風景写真と合成の問題

早朝と夕暮れ時に月が赤く見えるときがある。

富士山の写真コンテストで最優秀賞に輝いた写真に「合成」という指摘が相次いでいると、朝日新聞が報じた。その指摘の中で、「満月の背景に雲が写るはずがない」というものと「富士山頂の高さにある月は赤くならない」というものがあった。

朝日新聞記事

この二つの指摘を読んで一見何を問題にしているのか余り良く分からなかった。月の後ろには雲が見えない・・・。はてな。普段月と深く向き合って暮らしているわけではないから一読したときにピンとこなかったのだが、よくよく考えてみると月は宇宙にあるわけだから、雲が月の後ろにあるわけがない。いやひょっとしたら蜃気楼のようなアクロバティックな光学作用で、月の後ろに雲が浮かんでいるように見える時節があるかも知れない。しかしそんな奇異な話はニュースでも聞いたことがない。

たとえば今宵の月を見上げてみると、ほぼ満月に近い。住んでいる場所によって空模様は異なるが筆者の目に見える月にはうっすらと雲がかかっており、ほんの弱い雨が肌を柔く打つ感触があった。月がボンヤリと見えてその周りを薄い雲が囲っているように見えるが、それが見ようによっては月の背後に雲が控えているようにも見える。月を見上げることはあるが月の後ろに何があるか意識して見ることは今までなかった。

ひょっとしたら月の後ろに雲が浮かんでいる写真があるかも知れないと、グーグルの画像検索で月を調べてみたが、どの写真もだいたい闇夜に輝いていて、背後に雲は浮かんでいない。そのうち月の後ろに雲が浮かんでいる写真を見つけたが、よく見ると大きいし背景と溶け合っていなくて月が前に出ているかのような不自然さ。月もやたら綺麗。どう見ても合成写真だ。

事のついでに月のイラストも検索して見ると、色彩とコントラスト豊かなイラストで月の背景に雲がハッキリと描かれているものも散見された。つまり一定の割合で月の背後に雲が浮かんでいるイメージを当たり前のこととして抱いている人がいるという事、言い換えるなら月の後ろに雲が浮かんでいる姿が物理の法則に反していることに気づかない人達が一定の割合で居るという事だ。人は常に月を見て暮らしているわけでもなければ、宇宙にある地球と月との正確な位置関係をイメージして生活しているわけでもない。だから地球と月とその間にある大気圏の関係を強く意識しなければ、日常生活を生きる人の目や意識では間違えやすいという事だ。

特に月の前に薄い雲がかかると、鈍く光る月の後ろにも雲がもやっと漂っているように見えるから、物理の事実にそぐわない描き方をウッカリしてしまうことも充分あり得る。

指摘のひとつである月の背景に雲は浮かんでいないという点は確証を得たとして二つ目の指摘、富士山頂の高さにある月は赤くならない。これはどのように調べて確証を得るべきか迷った。なぜなら一般的に朝方と夕方に月が赤く見えるときもあるからだ。調べる術もないし時間もこんなことに費やすのは勿体ないので、これはもう何十年も富士山を撮り続けてきたエキスパートの説を信じる他ない。Twitterで検索を掛けてみると、地上から3776mの高さにある富士山頂の高さで月が赤く見えることはないという話がチラホラ上がっていたので、その理由はまた機会があれば調べるとして、ひとまずそれを信じることにした。

さてでは件の写真は合成や加工と言えるのか、カメラの多重露光の処理により、フォトショップなどの画像編集ソフトを介さずカメラ内だけで完結して生み出された写真は合成や加工と言えるのかという問題がある。そこには当該写真コンテストの規約にある「写真の合成、または加工は不可とします」という一行がサルゲッソーのように深く絡み合うが、規約に違反しているか否かは筆者としてはどうでも良い。

芸術は道徳や倫理に束縛されない、というようなことを言ったのはオスカー・ワイルドだが、そのひそみに倣い、撮影者の道徳観や倫理面から論ずるよりも、写真の受け手の側から見て、この手の風景写真で多重露光による合成は有りか無しかという極めて単純な論点に絞って考えていきたい。

個人的な感想を述べるなら、風景写真と銘打っている以上は合成写真は見たくない。合成したならしたでその点を明記してくれないと騙された気分になる。なぜなら風景写真と聞けば、たいていの人は、合成ではない、人間の目に見えたままの景色が目の前に提示されると想定するからだ。

