夜空はいつでも最高密度の青色だ – 浮かれた現代社会に楔を打つ

夜空はいつでも最高密度の青色だ

最果タヒの大ヒット詩集を映画化。日雇い労働者の青年と看護師の女性を軸にストーリーが進む。池松壮亮演じる日雇い労働者の青年がコミュニケーションを取るのに不器用な若者を上手く演じている。髪の毛ボサボサで、相手のことを思いやりすぎてうざがられて空回りしている感じがとても良い。『愛の渦』でも上京したものの社会に溶け込めない無職の青年を演じていたが、髪の毛ボサボサなことも相まってこういう優しさが空回りしている不器用な若者がすごく板にあっている。と同時に、こういう最底辺で生きる不器用な若者の将来はどういうものになるのだろうかとも思う。

小説にしても映画にしても、無職だったりニートだったり日雇い労働者だったり社会の最底辺で生きる若者が不自然なほど頻繁に主要登場人物に取り上げられているが、それを見る側としてはこれらの若者をどう捉えていけばいいのだろうかという疑問が湧く。なぜこんな不器用な優しさ以外に何の魅力のない青年を主人公に据えるのだろうと。それは原作の小説家自身が小説家志望でフリーターだったり無職で不安定な立場だったり、小説家という職業特有の強い感受性から社会的弱者に対する共感が強かったりすることが起因しているのかもしれないが、例えば恵まれた作り手側がこういった底辺に生きる青年を題材にする時にどのような思いで主人公のバックグラウンドを決めているのだろうか。自由気ままな生き方に対する憧憬の念から疑似体験を欲しているのか、社会学的な義侠心を発露として若者の貧困問題を精神的な面から描いて大衆に広く投げ掛けて社会を改善しようとする試みなのか。しかし不器用な若者を描いたところで不器用であることには変わりなく自身が変わらない限り救い難い。そこにこういった類いの映画を観終わったときに遣る瀬無い絶望感を覚えるのだが、『愛の渦』の男女のコントラストが激しいラストシーンとは違い、この映画ではとりあえず、かろうじてハッピーエンドで結ばれる。それでも一筋縄ではいかない経緯の末にではあったが。

田中哲司演じる壮年の日雇い労働者が、若者の将来と重なっている。きつい肉体労働で体も思うままにならず、ズボンのファスナーもあげられずに開きっぱなしのままでそこからシャツが飛び出ている。派遣会社の監督と思われる人物が無慈悲にも日雇い労働者たちを労働現場へと振り分けていく。フィリピンから出稼ぎに来た若者は国へ帰るという。故郷で家を建てるそうだ。突然訪れた仲間の死(演じるのは松田龍平)。葬式のシーンで、ふと厳しい労働環境に置かれている若者にも学生時代があったのだと、そのギャップにもまた身をつまされる。葬式に訪れた派遣会社の監督は、仕事中に死なないでねと軽く突き放す。これが日雇い労働の厳しい現実だ。人間的尊厳は皆無だ。しかしこういった日雇い労働者が、高給取りのホワイトカラーが勤務し資本主義を謳歌する消費者たちが入り乱れる高いビルを建てている。なんとも共産主義に走りそうな無慈悲な現実を突きつけられるわけだ。日雇い労働者はそういった消費文化からも突き放されている。ガールズバーに行きたいというシーンがあるが、金をどうやりくりするかで頭を捻らせる。
壮年の日雇い労働者はコンビニの女店員と仲良くなったと自慢するがそれも結局は破局する。田中哲司演じるこの壮年の日雇い労働者が、公園で待機しているシーンで、子連れの親子をぼんやりと眺めているシーンがある。ほんの数秒のシーンだが、とても狂気に感じた。実際に起こった小学校での大量殺傷事件の元死刑囚と見た目からも重なるのだ。結婚して家庭を築くこともままならない日雇い労働者と幸せな家庭を築くことができる一家の静かな無言の批評を含んだコントラスト。この映画は他にもドキっとさせられるくらいの数々の毒を含んでいる。

最後に田中哲司演じる日雇い労働者は体力の限界を感じて仕事を辞める。怒りを含ませたような笑顔で仲間から去っていく姿。その先にはどのような人生が待ち受けているのがとても興味が惹かれた。