武田信玄の肖像画で有名なのは2枚ある。1枚は昔から教科書や漫画の史料ページなどでよく取り上げられている、でっぷりと肥え太った、怒り達磨のような風貌で座っている像で、これなどは武田信玄の旗印である「風林火山」という尖った言葉が似合いそうな荒々しい戦国大名のイメージと重なる。
もう一つの像は、それとは打って変わって正反対のイメージの、端整な顔立ちをした理知的な風貌をしている。三本の矢で有名な謀将・毛利元就の四十代の頃の像と言っても通用するような雰囲気が漂っている。
JR甲府駅にある像も前者の肥え太った信玄だ。信長の野望などのテレビゲームなどでもこの太った荒々しい気性の信玄のイメージで描かれているものが多い。
ところが最近よく言われているのが、前者の像は実は信玄ではなく、能登の戦国大名・畠山義継を描いた像であるという説だ。何でも肖像画に描かれている家紋が畠山氏のものらしい。それを聞いて何で今まで誰も指摘しなかったんだろうとあっけらかんとしてしまった。
さてなぜこの二つの肖像画の話を出したかというと、映画やドラマで描かれている信玄も、演じる役者によってイメージが異なるからだ。高視聴率を記録した中井貴一主演のNHK大河ドラマ『武田信玄』や、同じくNHK大河ドラマで滝田栄主演の『徳川家康』に出てくる信玄(佐藤慶)は、演じている役者本人の体格や風貌から、後者の痩せ細った知的なイメージと重なる。一方で津川雅彦主演の映画『天と地と』や、SFではあるが千葉真一主演の映画『戦国自衛隊』に出てくる信玄は、肥えていて前者の肖像画のイメージと重なる。映画やドラマでも信玄像は統一されていないようだ。
黒澤明監督の『影武者』を見ることになった。きっかけはYouTubeで若山富三郎と柳沢慎吾が東映の太秦で初遭遇した時の面白いエピソードを見たのがきっかけだった。なぜそのエピソードを見たかというと、よく撮影しているコスプレイヤーさんから京都の太秦映画村のコスプレイベントで撮影して欲しいという依頼を受けて快諾した事に絡んでふとその太秦のエピソードを思い出し、YouTubeで検索したのだった。
YouTubeは関連動画も下の方に表示してくれる。動画を一通り再生して話術巧みな柳沢慎吾のトークを楽しんだ後に、関連動画が出てきた。若山富三郎の弟が勝新太郎だったので、勝関連の動画が出てきたのだった。内容は勝新太郎と横山やすしの、昭和の荒々しさを大衆が受容していた時代を代表する二人の暴言集という、ワイドショーの古くさいタッチの動画だった。それも再生すると、今度は『影武者』という映画の予告編が出てきた。『影武者』という映画のタイトルは聞いたことがあったが、どんな話で誰がモデルになっているのかはよく知らない。恐らく架空の戦国大名の話だろうと踏んでいたが、気になったその予告編を再生してみると、武田信玄と勝頼が出てくるではないか。それに織田信長と徳川家康も。脇役として「信廉」という筆で描いた文字が出てきた時のインパクトたるや。武田信廉といえば戦国通の間では画家としても有名だが、信玄の影武者としても有名で、あまり戦場が似合うようなイメージの武将ではなくどちらかというと文人肌で、1582年の甲州崩れによる武田家滅亡の折のその最期は悲惨なものではあるのだが、その信廉がかなり重要な役回りを演じていることがその二文字から窺い知ることが出来た。
さて再生してみると勝新太郎が信玄、荻原健一が勝頼。信長と家康は知らない俳優だ。それにしても予告編がまた濃い色味にコッテリと味付けされた映像で平成最後の年から見ても今には見られないほどに斬新で荒々しい。まるで殴りつけられたような衝撃だった。鎧兜に身を包んだ俳優一同をスタジオに集めて床几に座りながらも記者会見風に仕上げている。役者達が少し演じてみせるのだが、特に時代劇風のセットもない現代的なスタジオでどう演じて良いのか戸惑っているようなぎこちなさが垣間見えるのも、喉元を渇望させてくれる。