しかしながら人間の感情というのは曖昧なもので、時間が経てば変遷する。またこうして書き綴っている言葉にしても、書いた時点で既に過去となり、過去の足跡にしか過ぎない。今現在はどう思っているか本人にすら分からない程変容していくわけで、掴み所が無く非常に曖昧である。

ではその掴み所の無い人間の感情を掴みやすくなるような或る一定の普遍的な状況に置いてみたらどうだろう。

即ち身銭を切るならどうか。自分の金を出して写真を買うとしたら、よりその感情がわかりやすく浮き彫りになるように思う。自分で働いて得た大切なお金を払う、身を切るとなると、人は寄り正直な態度になる。

例えば山肌が赤く染まったパール富士の写真、このような写真は数年に1度しか撮るチャンスがない事に大きな価値があるとたいていの人は通奏低音観念で抱いているわけだが、満月が赤富士の頂上に来たまさにその時に撮影した写真が大判で10万円で売られているとして、かたや隣に並んでいる写真は月を多重露光で合成して仕上げた同じ写真、こちらも10万円で売られているとして、果たしてどちらにお金を支払うだろうか。もし写真にきちんと加工であることが説明されていれば、加工した写真の方を買う人はいないのではないか。

これがよっぽどCGアートのようにダイナミックな加工が施されていれば、それはまた人の想像力の高さを窺わせる幻想的な面で価値が出てそちらを選ぶ人もいるだろう。ラッセンのような写真を好む人もいる。しかしながらその景色の美しさだけでなく、或る一定の時節にしか起こらない時間の希少性にも価値がある分野の風景写真で、加工したのかそうでないのか良く分からない曖昧な写真に価値はあるだろうか。

また身銭を切らなくとも、株主に無償で届くキヤノンのカレンダーにしても毎月楽しませて貰っているが、もし地名が写真の隅に書き添えられたこの風光明媚な写真の一部に別の所から持ってきた合成が施されていたら「ふざけるな!」と怒ると思う。風光明媚な景色を売りにしているなら、やはり加工は欺かれたと感じる。身銭切る切らないは関係ない。まぁキヤノンの株に関しては今まで下がっていた株価がコロナ禍で更に下がったので或る意味身銭を切っている状態だが。

また多重露光で撮影したという事を隠していたとしてその写真を購入した後に分かれば、筆者なら納得がいかないと返品する。写真は真を写す、これにも人により様々な解釈や批判があるが、あながち間違ってはいない解釈なのではないか。皆が期待しているプロセスにそぐわないプロセス、期待している撮り方にそぐわない撮り方、即ち嘘が混じっていれば、皆嘘は嫌いだからそっぽを向くわけで、これは写真という枠組みを超えた人の偽りのない感情であり、その人としての当たり前の感情を「写真は真実を写すわけではない」とありがちな批判をしたからといってどうにか出来るものではなく、人の普遍的な感情を踏みにじるようなものだ。

写真は真を写すという考えは間違っているという説はもう飽きるほど聞いてきた気がするが、しかしアサヒカメラのような良い意味で意識の高い雑誌を読んでいる写真家(プロアマ問わず)ならともかく、スマホやコンパクトデジタルカメラで写真を撮っている、或いは一眼レフで写真を撮っている一般人が「写真は真を写す」などという言葉にこだわったりするだろうか。漢文の授業のように「写」と「真」の間にレ点を打って読みをひっくり返してその意味を深く考察したりすることがあるだろうか。たいていの人は写真という言葉と日常生活の中で出会ったときにそんな小難しいことは考えはしないだろう。ちゃんと写っている、写ってない、綺麗に写っている、良い写真が撮れた、くらいの事しか思わないのではないか。もしそのように漢字がひっくり返ることを意識することがあるなら、ゲシュタルト崩壊を起こして写真という言葉の意味が何だったか分からなくなったときに、じっとその二つの漢字を見て意味を一つずつ探ったときに生じる偶然の気づきからだろう。

写真に写っている景色だけではなく、或る日時にしか撮れない、数年に1度しか撮るチャンスのない撮るのが難しい、珍しい事象を捉えた写真に宿る時間の希少性も買っているわけだ。実態のない真がこれも実態のない人の心に宿っているからそう評価するわけで、しかして我々の感動とか哀しみなどというのも目に見えないものだから、そこに真がないというのは、人の心がないのではないか。

