念願の金閣寺へ行ってきた。
鹿苑寺、通称金閣寺は時の権力者である足利義満が創建。元は西園寺公経の別荘で、荒れ果てていたのを義満が譲り受けて山荘北山殿を造営、邸宅とした。時に西暦1397年(応永4年)。まさに室町幕府の絶頂期。以降義満が逝去するまで北山殿は政治の中枢となり、能楽などの北山文化が花開いた。義満の死後に、夢窓疎石を住職とし、義満の法号から2文字を取り、鹿苑寺と命名された。
足利義満といえば、アニメ一休さんで、いつも一休たちに無理難題をふっかけては一休の頓智にやり込められる意地悪な将軍として子供の頃の記憶に残っているが、あれは後世の創作で実際には二人は会ったことがないという。
その一休宗純はというと、出自を遡れば、南北朝時代の後小松天皇の御落胤と言われており、よくある宮中の妬み嫉みの讒言が原因で、天皇の子を身籠もった藤原氏の女は難を逃れるために下野し、一休を生んだという。
一休の父である後小松天皇は、義満の招きで、金閣寺に行幸している。
方や室町幕府第三代将軍で武家でありながら平清盛以来の従一位太政大臣まで上り詰め、上皇の地位まで狙っていた権力者、方や天皇の御落胤という高貴な血筋の僧、そしてその父の後小松天皇は義満の傀儡であったという経緯を子供の頃に知っていれば、また別の角度からあのアニメを観ていたかもしれない。
京都市営バスの金閣寺道で降り、五分ほど坂をのぼると鹿苑寺に着く。一回200円で鐘をつけるという看板を見つけこれはありがたいと思ったが、早く金閣を観たかったので帰りにつこうと先を急ぐ。結局ど忘れしてつけなかった。
売り場で400円でチケットを購入。御札がチケット代わりという、粋なお計らい。これだけで心がすっと安らぐ。そういえば銀閣寺でも御札を貰えた。左手の道を先に行くと入り口でチケットを見せるように言われ、これまた美しいパンフレットを渡される。
中に入ると早速念願の金閣。雲1つない良い天気でいっそう輝いている。これ程までの輝きとは。冬の寒さを耐え抜いて輝いている緑の木々に彩られながら、金閣もそれに負けじと輝きを放っている。
やはり観光客が熱心に写真を撮っている。セルフィーを使ったりデジタル一眼カメラを使ったり。早速その中に紛れて金閣を撮影した。
金閣寺と言えば昭和25年(1950年)に、世を倦んだ見習い僧の大学生により焼かれ、三島由紀夫や水上勉の小説の題材になったり、時代精神に結びつけた小林秀雄の評論などでも取り上げられた事でも有名だが、5年後に政財民各方面からの浄財により再建された。その際の調査から外壁全体が金箔で覆われていたことが分かり、創建当時の姿を忠実に再現しようと、焼かれる前よりも神々しくなって還ってきた。
混んではいるが撮れないことはないし場所も空く。水面にリフレクトした金閣も撮ろうかとも思ったが、鴨が二羽すいすいと横切っていったので水面が波立ってしまった。綺麗なリフレクションを撮るコツを知りたいところ。
結局ベストショットで撮れる場所が局所的に2〜3ヶ所と限られているので、撮影も早々に切り上げ庭園を散策した。
金閣の裏側。金閣の尻とでも言おうか。撮ってはみたものの長く伸びた雨どいが目立つのでどうにも興を削ぐ。これはどこから観ても様になる富士山とは異なる。やはり正面からの金閣が美しい。
ぐるりと道を曲がると義満のお茶用のお水の井戸があったり、義満のお手洗い用のお水があったりと、銀閣寺とその構成は似通っている。なんとも贅沢で優雅な風景だ。時代は異なるが甲斐の戦国武将の武田信玄も暗殺を危惧して自室にお手洗いを置き水洗にしたと言うが、あちらは実用よりでこちらは数寄よりである。
先へ先へと行くと茶屋があり、土産物屋が建ち並び、日本酒や金閣寺限定の和菓子などを売っている。八つ橋やおかき屋などもある。そういえば急いできたから昼がまだだったなと、試食品を一口つまむ。
腹が空いていたので、500円でお抹茶と金閣寺オリジナルの和菓子を頂く。
和菓子が思いのほか美味しかったのでお土産に買って帰ろうかとも思ったが、この後夜遅くまでいろんな名所を巡り写真をガッツリ撮る予定だったので断念した。結局この日は両親へのお土産を何一つ買って帰れなかった。
結構あっという間の散策だった。銀閣寺の方が滞在時間が長かった気がする。家に帰ってからパンフレットを広げてみたら、別の角度からの雪化粧の金閣寺や秋の紅葉が添えられた金閣寺の写真があったので、また撮りに行きたいと思った。
ところで美に対する嫉妬とは何であろうか。またこれを機に金閣寺を題材にした小説を読み返してみようと思う。