しかしこの勝新太郎主演の『影武者』は実現しなかった。監督の黒澤明と勝が映画の方針を巡って喧嘩してしまい、勝が降板してしまったのだ。
その結果、勝の代役に仲代達矢が抜擢された。勝と仲代では風貌が全く違う。冒頭に上げた二つの信玄像と同じように。勝はでっぷりと肥え太っていて荒々しい風格がある。その場に存在しているだけで何かを演じている威圧感がある。一方の仲代はどちらかというとほっそりとしていて知的なイメージがある。勝が覇者なら、仲代は王者のイメージだ。この交代劇が、通説の信玄像の覆しと見事に重なった。
さっそく動画配信サイトで購入して視聴したが、冒頭から度肝を抜かれる。三人の信玄。信玄と信廉、それに影武者。同じ色の着物を着て、横長の空間に三者とも距離を置いて座っている。これだけでいつも観ている映画の雰囲気との差異を感じた。信玄が肘掛けにもたれてゆったりと髭をなでると、瓜二つの信廉も同じように髭をなでる。この異様な空間は何と形容すべきだろう。
信玄の西上(上洛)作戦、野田城攻めの最中、どこかの城で休息している武田軍の兵士達。旗も赤・緑・青と彩色際立ちカラフルだ。それら夥しい数の寝転がっている兵士達は説明がないので死んでいるようも見える。人間の波のような兵士達の合間を弾丸のように突き進んでいく泥濘から抜き出てきたような茶色の塊の兵士。あまりの違和感にまたも目を見張ってしまう。城の中に辿り着いた後の口上から、野田城の水の手を見つけた兵士であると分かる。衣装にもこだわりがある。重臣達のそれぞれ異なる色の着物。小姓達は『乱』でも見られたように華やかで派手だ。更に物語がクライマックスに進むと、重臣達が皆同じ黄金色の着物を着ていたりする。その後武田家が長篠の戦いでどのような末路を迎えるか想像すると、歴史を知るものの目からは栄華を誇っていた最後の長閑なひとときのようにも写る。
構図にも目を見張る。左右に遠く離れた二人の武将、広々とした部屋の真ん中に座る信玄、遠方から、やや下からの角度で望遠レンズで捉えたような人物達と広い空。これもまた望遠レンズで捉えたかのような、死を決意した馬に跨がる三人の老臣達と高い空のシーンに地面はギリギリ映っていない。高天神城攻めの戦闘シーンは、まるで舞台のような手作り感のするシンプルなイメージでありながら、その斬新さが逆にリアリティを膨らませていく。真っ赤な空に銃弾を放つ兵士達、その下を駆け抜けていく兵士達、これも舞台のようなイメージなのだが、よく見られる戦闘シーンよりもよりリアルに見える。最後の長篠の戦いの勝頼達の陣営シーンは、まるでレンブラントの『夜警』のような1枚の群像絵画のよう。もしくは藤田嗣治の戦争画のようなダイナミズム。そう、まさに動く盛大な絵画のようなワンシーン!焦る勝頼、驚愕する侍大将達と、その背後を波打つように動揺する黒い護衛の兵士達。もしイッソスの戦いのような歴史を描いた絵画が動き出すとすれば、まさにこの映画のこのシーンのようであるだろうと思わせる。
エキストラや馬の数も凄い。エキストラが少なすぎてスカスカの戦闘シーンのNHK大河ドラマでは有り得ないほどの数だ。『天と地と』よりは少ないが、リアリティのある大軍勢が成り立っている。この迫力はTVではなくスクリーンで観てみたい。長篠のシーンでは夥しい数の騎馬武者が疾駆する。一方で織田徳川連合軍の柵から火縄銃が発射される。しかし鉄砲の弾が馬に当たるシーンはない。代わりにあれほど自信と怒気に満ちていた勝頼たち陣営が狼狽えるシーンが挟まれることで、織田徳川軍に突撃していった騎馬武者達の運命を痛感することが出来る。そしてなぎ倒された兵士と馬のシーンが延々と続く。その中を駆け抜けていく影武者。鑓を持ち、突撃していく。一方先ほどまで兵士達で埋め尽くされていた勝頼の陣には主のいない床几だけが残されている。会話は一切聞こえてこなくても、そこにいる人物達の心境がありありと伝わってくる。