これは例えば皆既月食や、月が赤く撮れる写真、流星群の写真なども同様に或る一定の時節の条件下でしか撮れない、砕けた言い方をすれば「その時にしか撮れない」希少性の高い写真であるから、加工で別のところで撮った物を貼り付けたと分かれば皆失望する、今回の多重露光のパール富士の写真はこれと同じ失望感を与えた。当然但し書きに多重露光なり加工なりの文言が添えてあれば皆それを納得してその加工写真を楽しむわけだが、皆がその時間帯に加工無しで撮ったという期待を知りながら、加工して提示したとすれば、それは皆を失望させてしまう。そのような昨今のデジタルカメラの進化により時代にそぐわなくなった写真コンテストの規約に対する問題提起のパフォーマンスなら一理あるが、記事に掲載された経緯を読む限りでは、そういうわけでもなさそうだ。

話が少し逸れるが、デジタルカメラ全盛時代の写真コンテストに時代にそぐわない規約と言えば、提出方式をプリントしか認めていない点くらいしか思いつかない。デジタルだろうがフィルムだろうが、風景写真やジャーナリズムの分野の写真では、やはり加工したものは見たいとは思わない。特に後者はその点、加工だけでなくRAW現像においても過度のレタッチは強く規制もしくは禁止されている報道機関もあるという話を聞く。

これは風景写真なら皆がそのような通奏観念を抱いているからそう感じるわけだが、加工が当たり前となっていると皆が感じている分野の写真なら、そのような但し書きがなくとも一向に構わないわけだ。しかしながらこれも曖昧で、風景写真を前面に押し出した人物写真で明らかに加工と分かる写真なら皆がそれに納得して楽しむわけだが、本物と思っていた風景が加工だと分かるとやはり欺かれたと人は感じる。経歴や技能を盛るようなものだ。

この時間の希少性は月と富士山とのコラボ写真だけでなく、その季節にしか咲かない命短い桜や彼岸花にしても同じ事が言える。時間の希少性の大小に関してはそれが撮れる時間帯の長短によってまた比例してくるだろう。桜の花や雪景色が人々に感動を与えるのはその美しさもさることながら、或る一定の季節にしか見られないという儚さや希少性もその写真から読み取るからではないか。その花の命の儚さに昔の歌人は己が人生や恋の儚さを重ね合わせて歌を詠んだわけである。

偶然撮れた一枚も人々が度肝を抜くのはそれがCG加工ではなく、長い人生の中で滅多に出逢えない奇跡の一瞬を捉えたからだ。その写真に自身の人生の一端を託すのである。もしそれが加工とバレれば欺かれたと感じるのは当然である。奇跡が捏造だったなら、誰だって怒りを覚えるだろう。結局そのように捏造がバレた写真というのは、それが社会に影響を与えた歴史的価値はともかくも、1枚の写真として鑑賞すると、幾分かの価値は減じてしまうように思われる。

またネイチャー写真にも同じ事が言える。そこでしか見られない、コンビニになんでも揃っている気楽な文明社会で暮らしていればなかなか滅多に見ることの出来ない大自然に生息する野生動物の生き様を、人が滅多に寄りつかない場所に分け入って捉えているから高く評価されるわけで、動物園に行けばいつでも見れる・撮れるような写真ならただ「可愛い」「癒やされる」というだけの話だ。もし大自然を捉えた写真に別の場所から持ってきた動物の写真を合成してそれが溶け込んでいてまるで本物のように見えたとしても、それが偽物であれば、当然非難を浴びる。それを合成と分かっていてアートとして仕上げて提示するなら何ら問題は無く一個の作品として自立しているが、もし合成であることを隠して本物と匂わせてコンテストに出したなら、それは単純な話で、たたの不正だ。

では花火や蛍、星景写真はどうだろう。花火は長秒露光、即ち幾つかの花火が打ち上がってから花開いて消えるまでシャッター幕を開けっぱなしにして撮る。10秒の時もあれば1分以上開けっぱなしにしている時もあり、それは次々と打ち上がる花火と向き合った際の個人の裁量による。シャッター幕が開いている間、花火の光跡を写真に刻み込む。出来上がった写真は実際人の目で見たのとは違う。

花火によっては短いシャッタースピードで一発撮りで撮れる。

蛍の写真はどうか。こちらは構図を決めたらカメラを固定して10秒、15秒、30秒とシャッタースピードを決めて何十枚も撮影していき、その何十枚を家に帰ってからパソコンで1枚の写真に合成する。これは合成写真だ。前述した風景写真の定義と異なる。

