武田氏滅亡 – 御家を潰した武田勝頼を膨大な一次資料から痛快に弁護

武田氏滅亡 (角川選書)

過去の英雄から商家に至るまで、どの時代においても二代目は愚鈍というイメージが蔓延っている。鎌倉幕府の第二代将軍源頼家、後北条家の北条氏政、そして甲斐武田家武田勝頼。氏政も勝頼も正確に言えば二代目ではないが、家を大きく興した先代という位置づけでは二代目と呼ぶことが出来るだろう。

こと勝頼に至っては、先代の信玄が上杉謙信と並んで最強の戦国大名と古くから謳われており、その信玄が築き上げた武田家を長篠の大敗を経て七年後には潰してしまったことからも、歴史に刻んだ業績のコントラストが激しく、暗愚の将と見なされがちだ。

勝頼は強すぎる大将と言われた。実際に闇雲に戦ばかりしているイメージがある。父信玄に付き従い三方ヶ原の戦いなど数々の武功を上げたが、信玄没後は3年間喪に服すいとまもなく、長篠城を攻め、後詰めに来た織田・徳川連合軍に設楽が原でコテンパンにやられて、ボロボロの姿で甲斐へ逃げ帰った。海津城主の高坂弾正昌信が信濃辺りで出迎え、武具などの身なりを整えさせて、甲斐に帰還させたという。

長篠の戦いにおいて、勝頼は山県昌景・馬場信春などの重臣が諫めるのを聞かず、自軍の2倍から3倍の兵力差がある織田徳川連合軍との戦いに臨んだ。徳川家臣酒井忠次が鳶ヶ巣山砦に奇襲を仕掛け、背後を取られる形になった武田軍は前進するしか他に戦局を打開する路は無かったとも言われている。戦いの開始直後に、徳川の陣を攻め立てていた山県昌景は銃弾を浴びて戦死、馬場信春は殿を務め、勝頼が戦場を無事離脱したのを見届けると討ち死にした。他にも内藤昌豊や真田兄弟、原昌胤など信玄以来の重臣達が数多く戦死し、武田軍の戦力は大幅に低下してしまった。その為、戦死した家来の家族で庶民や坊主になっていた次男三男を武士に戻して、なんとか陣容を整えたという。そのあまりの速さに勝頼と敵対する勢力は驚いたと言われる。とはいうものの、内情は経験不足であっただろうから、実質的な戦力の減少は免れなかったようだ。

長篠の戦いは負の側面だけで無く、勝頼にとってはメリットもあったようだ。元来勝頼は諏訪家を継ぐはずだったが、義信事件により信玄嫡男の武田義信が自害に追いやられると、四男でありながら一気に武田家の後継者としての地位を頂くことになった。それを快く思っていなかった親族衆や重臣もいたらしく、『アレは諏訪の人間』のような見方もされていたという。長篠の戦いで信玄古参の重臣達が戦死したことで、目の上のタンコブが取れた形になった勝頼は自分の思い通りになる家臣団を新たに組むことが出来、家中のパワーバランスを変える事が出来たものと思われる。

家を滅ぼした愚将と捉えられることが多い勝頼だが、実際には信玄時代よりも版図を広げている。父信玄でさえ落とせなかった難攻不落の高天神城を落とし、長篠の敗北以降も上野方面に真田昌幸をして版図を広げしめた。

しかし領土は父信玄時代よりも広まったとは言っても、盤石では無かったようだ。真田昌幸は父幸隆譲りの調略を以て、あたかも村上義清を北信濃から追い出した再現であるかのように上野にある北条家の諸将達を武田方に引き入れたが、それら武将達の知行地不足の問題に悩まされた。結果切り取り次第・出世払いというような形になり、不安定な基盤であったようだ。

高天神城も獲ったはいいが、その後徳川家康に取り返されている。高天神城の落城は武田勝頼の運命を決定づけた。敵方に包囲されながら、後詰めをすることが出来ず、結果見殺しにする形となり、『天下の面目を失った』と織田信長をして言わしめた。これこそが信長の策略で、当時水面下で進んでいた武田・織田との同盟締結を匂わせておきながら、結局は応じず、城兵を皆殺しにするよう家康に命じている。

