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松本城 – まほろば探訪 第54回

松本城。数少ない現存天守の内の1つ。
松本城。数少ない現存天守の内の1つ。

「松本〜、松本〜」

JR松本駅に着くと、昭和の風情が残る女性の声がプラットホームに響き渡る。この日は伊那高遠で夜遅くまで勝間薬師堂の枝垂れ桜を撮り、寒くて月も出てきたので三時間超徹夜で歩いて伊那市駅まで辿り着き、おそらく電車の中で20分ほど仮眠したが記憶がない。朝の電車はサラリーマンやOLよりも、高校生が大半を占めていた。

目的地は国宝松本城。徒歩で18分くらいだろうか。背広に身を包んだ若い溌剌としたサラリーマン達が歩道を歩き、女子高生の一群が自転車で交差点を横切っていく。どこにでもある朝の光景のはずが、やたら新鮮に見える。

松本城の歴史

松本城

元は信濃を支配していた信濃守護小笠原氏の居城林城の支城として築かれ、当時は深志城と呼ばれていた。甲斐の武田晴信(後の信玄)が信濃にその食指を伸ばす過程で、時の城主小笠原長時は林城を追われる。1550年(天文19年)のことだった。晴信は深志城代として馬場信春を置き、信濃経営の拠点となる。

その後勝頼の代になり、1575年(天正3年)に長篠設楽が原の戦いに於いて織田徳川連合軍に大敗。1582年(天正10年)、武田家と縁戚関係を結んでいた木曾義昌の謀反をきっかけに、織田信忠率いる5万の大軍が武田領国に進軍、高遠城など信濃の武田方諸城があっけなく落城または開城していく。不利を悟って半造の新府城を放火した武田勝頼は武田家ゆかりの地である天目山を目指すが、滝川一益勢に追い詰められ田野の地で自害。馬場信春の嫡男で深志城主馬場昌房は、織田長益(有楽斎)に城を明け渡す。その後昌房は戦死したとも刑死したとも伝えられている。

のち深志城は織田信長により、木曾義昌に下賜された。しかし同年6月に本能寺の変で明智光秀の謀反により織田信長・信忠父子が自刃。武田遺領を巡る大名達の領地争い天正壬午の乱において、上杉景勝に擁立された小笠原洞雪斎が深志城を奪取。しかし求心力が低下し、徳川家康に援助を受けた小笠原貞慶に攻められ、城を明け渡す。この時点で、貞慶が深志城を松本城と改名。

1585年(天正13年)、徳川家の重臣である石川数正が、貞慶嫡男で人質となっていた秀政をつれて徳川家を出奔し豊臣秀吉につくと、貞慶も豊臣家臣となる。1590年(天正18年)の小田原征伐での論功行賞で、徳川家が先祖伝来の三河の地から関八州に国替えになると、小笠原秀政も下総古河へ移封となり、松本城には石川数正が入城、数正・康長親子は城や城下町の整備に努める。

松本城天守閣。
松本城天守閣。

1613年(慶長18年)、大久保長安事件と連座して、信濃松本藩第2代藩主石川康長が改易される。大久保長安と姻戚関係にあったためといわれているが、幕府の外様大名潰しの一環か、数正時代の豊臣家への出奔が尾を引いていたのかもしれない。

その後は再び小笠原秀政が入城するが、大坂の陣の後の1617年(元和3年)に松平康長が移封、戸田松平氏の居城となった。後に戸田松平氏も移封され、松平直政、堀田正盛、水野氏と城主を変えるが、水野忠恒が酒色に耽り気性も荒く暗愚であったために改易され、再び戸田松平氏が入城し幕末に至る。

松本城探訪

松本城

この日は朝から天気が悪く、空はどんよりとしていた。晴れていれば陽光を跳ね返す黒色の城を拝めただろうが、空は灰色で、城も黒い。ところが太陽の光を浴びたせいだろうか、黒い瓦が反射で白く写っていた。なんとも不思議なものだ。ということは空が曇っているときの方が黒の偉容な城の姿が見られるということか。

