岐阜城は巨大な満月と天守閣を共に写真に収めることが出来るスポットとしてカメラマンの間で有名だが、訪れた時はそんなことはつゆ知らず、ただJR岐阜駅前の黄金の織田信長像を見たいが為に岐阜に足を下ろしたようなものだった。
もちろん戦国時代好き、コーエーの信長の野望ファンの筆者としては岐阜城も拝みたかった。なんといってもあの天下の織田信長が居城とした歴史的にも非常に有意義な城である。
岐阜城の歴史
元は建仁元年(1201年)に、鎌倉幕府の軍事目的の為に、二階堂行政が築いた砦で、その縁戚で稲葉氏と改名した稲葉光資が稲葉山城と名付ける。その後時を経て、戦国時代。マムシの道三で知られる下克上の雄、斎藤道三が1549年(天文18年)に稲葉山城を大改築、井ノ口城下町を作る。1556年には、家督を譲られ斎藤家当主となっていた息子義龍に攻められ(長良川の戦い)、道三は自害。原因は隠居した道三が正室の息子を溺愛し、義龍を廃嫡しようとしたことにあるとされる。要は親子喧嘩が陰湿化して最悪な結果となったわけだ。戦国時代では家臣達をも巻き込んだお家騒動の戦争に発展するが、現代でも様相を変え親の子殺し・子の親殺しなど度々この手の事件は起こっている。
その義龍も1561年(永禄四年)に急死し、その息子龍興が家督を継ぐ。ここで歴史に大きく名を刻む事件が発生する。龍興は日頃から酒色に溺れ、家臣の竹中半兵衛重治らの忠言にも耳を傾けず蔑ろにしていた。自分に都合の良いことをいう佞臣達を侍らせ、その佞臣らも半兵衛を馬鹿にしていた。
そこで半兵衛は一計を案じ、僅か十数人の手勢で稲葉山城を乗っ取ってしまう。佞臣達は殺され、城主龍興は逃げてしまい、半年間竹中半兵衛らが城を占拠することになる。
その後半兵衛は龍興に城を返して、自らは隠居。再び歴史の表舞台に登場することになるのは、木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)が、三顧の礼を用いて半兵衛を軍師として迎える時である。
斎藤龍興のフィクションに関しては、漫画「センゴク」全15巻に詳しい。本作では主人公の仙石権兵衛秀久を食ってしまっている感もある龍興。史実では暗愚と評されることの多い龍興が、非常に面白く魅力的な策謀家に脚色されているので、歴史好きな方は是非一読することをお薦めする。
1567年(永禄10年)、美濃を平定した織田信長は、本拠地を尾張から美濃へと移す。城下の井ノ口を岐阜と改め、稲葉山城も岐阜城と改めて、天下布武の朱印を用いるようになる。岐阜城の立つ稲葉山も金華山と改められ、今日に至る。岐阜といい金華山といい、どちらも唐風だ。岐阜という地名は中国の故事から取ったというが、金華山はどうなのだろう。
安土城が落成し、岐阜城の城主は信長の嫡男である信忠が受け継ぐ。しかし1582年(天正10年)に起こった本能寺の変により、信長父子は自害。織田家の後継を決める清洲会議にて織田信長の三男信孝が三法師を引き取り岐阜城主となる。同年12月、信長の重臣であった羽柴秀吉と柴田勝家の衝突が激化、勝家陣営の信孝は秀吉勢に攻められ開城する。翌年再び籠城するが賤ヶ岳の戦いで大胆な美濃返しを演じた秀吉に柴田勝家が敗北し越前北ノ庄城に撤退、孤立無援となった信孝は仲の悪かった兄弟の織田信雄に攻められ降伏し、内海大御堂寺の安養院にて自害する。享年26。切腹時には腸を掴み出して梅の掛け軸に投げつけたという。仁科盛信の切腹の際の行いと似ている。
信孝には有名な辞世の句がある。
むかしより 主(しゅう)をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん
平安時代末期に平治の乱に敗れて野間の地に落ち延びた源義朝を風呂場にて騙し討ちした長田忠致の故事にかけていると言われているが、出典は江戸期となっている。
この時期の秀吉の節操のない権力収奪の策略ぶりは、秀吉没後に秀吉の遺命をことごとく破った徳川家康の横暴ぶりにも似ているところがある。堀秀政への書状で秀吉の違約を諫めた柴田勝家はさながら石田三成といったところだろうか。
余談だが義朝の首を平清盛に差し出した忠致は褒美を与えられるが欲深かったようで不平を垂れると怒りを買ったという。その後源平合戦の折には、源頼朝の側につき、戦働きが良ければ父を殺した罪を免じて美濃尾張を与えると約し戦場で功を上げたが、「身の終わりを与える」というかけことばで戦後残忍な方法で処刑されてしまう。
