4月9日と11日に京都に行ってきた。1回目は三脚を持たず、2回目は三脚を担いで。夜も更けて向かった先は東寺。かなり無理な行程で京都の城や寺、桜の名所を巡っていった日だった。
Canon 5DsRを持ち出していたので、三脚がなければISO感度を上げなければならない。フラッグシップ機の1DXと比べるとノイズが出やすいから、こんなことなら三脚を持ってくれば良かったと後悔した。
当初は夜の二条城に赴いて、二条城桜祭り2017-桜の宴-のプロジェクションマッピングを楽しみに行く予定だった。事前に電話で問い合わせたら、三脚を使っての撮影は不可という事で、三脚は置いていくことにした。荷物が軽い方が京都の町並みを楽しめる。
しかし事情が変わった。昼に赴いた二条城に夜もう一度行くのもなと思い、東寺の方へと歩を向けることにした。電車の中吊り広告で見た東寺のしだれ桜のライトアップの写真を見て、東寺で桜を撮りたいと思ったのだ。
1回目は三脚もなく綺麗に撮れるか不安だったが、実際に撮ってみるととても美しい写真が撮れた。コレは予想外だった。ノイズも気にならない。あちこちに移動して撮影を楽しんでいる内に1時間があっという間に過ぎ、22時の閉館に近づいた。鉄柵の外に出て望遠レンズ200mmで東寺としだれ桜の重なりを撮ったりした。
5DsRで200mmの望遠レンズを使って撮るのは正直きついのではないかと思った。手ブレの問題があるのでシャッタースピードを1/320秒以上に上げなければならない。しかし何とかなるものだ。
とはいうものの等倍で見るとノイズも出ているし、ノイズ処理により階調が潰れているように見える。少し心残りのある撮影となった。
さて2日後、再び京都へ。今度は三脚を持っていった。夜には二条城桜祭り2017-桜の宴-のプロジェクションマッピングを写真に収めた。三脚が使えないのに三脚を肩に担ぎながら撮らなければならないのは不便だったが、手持ちでも綺麗な写真を収めることが出来た。
二条城を後にして再び東寺へと向かう。一昨日の撮影のリベンジのつもりだった。
さて実際に東寺で三脚を立てて撮っていったが、何か違和感がある。撮るのが面倒臭いのだ。
三脚を立てる、高さを調整する、傾きを調整して構図を取る。う~ん決まらない・・・。三脚の足を伸ばしたり縮めたりして、もう一度構図をはかる。焦点距離を変えながら位置を調整する。リモートスイッチを押す。別の場所に移動してまた三脚を立て、高さを調整し、うーん何か違うと三脚の足を伸ばしたり縮めたりして、構図が決まればリモートスイッチを押す。また別の場所で・・・の繰り返し。何だかもどかしい。
風景写真を撮り始めてからまだ数ヶ月、本格的に始めたのは今年の4月の今まさにこの地点だ。構図の取り方が甘いのかも知れない。順序を間違えているのかも知れない。煮詰めていないのかも知れない。
風が吹いて桜吹雪が舞う光景がとても美しかったが、シャッターチャンスを逃してしまった。手持ち撮影なら例えノイズが出ていてもパシャパシャ撮っていたことだろう。閉門の時間が近づき、門を出てまた鉄柵越しに、望遠レンズで三脚を立てて撮影した。
さて、家に帰ってから数日して、どちらの日に撮った写真の方が良いだろうかと見比べてみた。するとどうも、手持ちで撮影した写真の方がグッとくるものがある。ような気がする。三脚で撮った方の写真は、2回目だからか、どうも重要な何かが欠けている感じがする。1日目の構図を追って撮ろうとしたせいか、一日目の撮影をなぞるような、単純作業のような感じで撮っている感じがしないでもなかった。そして記憶違いのせいか、1日目に撮った写真と同じ写真は撮れていない。1日目の写真の方が構図は好みなのに、目標が達成されていなかった。
ファーストインプレッションと、セカンドインプレッションの違いだろうか。同じ場所に日を置かずに二度も撮りに行ったせいだろうか。
2回の撮影を通して、三脚は機動性を削ぐのだと実感した。三脚に機動性を奪われ、三脚を調整する労苦から解放されたいがために構図を煮詰めることを放棄したい誘惑に駆られる。撮影者の創造性を幾分か犠牲にしてしまう。コレは三脚を使って撮るという1テンポ挟んだ煩わしい行程に慣れないといけないなと痛感した。後追いではダメなのだ。意識を集中しなければならない。目の前にある光景に耳を澄ませなければならない。
しかしあまりだらだらと意思について書くのもよそう。こうした意思は忘れて、実際に風景を目の前にしたときに風を感じながら思うがままに撮るのが一番良い。
と書いてきたが、4ヶ月経って改めて二日間の写真を見比べてみると、三脚で撮った写真の方が良く撮れている気もしてきた。人の心は移ろいやすい。