残像 – アンジェイ・ワイダ監督の遺作。権力により表現の自由を奪われた画家が押し潰されていく過程を描く

残像 アンジェイ・ワイダ監督

夕食時にテレビを見ていたら池上彰の番組をやっていた。テレビなんて物を食べている時くらいしかつけていないが、池上彰の番組はいつも引き込まれるようにして観てしまう。テーマは女性と男性の家事分担の比率についてだった。

日本における夫と妻の家事分担の割合や、各国の男性の1日辺りの家事時間のグラフなどの他、日本と外国を比べたときの夫婦の家事分担の割合が表示されていた。ちなみにその番組でいう家事分担とは、育児を除いた料理・掃除・洗濯だった。結果としてはトルクメニスタンやベラルーシ、バルト三国の旧社会主義国が男女の家事分担が平等だというような内容だった。旧社会主義国は女性の社会進出がめざましかったというのがその原因としてあげられていた。そういえば昔観た『ひまわり』という旧ソ連の映画では、男女が同じねずみ色の作業服を着て工場に出社するシーンが描かれていて、意外だと思ったことがある。

日本の場合は昭和の時代は男が外で働いて女は家を守るというイメージがあった。戦前もそうではなかっただろうか。明治になって家父長制度が出来てから一番偉いのは一家のお父さん、その次は跡取りの長男で、女房は旦那の三歩後ろをしずしず歩くというイメージもどこかで聞いた覚えがある。

では明治以前はどうだったのだろうか。江戸期は人口の8割以上が農民である。忠孝の思想が尊ばれていたのは武家だけの話で、農村では男であろうが女であろうが子供であろうが、食べるために皆力を合わせて働かなければならなかったので、性差年齢に関しては武家とは異なり大体は平等な共同体だった、明治になってから武家の専売特許であった忠孝の思想が、国を束ねて近代化を達成するため国民一般にまで広げられたという説を昔岩波現代文庫で読んだ記憶があるが、もう20年近くも前のことなので、もう一度読み直してみる必要がありそうだ。

また別の番組では、家事に関する世代間のギャップが取り沙汰されていた。番組内で男は家事をするもんじゃないというような発言をした、昭和気質の4,50代の、球界に多大な業績を残した偉大な父を持つ元プロ野球選手のタレントが批判を浴びたと話題になった。しかしその世代の育った環境から言えば、女は家事をするものという考えは、空気が存在しているのと同じくらい当然の事だ。その頃は女は結婚したら仕事を辞めて家庭を守るのが常識だったのだから。過去の常識を、現代の常識で攻撃するのは、自分の体験したことがない世界を、自分の狭隘な尺度で批判するに等しい。逆もまた然りである。

戦後の日本は吉田茂が日米安保条約による軽武装の実現で軍事費の大幅削減を現実化し、岸信介が経済大国日本の枠組みを形作り、池田勇人が所得倍増計画で岸の築いた土台を継いで高度経済成長を実現化させた。そのような日本株式会社、社会主義的資本主義国の中で、戦前の男は外で働いて女は家を守るというスタイルは受け継がれ、戦後復興を果たした日本はアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国に躍り出た。

その後一時の狂乱であるバブル経済とその崩壊を経て、21世紀に入ってから自由主義経済が世界を席巻し、岸が理想とした経済福祉社会が太刀打ちできなくなり、一億総中流と呼ばれた古き良き日本社会の崩壊と再構築が起こっている真っ只中なのが現代なのではないだろうか。勤め人の収入が右肩下がりの中で一家を支えるために共働きが当たり前になり、男女の家事分担のあり方・考え方も変わってきている。そこに上述したような古い世代と新しい世代のジェネレーションギャップがある。古い世代は逃げ切れるが、新しい世代は真っ向から向き合わなければならないのだから、考え方も変わらないし、日常に関するささいな思想ですら対立が生じる。

話がずいぶん逸れた。番組では旧社会主義国は女性進出がめざましかったという点が何度も強調されていた。しかし一方で引っかかることもあった。社会主義国というのは経済だけではなく思想も統制するという点が置き去りにされていたことだ。また粛正という名の下に自国民の大殺戮が起こったのも社会主義体制下だった。スターリン時代の旧ソ連、毛沢東の文化大革命、クメール・ルージュの領袖ポル・ポトのカンボジア。数百万人から数千万人の自国民が同じ国民の手により虐殺された。どうも昨今取り沙汰されている女性の社会進出や家事の分担にかこつけて殊更社会主義を美化しているような気がしたのだが、その後には中国の情報統制の話も出ていたから番組内容は大体釣り合いは取れているのだろう。

