大和國 長谷寺 – まほろば探訪 第68回

長谷寺の本堂。

長谷寺駅に降り立つと空は夏の色を帯びていて、廃線路の側にはかつてホームだったコンクリートが剥き出しになってい、その周りには雑草が生い茂っていた。蝉の鳴き声がしてホームや広場のタクシーや看板や駅舎などそこかしこに点在している文明の跡に染みこんでいく。

九月下旬。この時節に蝉の声を聞いたことがあっただろうか。しばらく駅前で待っていたら約束していた女性がやって来たので、それぞれショルダーバッグやカートを引きずって旅館までコンクリートの道を徒歩で向かった。

山の緑が美しい。季節はとうに秋のはずなのに夏にタイムスリップしたような奇妙な錯覚がした。ふと夏休みの子供の時分に体も心も戻ったような浮かれた気分になるとともに不思議な懐かしさを覚えたのだ。女性を旅館に置いて先に目的地の長谷寺へ向かい、少し散策してみることにした。長谷寺へと続く道とそれに連なる家屋は門前町といった風で、酒や餅などの土産物屋が並んでいる。他には食堂などもあるが、観光地にありがちな流行り物を呼び物にした目新しい店舗は見当たらず、昔ながらの情緒を残している。

道路を渡り先へ行くと、長谷寺の総門である仁王門が聳えている。明治22年(1889年)に再建された建物はかなり風格のある門構えで、三間一戸母屋造本瓦葺きの楼門とある。両側にその名の通り仁王像を構えており、門に掲げられた額字は後陽成天皇のご宸筆とある。

長谷寺の総門「仁王門」。

後陽成天皇と言えば安土桃山時代から江戸時代初期にかけて在位にあった天皇で、その生涯を振り返ると、豊臣秀吉の建てた聚楽第への行幸や、関ヶ原合戦の折に丹後田辺城に立て籠もった細川幽斎を古今伝授を絶やさぬ為に勅命により救った故事、徳川家康の征夷大将軍宣下、宸襟を悩ませた宮中猪熊事件の末に幕府による朝廷への介入が甚だしくなったためにその圧力に抗するかのように退位した。譲位後も大坂冬の陣の際には家康に和議を勧告するなどし、戦国末期の折々の節目に深く関わっていた人物でもある。

門をくぐると本堂までは登廊(のぼりろう)が続く。上中下の三廊に別れていて、百八間・三百三十九段ある。階段が399段なのは、最後の一段である400段目、すなわち死(四)は自分で踏むものだからという意味があるらしい。とすると百八間(一間を182cmとすると196m56cm)の長さがあるのは、108の煩悩とかけているのだろうか。

登廊。長谷型提灯が吊されている。

しかしこの階段、中途半端に浅くて足が疲れる。この日はこの登廊を重い撮影機材を担いで3往復することになったが、半月経た今も左足の踝辺りの痛みが治らない。なんでもこの登りにくさ、戦を想定したものだそうで、そういえば昔の寺院はいざ合戦があると軍事拠点として使われていたことを思い出した。京都にある東寺は都で争いが起これば頻繁に時の権力者が陣を敷いていたし、信長が斃れた本能寺には火薬庫があったという。この奈良の静かな山中にある長谷寺もまた例に漏れず千代の長きに渡り潜在的に城の機能を果たしていたのだろうか。そういえば石垣と塀なども見える。

三九九段を上り終えると本堂に辿り着くが、登り終えた本人は息も絶え絶え油断しているとそれこそ死を踏んでしまいそうな程だ。しかしながら見晴らしはなかなか良く作家の里見弴と歌人紀貫之の石碑が向かうように並んでいた。御朱印を買おうか迷ったが、また来るだろうし今日は忙しないから別の機会にして、本堂に入ってみる。すると良くTwitterなどで見かけるフォトジェニックな仏像が鈍い光を帯びながら山の緑を背景に横を向いている姿が見えた。

なるほどこの場所かと合点がいき、本堂をぐるっと回るように更に先へと進むと、またしてもとても見晴らしの良い場所に出た。ちょうど観光客を相手に解説していたお坊さんの話によると、「長谷の舞台」と呼ばれていて、京都清水寺の「清水の舞台」よりも歴史が長いという。清水の舞台よりは一回りほど小さいが、そこからの眺めはなかなかのものだった。

本堂。
「長谷の舞台」からの見晴らし。春には手前に桜が咲くのだろうか。

長谷寺の歴史を紐解くとそのはじまりは朱鳥元年(686年)にまで遡ると言うから、かなり古い寺院になる。さて本堂にはご本尊である十一面観世音菩薩が祀られているが、これも神亀四年(727年)に遡り、現在の御像は天文七年(1538年)の作だという。御堂の薄暗闇の中で金色に鈍く光輝くその大きな菩薩像は宗教に興味の無い筆者でも高みから見つめられて有り難みを感じさせるものだった。

さて同じ時期にたまたま読んでいた山路愛山の『徳川家康』(岩波文庫)に淀殿についての自説を開帳している段があり、その中で「彼女は長谷寺の観音、高野山の大堂を修復し・・・」(下巻:259−260p)という叙述に行き当たったときにこれは先日訪れた長谷寺の金色に輝く十一面観世音菩薩のことだろうかと目前に歴史的情景が蜃気楼のように浮かんできてふと興奮してしまった。この著作の中で淀殿は高貴な女性にありがちな迷信家のタイプで、神仏を盲信するあまり神仏の力に恃みすぎて、豊臣家の蓄財を寺社の修繕や造営に注ぎ込んだとあり、決して世評にあるように家康がよこしまな考えを起こして豊臣家の財を減らそうと率先して企んでいたわけではないと弁護している。

彼岸花がそこかしこの草木の隙間から顔を覗かせていた。

一通り見終わって帰りの階段を降りると、今年は暑くてなかなか見ることが叶わなかった彼岸花が草木に隠れてたくさん咲いている。花の寺と詠われるほどに、長谷寺は春は桜に牡丹、秋は紅葉と、美しい景色が絶えることがない。