蛍の写真。長秒櫓国で撮影した数十枚の写真を合成。

星景写真は景色を入れつつ星空を撮るが、こちらも長秒露光で星の光跡を描くこともある。夜空に渦巻きや雨のような形の光跡が描かれる。

ではスポーツ写真や野鳥写真はどうか。駆け抜ける馬の姿、ラグビーでぶつかり合う一瞬、野球でバットをスイングする瞬間、鳥が羽ばたく一瞬、どれも人の目では捉えることが出来ないシーンが写真として目の前に提示される。

疾走する馬の一瞬をカメラは捉える。
鳥の羽ばたく一瞬を捉える。

「合成ではない」「人間の目で見たままの写真」というのは人の願望をそのままストレートに言葉に表したものだ。人の願望というのは実に曖昧であやふや、理詰めで正確に表現できるものではない。その言葉の裏には許容範囲も生まれる。同じフレーム内で写っているなら、「人間の目で見たままの写真」、「合成ではない」という言葉もまた曖昧で、拡大解釈が可能になるという事だ。人の言葉の定義には融通性があるという事だが、それは人の願望や意識をフレーズ一つでは総て含有できないもどかしさにある。この部分をくみ取れない人間の行為を、揚げ足を取るという。

しかしこの拡大解釈にも限度というものがある。花火にしても蛍にしてもその他星景写真などの光跡にしても、フレーム内にあるものを或る一定の凝縮された時間帯に写し取っている。

では件の写真はどうだろうか。朝焼けのこの時間帯に月はこの位置になかったという事は記事にも書かれている。朝焼けの後もしくは前に月が富士山頂の上に来るまでカメラを動かさずに待ってから撮影して多重露光したのか、それとも別の角度に写っている月を撮っておいて多重露光したのか。

撮影者本人が申告したと記事にある日付・2019年11月15日の月齢カレンダーを調べてみると、満月ではない。満月は11月12日で、16日は月齢19.0となっており、1/3弱欠けている。ということは今回の件の写真の場合は、別の日に撮影した月を重ね合わせているということだろうか。富士山の写真とカメラ内で多重露光したのは確かだろうが、そこにないものを別の箇所から持ってきて貼り付ける行為はやはり合成と感じてしまう。

これは推測だが、カメラ内多重露光の機能で二つの写真を重ね合わせると、どうしても雲が月の後ろに浮かび、月の色も朝焼けの色になってしまったのではないか。余り多重露光をやらないので不明だが、或るコスプレ写真を仕上げる際にPhotoshopで月と夜景を合成しようとして様々なレイヤー描写を試して四苦八苦した覚えがある。夜景の後ろに月を被せようとしたのだが、どうしても夜景の前に月が出てきて二重になってしまう。仕方なしに闇夜を背景にして同じ作業をしたら簡単に綺麗に合成できたが、その時はいかにこの非現実的な巨大な月を夜景に溶け込ませて合成でありながらいかに自然に見せるかという事に苦心しながら調整レタッチをした。つまり自然に見えない合成は、それは合成として成功していないという意識が働いていたから細心の注意を払った。

或いは写真タイトルにあるように山肌も月も赤い絵作りの作品にする意図があったのかも知れないが、何十年と富士山と真摯に向かい合って撮ってきたであろうベテラン写真家達からは冒頭で述べたようなふたつの指摘を根拠に「稚拙」と批判されている。月の後ろに雲があったり月が朝焼けに染まってることに気づけるほどに富士山を撮ることに長年情熱を注いできた熟達した高潔な人達なのだろう。それはコスプレ写真を長年撮っていてどの位置にソフトボックスを置けばキャッチライトが瞳に入るかとか、どのようなライティングを組めば可愛く女の子を撮れるかが分かるというのと相通じる所がある。そして何十年と富士山を撮る事に向き合ってきた写真家達が、四季折々の霊峰富士の姿をよく知った上で「稚拙」と批判したという事は、たとえこの写真がCGアートの分野であったとしても、同じような批判は免れ得ないのではないか。

単純に合成が下手という事例もある。有り得ないほど大きな桜の花びらで加工された桜吹雪、不自然に貼り付けられた光芒や雪。こんな不自然な写真に仕上げるくらいなら加工なんてやらない方がマシか別に絵に描けば良いじゃないかとなる。鑑賞者の許容範囲を超えるわけだ。広告写真なら別段問題ないだろうが(それでも過度の演出は当地に立って実際の景色を見たときにポスターと齟齬が生じれば騙された気分にはなるだろうが)、風景写真と銘打つなら、少なくとも註を設けて合成であることを示すべきではないか。新聞社の蛍の写真には必ずと言っていいほど「10秒露光で○○枚合成」と書き添えられている。事実を報道しなければならない以上、添えられた風景写真のようには実際には見えないことを読者に示唆しておく必要があるという、社会の公器を自負する誠意からだろう。