この映画は3時間もあるのだが、あまりにも使い方が贅沢だ。シーンに余裕が見られる。例えば老臣達が馬で通る予定の路を奴二人が箒で掃くシーン、こんなのは観客へのシーンの説明のように2,3秒挟めば良いものだし事実時代劇でも似たよう短いシーンが挟まれているのを観た記憶があるが、二人の派手な配色の横縞模様の着物を着た奴さんが何度も往復してしつこいくらいに掃き清める。他のシーンも、まるで映画の常識を打ち破るように無駄に長い。しかし一見無駄とも思われるその長さが、架空の物語なのに、リアリティを持たせてくれる。この無駄な長さは我々の現実の生活の中で流れている時間の質感と瓜二つだ。映画はストーリーを重視するため、わかりやすくテンポ良く話を進めていくため、美味しい所だけを掻い摘まんで、無駄な部分は省く。しかしこの映画は、本編に何ら関係ない無駄な部分として編集で容赦なくカットされるであろう、まして撮影現場でもそこまでは撮らないであろうと思われる無駄な部分を敢えて取り込んでいる贅沢な使い方をしている。普段意識していない時間枠まで長々とカメラを回すことで現実の時間を意識させる。これは架空の薄っぺらい物語ではなく、生きた人間の物語なのだと実感させてくれる。
構図、衣装、配色、カメラワーク、細部にまでこだわりが見られる。そのこだわりに無駄がない。躑躅が崎館の門から馬が飛び込んでくるシーンも派手派手しい。馬が脚を上げて勢いよく門から入ってくる。しかしここは逆に短いカットを多用することでスピード感がある。門から出て行くシーンもまた馬が脚を上げて派手に仕上がっている。音楽といい、まるで西部劇のよう。諏訪湖のほとりでのシーンでは織田徳川の間者たちと、影武者が一つのシーンに収まっている遊びも面白い。また物語自体も史実を丁寧になぞっている。影武者というあまりにもフィクション過ぎる内容の映画なのに、史実の方は比較的きちんと整っている為にリアリティが増す。野田城から聞こえてくる笛の音に誘われて狙撃される信玄、諏訪湖に沈められる遺骸、滅ぼされた諏訪の出自故に陣代という立場に甘んじながら風林火山の旗の使用の禁止などで煩悶する勝頼、それらのことに最もらしい理由がつけられる。
荻原健一の勝頼がまた勝頼らしくていい。烏帽子のような長い兜に色彩濃い鎧はまさに新しい世代の威力を体現している。史実では強すぎる大将といわれた勝頼を抑揚の取れた迫真の怒気で見事に演じている。
主演の仲代達矢はどうだろう。ふとこのシーンを勝新太郎が演じていたらどのようであっただろうかと惜しむ時がある。高天神城で山のように動かない影武者シーン。あれをがたいのデカい勝が演じていたら。どうもイメージが付かない。勝は人間臭い所があるが、仲代は知的な計算高いイメージがある。だから盗っ人を演じている時も、どこか嘘臭さがある。例えるなら、貧民街の
住人達のスラングを調査してそれを取り込んで彼らの物語を書く小説家ヴィクトル・ユゴーが仲代なら、実際に貧民街の住人が自分たちのスラングを使って書く小説家ジャン・ジュネが勝、といったような違いだ。村上春樹と中上健次との比較例でも良い。そちらの方が母国語の作家だから分かりやすい。どんな役を演じても勝は泥臭いが、仲代はどれだけ泥臭く演じてもどこか清潔感が漂っている。どちらの小説家が書く小説を好むかは、読者の趣向次第だ。かつて勝は豊臣秀吉を演じた。卑賤の身から貴人となった秀吉だが、勝の秀吉はあまりにも泥臭い。