前回の記事では背景や相方の暈けの量、構図を見極めるには映画やアニメを参考にすると良いという話をした。
映画やアニメを見ることで、自分なりに答えを導き出せることもある。
最近写真を撮っていて、串刺し構図が気になることが何度かあった。野外で、それも木の多いところで撮っていると、どうしても串刺し構図になってしまうことがある。撮影現場では注意を払ってなるべく串刺し構図にならないように気をつけているのだが、いざ家に帰ってデータを確認してみると、串刺し構図になっていた写真を見つけた。いくら注意を払っていても、ふと忘れてしまうことがある。またライティングや背景との兼ね合いでどうしてもその位置でなければならなかったのかもしれない。
さて串刺し構図、どこまで許容できるだろうか。これも映画から自分なりの答えを導き出すことが出来た。先日或る映画を観に行ってきたのだが、幾つかのシーンで、串刺し構図であることに気づいた。やはり普段から写真を撮っているとどうしても気づいてしまう。しかしそのシーンの串刺し構図が特段悪いとも思われない。作品自体が素晴らしいし、登場人物に惹かれていたからだ。背景の手すりやら木が串刺し構図になっているなんて、いちいち指摘しながら作品を鑑賞するのも本末転倒で馬鹿馬鹿しい。
映画を見るとき、または写真を見るときに、率先して串刺し構図であることを粗探ししたりする姿勢になってしまうのは残念極まりない。撮影者側としては気を払いたい点ではあるが、一転鑑賞者側に回れば、そんな些末なことにばかり目がいっている状態というのは、作品の主題には目が行っていない状態であり、実に勿体ない行為といえる。
串刺し構図ではないが、先日YouTubeで昔のドラマを見ていたら、オープニングのお寺の映像が、完璧な水平ではなかった。ほんの僅かだが傾いていた。しかしこんなことはそのドラマを見た18年前には全く気づかなかったことだ。写真を撮るようになってから、特に風景写真を撮るようになってから、水平が気になり始めた。
そういうものなので、カメラを趣味としていない写真の鑑賞者側からすれば、カメラマンが気になってしまうことは、あまり気にならない可能性もある。
というわけで、串刺し構図について、ある程度の答えは導き出せた。世の中には様々な背景が存在する。それを串刺し構図になるからと不自然に避けた構図にしたりすれば、そのまま不自然な写真になりかねないし、作品を鑑賞中にいちいち串刺し構図であることを指摘するのは、木を見て森を見ずといったところだろうか。本末転倒だ。
逆に、なぜこれだけ背景がゴチャゴチャしているのに、被写体は見事に串刺し構図になっていないのだろう、妙に空いた空間にスッポリと被写体が収まっていて、カメラマンが頑張って串刺し構図になるのを避けた跡がよく伝わってくるな、という不自然さを抱かせてしまう写真になってしまうかもしれない。
せいぜい串刺し構図などというのは、枝葉程度のものと捉えて撮影に臨むのがベストな答えだろう。