日本映画の良さというのは、実際にこうして日本という地で長年生活していながら、映画のフィルムというフィルターを通した目で、新鮮な感覚で私たちの日常を追体験できるところにある。実生活で普段我々が目にする事象と、スクリーンから伝わってくるモノたちは音といい視線といい全く異なる様相を呈している。しかしその差異こそが、我々に自分たちが何者であるかを気づかせ、自分たちの日常に潜んでいる無意識の内の行動様式に気づかされる。特に映画館はスクリーンが大きいだけで無く、音響が素晴らしいので、普段の何気ない音、例えば朝食のこんがりと焼けたパンを囓る音や、風が吹く音、ドアを開ける音などのひとつひとつが、豊潤な感覚を伴いながら耳に届く。
というわけで久しぶりにこの感覚を味わいたくて日本映画を見に行こうと、それも昭和四〇年代を舞台にした老人達が主演の映画を見に行こうとして、家を出る時間を一〇分間違えてしまい、間に合わないことが分かったので別の映画を見ることにした。株主優待のチケットも使い切らないと勿体ないので、一気に2本見ることにして、タイムテーブルを見ると、ブリグズビー・ベアという映画が時間的にちょうどいい。次に見る予定のマルクス・エンゲルスとわずか一〇分差でもあったので、ブリグズビー・ベアに決めた。
ポスターだけを観ると、クマの着ぐるみと眼鏡にもじゃもじゃ頭のアメリカ人のオタクの青年が向かい合っている。ちょっとだけ映画の概要に目を通すと、何でもシェルターで暮らしていて、ブリグズビー・ベアというビデオに夢中なのだそうだ。恐らく純粋な心の持ち主であるオタクの主人公が、大好きなビデオに出てくるブリグズビー・ベアが目の前に現れてお喋りし出すといったような、二人の交流を描いた心温まるSFファンタジーだろうと踏んで観に行ったのだが、これが全く予想外の内容と展開だった。
主人公の青年ジェームズは小さい頃に誘拐されて、荒野のただ中にあるシェルターの中で誘拐犯の夫婦と暮らしている。外に出ると毒にやられると言われてシェルターに隔離されているのだが、要は外から部外者に見つからないようにするための口実だ。ジェームズは毎週届くブリグズビー・ベアという子供向けの教育番組のビデオに夢中で、その内容についてオタクらしい深い分析をし、年代物のパソコンとビデオを使ってYouTuberのように報告を上げ、掲示板で他のメンバーと意見を取り交わしたり、両親と思い込んでいる二人に、今回のブリグズビー・ベアの解釈について熱心に話す。
ところがこのブリグズビー・ベアというビデオは誘拐犯でアーティストでもある男が数十キロ離れたスタジオで撮影した物だという事が、誘拐犯が逮捕されジェームズが警察の手により開放された後に発覚する。しかしジェームズはその事実にショックを受けるどころか、自分でその続きを映画として自力で作れることを知り狂喜する。着ぐるみやらセットの大道具小道具やらが証拠品として警察署内に保管されているというので、自分の元に戻ってこないか、担当刑事にしつこく掛け合う。
そのようにして映画作りが始まるのだが、その過程で、映像作家志望の青年や、夢を諦めた担当刑事、冷たい妹や、忌々しい誘拐犯が作ったブリグズビー・ベアのことを忘れさせたい両親までをも巻き込みながら、映画作りに熱心になっていく。これらの話の一つ一つが胸に迫ってきたり、日常の中の自然なおかしみを誘ったりと、どうもこれは、心を激しく揺さぶってくる映画だなと、時には笑い、時には涙腺が緩んだりした。一つ一つが思い当たる節がある。ジェームズの気持ちは純真すぎて時に理解を超えるところもあるがそれはそのまま観客である我々自身の感情でもあるし、刑事の気持ちにもなれるし、ようやく誘拐犯から子供を取り戻した両親の気持ちも分かる。厄介なのが帰ってきたと言わんばかりの面倒臭そうな妹の気持ちも分かる。
この手の映画を観て思うのは、感動というものは、或いは感動を催させる優れた映画というものは単なるパッケージでは無く、我々の胸の奥深く、日常生活で積み重ねられてきた塵のように細かい様々な記憶の奥深くを突き刺し、無意識のうちにその折々に感じたこととまだ見ぬ理想を想起させることだ。商品化された感動という物は、やはり感動できない。専門学校で習ったかのような何らかのパターンに填め込んでパッケージ化した物語や狙った感動というものは、観ていて実に退屈極まりないし分かってしまう。その手の安っぽい映画を以前何度か見た事がある。今回はそういったパッケージ化された感動とは違う、何か深みのようなものを感じた。ここには人が幸せにになるための理想の行動が描かれているような気がした。ありきたりの固定観念のみで生きている人間は決して幸せになることはない。固定観念を打破する人こそが幸せを掴むシーンは今までに幾度となく見てきた覚えがある。25年間も外界から隔離されて生きてきたジェームズは、社会についてあまりにも無知な半面、社会の固定観念からは自由だ。一方で対照的に、妹は世の中の固定観念を代表しているかのような仕草をする。実際にジェームズは社会の固定観念に精神を取られること無く自由に行動するのだが、当然実社会との齟齬を来してしまい、大きなトラブルにもなる。
最後には登場人物皆がハッピーになる、アメリカ映画らしい、ダイナミックでわかりやすいエンターテイメントの感動物と言われればラストシーンなどを観ているとそういう面もあるのだが、そういうスカした紋切り型の批評では片付かないところが、やはりアメリカ映画にはある。そして映画館を出たら、美しい幸せな映画の世界から、あの視界の隅々にまで猜疑心溢れる穢れた日常に戻らなければならないのかと思うと、気鬱になってしまう。
実は本作では、スターウォーズの主人公を演じたマーク・ハミルが出ている。映画館の暗闇の中から廊下に出たときに目に付いたポスターに、マーク・ハミルの文字が有ることに気づいた。一瞬誰のことだったか出てこなかったが、10秒ほどしてスターウォーズの主人公であることを思いだした。刑事をやっていた人だったかなとパンフレットを見たら、なんと誘拐犯の夫の役で、全く気づかなかった。誘拐犯にしても、大学教授の妻が子供を持って帰ってきてしまったという話で、あぁ、多分この二人は子供ができなくて、どうしても子供が欲しかったんだなと、誘拐の罪は重いが、人としてはそんなに悪い人ではないように思えてしまう。この映画には、本当の悪人が出てこない。そういう意味でも心安まる映画だった。人生の喜怒哀楽と善悪を盛り込みながらも最後は理想を描いて純化してしまう映画という手法。
というわけで、ゲイリー・オールドマンのチャーチル(Darkest Hour)と並んで、自分の中で今年1,2を争う感動作となった。