番組内で社会主義国家がそのように持ち上げられているのを見て、ふと一年ほど前に観た映画のことを思い出した。

アンジェイ・ワイダ監督の遺作となった『残像』では、かつてポーランドに実在した前衛画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキの晩年が描かれている。

第一線で活躍する芸術家でもある大学教授に対する、ポーランド共産主義政権による統制と抑圧、従わない者に対する徹底した干渉がテーマで、カンディンスキーやシャガールとも交流があり、学生への教育にも熱心な前衛画家の大家である大学教授が、当局から体制擁護のための社会主義的なリアリズム溢れる絵画を描くよう迫られる。しかし画家は芸術家としての信念と矜持から当局の要請を拒否。すると美術館に飾られていた教授の絵はすべて撤去させられる。長年の付き合いのある美術館長も教授に同情はするものの権力に逆らえば自らの立場が危うくなるので手助けできない。

教え子の学生達が集っていた大学の一室にも当局のメスが入り、絵画が破られ部屋が破壊されてしまう。転向を拒否したため、ついには大学教授の職を首になり職業安定所で職探しを始めるのだが、江戸期の日本でいう奉公構えのようなブラックリストが出回っており、職に就くことを拒絶され、個人のツテを頼って職についても身元がバレてすぐに解雇されてしまい、年金も出ないという生活に陥る。

せめて絵を描くために絵の具を買おうと画材屋に入るが、ここでも許可証がないと絵の具を売ることが出来ないと拒否されてしまう。やがて画家は食べる物にも事欠き、貧困の中で幼い娘を残して絶命してしまう。自分の芸術の信念に殉じた形だが、思想統制というものが、反体制的な人間に対してありとあらゆる狡猾な手を尽くして表現の自由を奪い、いかにして個人の自由と生命を押し潰してしまうのかという経緯が丹念に描かれている。芸術家自身は当局から身体的な暴力を振るわれることはないが、制度という見えない暴力により共産党政権下のポーランド社会で生きる権利を剥奪され、真綿で首を締め上げられるように困窮していき、最後には非業の死を遂げる。あたかもカフカの不条理小説を地で行くような暗澹としたストーリー展開だ。

どうも表現の自由が保障された国で暮らしていると、憲法で保障されたその自由の有り難みを忘れてしまいがちだ。お隣の中国の情報統制を見れば、その脅威が感じられる。日本では空気のような存在となっていて有り難みを忘れがちな表現の自由というものを今一度再認識する為に視聴してみるのも良いだろう。

後記:2019年10月9日

芸術祭あいちトリエンナーレで開催された『表現の不自由展』が、脅迫により一時中止に追い込まれたニュースが話題になり、その後もその展示内容が反日的であることが明るみに出てTwitterを賑わせている。

右寄りの考えと左寄りの考えが火花を散らしているようにも見受けられるが、この映画の中で起こった出来事の深刻さと悲惨な結末を思い返すと、この程度で不自由と騒いでいる芸術家また企画者の意見が児戯に等しいものであるように思われる一方で、この程度の不自由でもそれを表現の自由に対する権力や世論による干渉と認めないと、将来なし崩し的にあの暗黒の戦中時代に戻るのではないかという一抹の不安もないではない。高校生がサークルで詩を書いただけで特高に呼びされて取り調べを受けたというあの息苦しい時代に。

表現の自由という、人権や言論の自由といったものと同じ人間が頭の中で作り出した極めて文明的で崇高ではあるが如何様にでも解釈可能で曖昧に堕しやすい概念をどこまで護らなければならないのか考えさせられもした。それらの権利の理想は粘土と同じで、人によって捏ね方も異なれば出来上がったその姿形も異なるのだから、意見の相違が当然出る。オランダではインドネシアを植民地としていた時代に玉座にあった女王ウィルヘルミナの肖像を題材にした批判的なアートがあるというし、何を基準にして判断すれば良いのか、落としどころの難しい論争である。今回の騒動の件について答えを出そうと思えばアート論や文明比較論、明治以来の日本史と諸外国との関わりやパワーバランスの歴史を総浚いする必要があるだろう。表現の自由を護るための作為的なアートという新しい領域なのかもしれない。それにしてもこのようにして議論が百出したこと自体が、有意義なことなのではないだろうか。普段は意識することがない空気のような存在の表現の自由について考えを巡らせるきっかけとなったのだから。