ではコスプレ写真の世界ではどうだろう。コスプレ写真は合成と親和性が高い。コスプレの世界がアニメや漫画、ゲームの世界を体現しているからで、イラストと近い写真の再現を頼まれることもある。そしてアニメやゲームのイラストは幻想的で非現実的、ファンタジックな場合が多い。

しかしながら一つ前の記事でも述べたとおり、コスプレ写真でもPhotoshopによる合成を一切よしとせず、その場にある小道具や肉体を駆使して、長秒露光や多重露光で総てを撮ってしまうスキルに長けた撮影者達が存在する。コスプレ写真の世界でも合成を忌み嫌う撮影者がいるのだから、コスプレ写真の世界より現実的な風景写真での合成の良し悪しの論争など、その撮影者達の目からすれば答えは端から見えているようなものだろう。

合成のように見える合成ではない写真を撮れば人は感嘆を漏らし称賛を送るが、合成写真を合成でないように偽れば失望と疑念と嫌悪を抱かせる。

風景写真に合成を認めるかどうかという問題は、線引きの曖昧性にも由来するだろう。つまるところ風景写真と人が耳にすれば、それは合成ではない、人の目で見たとおりのそのままの景色だ。ここでいう合成とは、違う場所に存在する物を貼り付けたり、或いは最新のCG加工のことを連想するのであって、花火や蛍などの長秒露光による合成は想定外という意識ではないだろうか。そしてカメラがデジタルとなり様々な合成が出来るようになったのだから風景写真のコンテストの規約にも広い意味での合成を認めるべきだという意見もまたナンセンスのように思われる。もし合成を認めればそれは鑑賞者が想定している風景写真ではなくなる。それどころか安易な合成だらけの写真が溢れかえる。それはもはや風景写真ではなくCGアートだ。それなら合成を認めているその手のコンテストに応募するなりすればいいだけの話だ。そこにケチを付けるのは、30才未満や高校生限定のフォトコンテストの規約にケチを付けるのと同じで実に自己中心的で傲慢と言える。フォトコンテストに規約があるのなら主催が決めたルールに従う、それだけの話だ。分野や文脈が異なるのだから棲み分ければ良いだけの話だ。おそらくフレーム内にあり続けるような長秒露光や蛍などの合成なら規約内で認められているところが多いのではないか。別の所から持ってきて貼り付けた類の合成は認められることはないだろう。暗黙の了解以前の問題だ。加工で誤魔化すと価値がなくなる類の写真もある。

このパール富士、3年後に同じ構図で撮れるというが、当然月の後ろに雲は浮かばないし、ベテランの説に従えば月が赤く染まることもない。朝焼けのパール富士はその時にしか発生しない、その時にしか撮れない貴重なビッグイベントでもあるから、やはりその写真に合成はそぐわないのではないか。

風景写真に合成を許容しても良いという意見に靡く風潮は、昨今SNSで持て囃されている行き過ぎたフォトジェニックの弊害なのだろうか。派手で見栄えさえ良ければ良い、Twitterのファボさえたくさんつけば良い、人の思いのない写真、慰霊の意味合いもあるルミナリエの試験点灯日に公園で水をぶちまけてまでリフレクション写真を撮影した騒動が記憶に新しい。ルミナリエの集団が写っているフォトジェニックな写真に慰霊という意味合いを押しつけるのもまた写真の嘘のように感じられて、ここにも見栄えを優先するフォトジェニックが必然的に抱える嘘を感じる。そしてその嘘はツーリズムと密接に結びついて問題をややこしくしている。それとは趣を異にするが、朝焼けのパール富士のような時間の希少性も尊重される写真を合成で表現してしまう行為に、どこかもの悲しさを覚える。合成と知りガッカリする。写真とは違うところの人間の行為の何か得体の知れないものが垣間見える。こういった感想しか出てこない。

コンテストの規約の該当性については、コンテストの主催者に権限がある。コンテストを開くにあたり賞金や賞品を出しているのだし、観光促進ほかそれぞれのコンテストにより主催者の様々な趣旨がある。そしてまた今回の件が規約違反なのか否か、また一連の撮影の経緯に関する撮影者の倫理観については、写真コンテストにおける規約そのものの該当性とは別の話となる。規約違反や倫理観についてはアサヒカメラ2020年3月号の方で寄稿者達が辛辣な意見を述べているので、そちらを参考にして頂きたい。

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