構図とレトリック

あらゆる事柄においてスピードが求められる生活に慣れたせいか、構図を考えながら撮るのは煩わしくもある。
あらゆる事柄においてスピードが求められる生活に慣れたせいか、構図を考えながら撮るのは煩わしくもある。

集合写真をたくさん撮るようになってきたこともあって、最近自分の写真に空想の中で線を引くことがある。構図を確認するためだ。

よく2分割構図とか3分割構図とか三角構図とか放射線構図とかS字構図とか黄金比率とか言われているが、果たして実際に写真を撮る時にこれらの構図を当てはめているかというと、そこは中々に難しいところで、後から写真を見たら、コレ綺麗に3分割になってるとか、S字になってるとか、三角構図だとかトンネル構図だとかということの方が多い。つまり後付けだ。

しかし写真の基礎を身につけるのは大切な事で、作品愛だとか被写体に対する愛情だとか精神論ばかり強調していては良い写真は撮れない。技術に裏打ちされない悪しき精神論の悲惨な結末は、先の大戦を引くまでもないだろう。スキルに裏打ちされていなければ、どのような綺麗事も酷い結末に終わる。

構図のシッカリとした写真というのは、人がその写真を目にした時に心地よい感覚を抱かせてくれるものだ。構図の基礎のなっていないバランスの悪い写真は、不安定感を見る者に与え、不快な気持ちにすらさせる。

カメラマンはシャッターを押しているだけという発言もあるが、被写体であるモデルに対するカメラマンの謙遜から来る発言なので真に受けてはいけない。いい加減な考えや構図や設定で撮れるものではない。作品愛だとか被写体に対する愛と表明する行為はレトリックな事柄でしかない。レトリックも写真に必要だが、スキルが伴わなければ、ただの口先だけのたわ言になってしまう。それに被写体愛などという言葉はわざわざ口に出していうことでもないだろう。綺麗事を付け加えて盛ったところで目の前に写っている写真がすべてだ。また反対に気に入らない相手の写真に対して「被写体愛がない」などとイチャモンをつけ出す愚かなひねくれ者も出てくることだろう。

リビングの壁にキャノンのカレンダーが掛かっているが、見事な構図だ。陸と海が水平線の二分割構図で見事に分かたれている。こちらへと向かってくる小道の両端の線が写真下の角に綺麗に吸い込まれている。完璧な構図だ。カメラの設定もおそらく完璧だろう。何処にも書かれていないがこれだけの完璧な構図でプロが撮ったのだから、カメラの設定が完璧なのも想像に難くない。写真がすべてを物語っている。こういう写真を見ると、撮る時にキチンと構図を考えないといけないなという思いを新たにする。

キャンドルナイトの写真。珍しくS字構図を意識して撮影した。
キャンドルナイトの写真。珍しくS字構図を意識して撮影した。

しかし生身の相手がいない風景写真と異なり、実際現場で人物を撮るとなると、なかなかに完璧な構図を組み立てる暇がない。個撮はお喋りと撮ることに熱中するし、大型撮影は限られたスタジオの時間内で誰も彼もバタバタしていて落ち着かない。昔のように24枚しか撮れないフィルムカメラの時代なら、腰を据えて構図を考え、ポーズもシッカリと取って貰って撮影していたことだろう。

今はデジタルの時代、スピードが求められる時代だ。デジタルだからフィルム時代と異なり、フィルム代も気にしないで良いので枚数撮り放題。ついつい構図もおろそかになってしまう。構図の完璧さを求めるよりも、一瞬一瞬のモデルの輝きを即座に、数多く捉えることに重点が置かれる。撮影のテンポを楽しむという側面もある。一長一短である。

しかし今更フィルム時代の感覚に戻ることも不可能だろうし(少ない枚数とスローな撮影はまずどのモデルも許してはくれないだろう)、デジタルに慣れた現代人にそのような意識が芽生えることも希だろう。モデルとカメラマン互いがスピードと効率性を求めているのだ。

インターネットの登場で、それ以前よりも摂取する情報量が100倍~1000倍以上に増えた感覚がある。意識の変容の中で、スピードと効率性だけが求められるのは何も写真だけではなく、我々の実生活ももはやそのような感覚が当たり前となっているのだ。その当たり前の生活の中に当たり前でない感覚を芽生えさせるのは、容易なことではない。