信孝亡き後の岐阜城主は池田恒興の嫡男池田元助、小牧長久手の戦いの中入りで恒興・元助父子が討ち死にするとその弟輝政、次に秀吉の姉である智(日秀尼)と三好一路の子豊臣秀勝、朝鮮の役で病没後はかつての三法師、織田信長の嫡孫である織田秀信が城主となる。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦い本戦前に福島正則、池田輝政ら東軍諸将の大軍に攻め込まれ奮戦するも降伏、秀信は高野山に入ろうとするが祖父信長の高野山攻めを理由にいったん拒否される。その後入山が許されたが後に追放され、1605年(慶長10年)に死去している。享年26。
関ヶ原の翌年、徳川家康の命により岐阜城は廃城となるが、時代は明治に移り1910年(明治43年)、金華山に模擬城が造成される。しかしこれも1943年(昭和18年)に焼失。戦後の昭和31年(1956年)、復興天守閣が再建され、1997年(平成9年)の平成の大改修を経て現在に至る。
岐阜城までのアクセス
さて、岐阜城の歴史をざっと見たところで、岐阜城探訪を振り返ってみようと思う。JR岐阜駅北口を出て信長ゆめ階段という幅の広い階段を降りるとバス停のターミナルがある。そこからN80などのバスに乗って約15分、岐阜公園・歴史博物館前で下車とある。黄金の信長像を撮っていたら目的地行きのバスが到着したので走ってバス停へ急ぐ。
バス停を降りると早速金華山の上に岐阜城の天守閣が小さく見える。城前の広いT字路にかかる横断歩道を渡り、公園の中を進むと、金華山ロープウェイの建物が見える。中に入るとチケット売り場と土産物屋が併設してある。ロープウェイと徒歩で15分ほどだが、城好き、戦国時代好きは敢えて徒歩で登り、当時の城を攻める侍の気分を味わうという旅の方法もある。
ここのロープウェイ山頂の東側トイレが「また訪れたくなる観光トイレ」という触れ込みで、岐阜提灯などの伝統工芸をこらした素晴らしい見晴らしのトイレらしい。使っていないからどのような物かは分からないが、やはり観光で一番綺麗であって欲しいのはトイレだと筆者も痛感している。
上品な佇まいの老係員にロープウェイ内に促されて、古風な語り口の案内嬢の解説を聞きながらロープウェイを登り切ると、今度は徒歩で岐阜城へと向かう。鉄砲を突き出す穴の空いた城壁の向こうに岐阜城天守閣が見える景色などは計算されているなと思う。これはやはり再現だろうか。
階段を上ってばかりの毎日のような気がするが、すぐに天守閣に着く。近くからそびえる天守閣と石垣も見ることが出来る。石垣も再現で「近代以降の積み直し」と立て看板の解説にある。
天守には200円で入れる。中は和歌山城の天守閣内部のようにコンクリートで冷たく固い感じで、肖像画や鎧兜、武器などが展示されている。複製品だったり本物だったりと様々だ。しかし思っていたよりも中はこぢんまりとした感じだった。
こぢんまりとはしているが、最上階の天守からの眺めは最高だ。この日は朝方は良く晴れていたので、白い雪を頂いた山々が遠くにハッキリと見渡せることが出来た。岐阜市街の様子も一望できる。長良川が蛇行しながら雄大に流れており、無数の住宅がビッシリと並んでいる。澄んだ青い屋根の家が多い事に気づく。超高層ビルやタワーマンションがないためか、とても上品な街並みに見える。緑萌える小山などが規則的に配列されており、一流の庭師の手による完成されたミニチュアのような美しさだ。何より雪を頂いた山を見れたことが感激だった。
近くには歴史資料館もあったが、この日は他に寄るところもあり時間がなかったのでスルー。
さてロープウェイを降りると、またウグイス嬢が解説する。その中で「いた〜がき〜、しす〜とも〜、じゆーは〜、しせず〜で有名な〜、板垣退助の〜銅像が〜」という解説を聞いてハッとする。自由民権運動家の板垣退助が演説を終えて建物を出て暴漢に襲われた際に「板垣死すとも自由は死せず」と口走った、歴史の教科書でも有名なあの名所が岐阜公園内にあるのだという。早速田楽を食べてから行ってみた。
なるほど確かに立派な銅像が建ってある。信長像といい板垣退助像といい、岐阜市には良い銅像が2つもある。板垣退助像を見れたのは思いがけない幸せだった。
最後にJR岐阜駅の織田信長像をもう一度惜しむように撮影して岐阜を後にした。行き先は大垣駅から樽見鉄道終着地にある薄墨桜だ。岐阜城には、また月を撮りに訪れることになるだろう。JRの往復運賃7000円近くかかるけれど。