた。戦場では陣太鼓が指揮官の全軍に対する意思疎通の方法として用いられていたが、それも徹底しておらず、兵卒達は混乱を来した。各大名も代替わりして、実戦経験のない諸将が多かった。戦国時代を駆け抜けてきた綺羅星の如くの兵達は多くは鬼籍に入っており、実戦経験の乏しい指揮官を補うために、戦国時代の生き残りが軍監として宛がわれたが、実際の戦の経験を元に戦の駆け引きを指示をする軍監と、功に逸る諸将との間に軋轢が生じる事態などもあり、のちに大坂の陣の軍監の多くは恨みを抱かれた諸将達に訴えられて不遇の晩年を送ったという。信濃松本城城主の小笠原秀政と同じく信濃高遠城城主保科氏との犬猿の仲と功名合戦を例に、板挟みにされた軍監達についても詳しく記述されている。
また、大坂夏の陣では、元は北条家で数百人の部隊を率いていた歴戦の武将が軍監として意見を求められると、今回のような数万の部隊がひしめき合う戦は経験したことがないから各々独自に判断するしかないと言ったという。大坂の陣が今までに無い戦であったことが窺える証言として紹介されている。
実戦経験に乏しかった徳川方に対して、豊臣方は実戦経験豊富な浪人達が占めていた。関ヶ原の合戦で改易され冷や飯を食わされていた西軍諸将やその家臣達、東軍側でありながらも後に主家から追い出されて不遇の生活を送っていた諸将達が大坂城に集結し、血気盛んであったという。しかしこの浪人達が後に、主家として頂いていた豊臣秀頼を滅亡に追い込むことになる。
大坂冬の陣は、徳川方の全くの敗北であったというのが、当時の人たちの認識であった。宣教師達の日本に関する報告でもそのように記載されている。五〇万とも言われる大軍であったために、兵糧の問題があるだけで無く、冬であったために兵の士気にも問題があった。このまま兵の士気が下がり、諸将達が戦場離脱するか、豊臣方に付いてしまう恐れもあった。また豊臣方も兵糧問題を抱えており、当てにしていた大名達が一人も豊臣秀頼に味方しなかったという、当ての外れた状態であったので、双方が和睦を望んでいた。
そこであの有名な堀の問題が出てくる。徳川方はすべての堀を埋めることで惨敗であった大坂の陣において体面を保つことが出来、豊臣方は城を守る堀をすべて埋めることで、浪人達にこれ以上は抵抗できないという認識に改めさせ、大坂城からなんとか退去して貰おうという双方の思惑が一致した上での、城の総堀の埋め立てだった。豊臣方はせっかく集ってくれた浪人衆を無下に扱うわけにはいかず、かといって徳川方は浪人問題に関しては一切譲歩できなかったので、城の総堀の埋め立てで決着が付いたということらしい。従来は豊臣方が認識していた『惣堀』を、徳川方が、『総堀』と都合のいいように解釈して、外濠だけで無くすべての堀を埋めてしまったという、なりふり構わず豊臣家を滅ぼそうとする徳川家康悪人説が流布していたが、実際には総堀の埋め立てで合意していた。
ところが浪人達は一向に退去する気配が無く、大坂城内でも浪人達に対する扱いが3つに割れていて、大野兄弟の弟などは、御金蔵から勝手に浪人達に禄を与え、その禄で浪人達は武具を購入していた。大野治長が城内で刺されたのも、浪人達に対する待遇の意見の違いからで、治長は退去派で、信繁は退去派寄りの中立派だった。
これら浪人達が京で狼藉を働くなどしたため、再び手切れとなり、大坂夏の陣へと至るのだが、今回は家康は軍の威圧だけで浪人達を大坂城から退去させるという作戦で、豊臣家を滅ぼす意図は無かったとされる。というのも、軍を招集するに当たって、臨戦態勢の武者駆けではなく、通常の装備での招集だったという。どちらの装備にすべきか井伊直孝が京都所司代の板倉勝重に問い合わせたが、どうも曖昧な答えだったのですぐに決戦に望むような明確な戦支度という事では無かったそうだ。その様な事情であったために大坂夏の陣には間に合わなかった大名達も多くいたという。