太陽の反射のせいか、白く写った松本城。
太陽の反射のせいか、白く写った松本城。

広々とした庭園の中に入り、会場間もない松本城の中へと門をくぐる。今年は例年より10日ほど開花が早かったため、桜はあらかた散ってしまっていて、枝垂れ桜も枯れた枝のような姿を見せている。後からホームページで春爛漫の松本城の写真を見たら、これがまた桜の咲き誇る名所で、時期を逃してしまったことが悔やまれてならない。

急いでいたので適当に撮ったが、後からよく見ると美しい筆書きの石碑。
急いでいたので適当に撮ったが、後からよく見ると美しい筆書きの石碑。

さて、門には忍者に扮したキャストがお出迎え。門をくぐると庭園がひろがり、そこに月見櫓、辰巳附櫓、五層の大天守、渡櫓、乾小天守で構成された松本城の佇まいを見ることが出来る。黒色でありながら、なんとも上品に佇んで居るではないか。先を進むと、今度は野武士風のキャストがご挨拶。

庭園を前景に上品な佇まいを見せる松本城。
庭園を前景に上品な佇まいを見せる松本城。

早速中に入ることに。しかし城というのは、見る場所や角度から様々な顔を見せてくれるものだ。強靱な守り神のように見えることもあれば、美人画の中にある優しいしなやかな女性のような上品さで佇んでいるようにも見える。しかし近づいてみると、厳めしい権力者のように見える。

天守に近づいてみるとなかなかの威圧感がある。
天守に近づいてみるとなかなかの威圧感がある。
大河ドラマのワンシーンにありそう。
大河ドラマのワンシーンにありそう。

では中はどうだろう。現存天守だけあって、当時の雰囲気を伝える木造の暗い雰囲気で重厚感がある。安土桃山期〜江戸期から残る現存天守は12しかないそうで、そのうちの五重の天守閣は姫路城とここ松本城の二つだけという。言われてみれば岐阜城は天守閣はあったらしいけれど資料がないから姿形を他の城を参考に再現した復興天守と呼ばれるもので、中はコンクリートで現代的な建物だった。

松本城天守閣の内部。 松本城天守閣の内部。

ガラス張りのケースの中には鎧や様々な銃のコレクション、屏風絵などが展示されている。写真を載せて良いのか不明なので今回は割愛させて頂く。最上階に行くために段差の急な木造の階段を上る。最上階からの眺めは、もし晴れていれば雪を頂いたアルプスが見えたという。気さくな警備員のおじさんが、「私の権力をもってしてもこればかりはどうにもなりませんです」と笑いながら天守から見渡せる山々の名前を解説してくれた。

天守閣最上階からの眺め。残念ながらアルプスは雲に隠れて見えなかった。
天守閣最上階からの眺め。残念ながらアルプスは雲に隠れて見えなかった。

下の階に戻り、月見櫓という場所に出ると、その名の通りお月見をするのに風情のある造りとなっている。将軍家を歓待するために造られたそうだ。1634年(寛永11年)に京に上洛することになった徳川家光はその帰りに善光寺参詣を所望し、松本城を宿とすることにした。これを受けて松本城主、松平直政は1633年(寛永10年)に急遽、月見櫓を普請したという。朱の漆が塗られた刎ね勾欄に彩られた月見櫓だけ戦風情がなく平安時代のように優雅に見えるのは、1615年(元和元年)の大坂夏の陣を以て長きにわたる戦国時代が終焉して20年近く経った平和な時代に建てられたからだ。結局家光は中山道木曽路の落石が原因で、松本城には来なかったという。

眺めのよさげな月見櫓。向こうには桜が咲いている。
眺めのよさげな月見櫓。向こうには桜が咲いている。
枝垂れ桜は散っていたが、こちらの桜はまだ残っていた。
枝垂れ桜は散っていたが、こちらの桜はまだ残っていた。
お堀を泳いでいたスワン。
お堀を泳いでいたスワン。
立派な構えの太鼓門。
立派な構えの太鼓門。
太鼓門を正面から眺める。
太鼓門を正面から眺める。
朱が眩しい二の丸裏御門橋と松本城天守。
朱が眩しい二の丸裏御門橋と松本城天守。

とりあえず伊那高遠から松本一帯の土地勘は得たので、また桜が咲き誇る季節に晴れた朝から訪れたいものだ。