Canonから5,060万画素を誇る5Ds・5DsRが発売された際に、推奨レンズがラインナップされた。どのレンズも最近発売されたばかりの最新Lレンズで、僕が所有する1世代前の古いLレンズはラインナップされていなかった。
一眼レフデジカメの高画素化に伴い、レンズの性能も飛躍的に向上した。おそらくフィルムカメラの時代と比べると今のレンズは相当高性能に違いない。というのも、フィルム時代ならプリントして鑑賞するだけで充分だった写真という趣味も、デジタル化の波に伴い、パソコンの大画面で写真を等倍鑑賞するという機会が増えたことで、より高性能な描写が可能なレンズの必要性が生じてきたからだ。
そして最新のキヤノンのLレンズが発売される度に、値段を見て驚く。今までのLレンズよりも20~30%程割高になっているのだ。やはり高画素化に対応出来るレンズというのは、高性能で最新のレンズ技術が搭載されているので、それなりの値段がするということだろうか。デジタル化によりレンズが高価格化するのは、デジタル化で仕事が減ると思ったらむしろ増大した現代社会と相通じる悲哀がある。
デジキャパ10月号の記事を読んでいたら、フィルム時代のフラッグシップ機の特集が組まれていた。フィルム時代はプロフェッショナル用のフラッグシップ機でもせいぜい15万円前後。それからデジタル化が進んだものの30万前後で、1,000万画素越えの1D系が100万円の大台に乗せた物の、その後は1DXでも60万から70万前後の価格なので、最新機種は価格が抑え気味のようだ。
中判デジタルカメラのエントリー機が80万円~100万円することを考えると、かつての1,000万画素越えの一眼レフデジカメは高額だったことが窺える。
フィルムカメラの時代の方がカメラやレンズが安かった、と思われるかも知れない。しかしよくよく考えてみると、フィルム時代はデータという概念がなかった。写真はフィルムに焼き付けて撮るものだった。記憶が正しければ、フィルムは24枚しか撮れない。つまり1枚1枚構図をじっくりと考えて撮る必要に迫られる。デジタルカメラみたいに充電池が許す限り、撮り放題というわけにはいかない。フィルムカメラのフラッグシップ機が安かった分、フィルムは1本24枚とか36枚なので、それこそスポーツ撮影などではジャブジャブ使っていたのではないだろうか。フィルム代だけで万越え行きそうだ。
デジタル化に伴い、写真は気軽に何十枚何百枚、時には何千枚と撮れる時代になった。一度記録メディアを購入してしまえば、いくら撮ってもフィルム代はがかからない。現像代だってかからない。パソコンで自分で出来てしまうからだ。フィルム時代にも自分の部屋の押し入れを暗室にして自分で現像していた人もいるかも知れないが、それだって液剤とフィルムなど手間とお金がかかる。
何枚でも撮れるから色んな露出で撮影することが出来る。液晶画面で撮った写真をすぐに確認できるので、失敗したら簡単に撮り直せる。フィルム時代は現像に出すまできちんと撮れているかどうかも分からなかった。
そう考えると、デジタル時代のカメラの方がより取っつきやすくなったのではないだろうか。誰でも簡単に撮れるということは、陳腐化も意味する。カメラのデジタル化とインターネットの到来が同時発生し、撮影枚数は飛躍的に伸び、インターネット上にアップする事で、自分の撮影した写真が不特定多数の大勢の人の目に触れ、評価される機会も増えた。同時に写真の陳腐化に拍車を掛けることになった。どこででも手軽に撮れるスマホと、リアルタイムで大勢の人に見て貰えるSNSが更に追い打ちを掛けた。インターネットがなかった時代は、自分の撮った写真はカメラ雑誌に掲載されるくらいしか広く発表する場がなかった。
陳腐化を意識する事による効用もある。景勝地などに撮影に出かけると、誰が撮ってもどこかで見たことのあるような同じ写真になる。そこまで行かなくても、皆同じようなカラフルな空を撮っている。それをウェブに上げて写真が共有される。どこかで見たような風景写真だ。そういう危機感が芽生え始めると、今度は教科書通りのような、あるいは他人とは違ったオリジナリティ溢れる写真を撮ろうと心掛けるようになる。
フィルム時代には、撮れる枚数が限られていたために構図に入念に意識を集中させていたのと同様に、写真が陳腐化しやすいデジタル時代には、必然的に他人と同じ教科書通りの写真にならないよう心掛けることに意識が集中し出すようになる。
陳腐化が悪い事とも限らない。そもそも他人に写真を見て貰って評価されるだけが写真を撮る目的ではない。先日Twitterで、他人が高く評価してくれる写真を撮り続けてきた結果、何のために写真を撮っているのか分からなくなり、高級機材をすべて売り払おうとしている方を見かけた。他人からの評価(すなわちTwitterではお気に入り)だけを求めて写真を撮っていては行き詰まるという事だろうか。思い出だったり、写真を撮ること自体が愉しかったり、家に帰って一人で鑑賞して愉しんだり、写真を撮る目的は千差万別だ。
結局の所、写真という趣味にかかるお金も、撮影する時の姿勢も、楽しみ方も、フィルム時代とはそんなに変わってはいないではないだろうか。