その大坂夏の陣だが、徳川方では、実戦経験に乏しい兵卒で多く占められていたために味方崩れなどが起こって、混乱を来していた。その為毛利勝永勢などは戦場で縦横無尽の活躍を見せた。東軍方はちょっとしたことで逃げだし、その逃げ出した兵が他の部隊に雪崩れるようにして押しかけ、更にその部隊に不安が伝播して崩れていくという有様だったという。また敵兵と遭遇していない後方部隊が勝手に不安になって崩れたという事例もあったという。徳川義直軍(?)などは、崩れた兵達を刀や鑓で脅して追い払い軍勢を立て直したそうだ。
また和歌山城主の浅野長晟軍が紀州路を北上するのを見て、裏切りが起こったと東軍側に錯誤させ味方崩れが起こった。浅野長晟は豊臣恩顧の大名筋だったので、そのような事態が生じたのだろう。
そのような具合で各地で味方崩れが起こったために、豊臣方に有利に働いた。東軍が混乱を来す中で真田信繁は徳川家康本陣に突撃を仕掛け、家康を4里先まで遁走させた。その様子は旗本達が逃散し、馬印は押し倒され、付き従っていたのは一人だけだったという。家康の馬印が戦場で倒れたのは、1572年の三方原の大敗以来のことだった。
ところが先に述べたように、秀頼の馬印を掲げて戦っていた大野治長が、そろそろ頃合いとみて秀頼君のご出馬を請うため馬印を掲げたまま大坂城に帰還してしまった。また大坂城内の古参の料理人による放火で城が炎上し、それらの姿を見た戦場の浪人達は戦は負けたと勘違いして逃げ始めたという。またその隙を家康は逃さず、諸将に攻めに転じさせた。豊臣方に有利であった形勢は一気に逆転し、大坂城は落城する。大坂城に火の手が上がらなければ、落城には更に数日を要しただろうと後に家康は述懐したという。
山里の郭に逃げ込んだ秀頼と淀殿の処置をどうするか、家康は将軍の秀忠に委ねたという。源頼朝の故事が念頭にあったのだろうか、禍根を断つために秀忠は二人が自害するよう、井伊直孝に鉄砲を撃ちかけさせた。かくして豊臣家は滅亡した。
最後まで秀頼に付き従った弱冠十三歳の真田大助は立派な最期を遂げた。混雑する山里の郭の外にひとり出てむしろを敷き、食を絶ち、機会を窺った後、自分は一軍の大将であるという証しとして前楯をつけたまま腹を十文字にかっぱ裂いて自害した。十文字の切腹は胆力がいるので並大抵の武士に出来ることでは無く、過去の例としては瓶割り柴田の猛将で知られる柴田勝家などが北ノ庄城で十文字の切腹を遂げている。
豊臣の家臣ではない浪人の真田大助がこのような立派な最期を遂げる一方で、秀頼の家臣達は逃げ散ってしまったのが大勢いた。いつの時代も若い人間は行動原理が曇り一点無く純粋で、年を取ると狡猾になっていく。豊臣の馬回り衆などから構成された七手組に至っては、戦場で家康側に内通して戦働きせず、戦場で東軍勢と死闘を繰り広げていた豊臣勢に不利に働いた。
真田信繁の謎に包まれた半生を一次資料から解き明かすだけで無く、今まで悪人扱いされてきた徳川家康や、大坂の陣の形勢についても、これまでの通説とは異なる実像を様々な資料を元に浮かび上がらせている。広く流布している通説に対してカウンターを打ち出すことは相当に勇気のいることだったらしい。特に家康に関しては、数々の映画やドラマで、なりふり構わず権謀術策の限りを尽くして豊臣政権を簒奪した狡猾な大悪人というイメージが浸透しており、歴史上の人物の人生はまた自らの人生の指標であったり反面教師であったりして、それらを取り込み血肉化しているので、そのような思想信条に対してメスを入れるような行為でもあるから心理的にも重いのだろう。関ヶ原合戦陣形図をはじめとする旧陸軍参謀本部が作成した古戦場の地図も最近は信憑性が問われていて、全くの出鱈目では無いかとさえ言われている。本書を通じて、ヒーロー化もしくは半ば神格化された真田信繁だけで無く、大坂の陣における徳川家康や戦況、その後の講和条約の実像を知ることで、これまでの何が何でも豊臣家を滅ぼすために悪知恵を巡らせて花のようなる豊臣秀頼と淀殿を自害に追いやり、豊臣家を滅亡させた悪人家康というイメージが払拭される転機となるのではないだろうか。