高天神城に関しては、後詰めに来れば北条が攻め御家が危機に陥るから、後詰め無用と高天神城の厳しい包囲網をかいくぐって甲斐に辿り着いた横田尹松は具申している。どちらにしても後詰めに向かわなかった高天神城の落城で勝頼の威信は地に落ちた。ちなみに横田尹松は主家滅亡後に徳川家の家臣になり、大坂の陣では軍監も務めている。その子孫は旗本となった。

外交政策の失敗も武田家滅亡の要因に上げられる。信玄没後は北条家と同盟を再度締結していたが、上杉家のお家騒動『御館の乱』において、上杉景勝と上杉景虎を和睦させ、ひいては上杉・北条・武田との三国同盟を模索して軍勢を押し出したはいいものの、結局は空回りになり、進軍を停止したことで劣勢に立たされた景虎を見殺しにして景勝方に加担したことになり、北条氏政を怒らせ、相模と駿河の国境近くに砦を築き同盟破棄となった。景勝が差し出した2万両という金に目がくらんだとも批判されている有名なくだりだが、この当たりの経緯も本書では詳しく述べられている。

また勝頼家臣と言えば、跡部勝資と長坂釣閑斎光堅が何かと佞臣として槍玉に挙げられていて、その典拠は高坂弾正昌信の述懐をその親族達が書き記したとされる『甲陽軍鑑』にあるとされるが、御館の乱に絡む黄金2万両の件に関する長坂光堅の動向についても疑義を挟んでいる。

北条と敵対関係になったことで、勝頼は西に織田、南に徳川、東に北条と、三面楚歌の状態に追いやられることになる。三方面作戦などはどう見ても不利であった。頼みにしていた上杉家も御館の乱により戦力が削がれていただけで無く、未だ領内には反乱分子がいたために、自分の家のことだけで精一杯で、武田家に与力する余裕は無かった。

そのような窮地に追い込まれた中で、勝頼は刀を縦横無尽に振り回す。上野に版図を広げ、駿河・遠江国境沿いでは徳川と北条を相手に二方面で軍を機敏に動かしてやり合い、徳川軍を抑えつけている。海賊衆を巧みに操り、北条を悩ませたりもした。

1582年に至り、度重なる軍役や新府城の築城に伴う賦役で、領内から怨嗟の声が上がり、木曽福島城主の縁戚木曽義昌が信長に内通したことにより、甲州征伐が始まった。折しも浅間山が噴火し、これは信長に請われた朝廷が祈祷をいたしたところ、朝廷側の神が勝頼側の神に勝った証で有るとして大いに喧伝した。また信長は勝頼を朝敵にして、武田内部の動揺を誘った。

武田攻めに対しここまで用意周到であったのは、やはり勝頼が強すぎる大将という評判の故だろう。後世から見ると勝頼軍はドアを蹴破ったらそのまま家まで崩れてしまったかのようにあっけなく瓦解し、わずか数十人のお供を引き連れて甲斐武田家ゆかりの天目山を目指す途上、田野の地にて滝川一益の軍勢に追い詰められ僅かな連れの者や北条夫人と共に自害して果てたのだった。享年39。

武田退治総大将の織田信忠は、父信長に「私が行くまで攻め立てるな、慎重にせよ」と何度も手紙で諫められていたにもかかわらず、高遠城攻めでは自ら城に乗り出す勢いで果敢に攻め立て、わずか1日で落城せしめた。

裏切った木曽義昌を攻める際には信玄時代と同じ作戦を採ったが、当時とは状況が異なるために不利な展開になったことなども述べられている。

七〇〇ページ超有る本書は研究書という呈をしながら、ややもすれば父信玄に劣り御家を滅ぼしたイメージがある勝頼に対し法廷で弁護するかの如く、膨大な一次資料から当時の状況を懇切に読み解いて、信玄亡き後の武田家の内情や各局面での通説に対し異論を打ち立てている。

歴史というのは年号やウィキペディアを見ただけではその内実が不明な部分が多い。ただ単に勝頼が才覚の面で父信玄に劣っていたと言い切るのは飲み屋の無駄話のように簡単かつ紋切り型な分析で、なぜそうなったのかということを一次資料を基に推論し、丹念に解き明かしていく本書は、読み進めていく内にこれまで武田勝頼に対して抱かざるを得なかった疑問が霧が晴れ渡るようにほぐれていき痛快な体験だった。信長に言わせると勝頼は運が無かったということらしい。タイミング悪く浅間山が噴火したことなどは天運に見放されたと言ってもいいだろう。しかしその他の面に関してはどうか。そもそもその発言をした信長自身に信玄時代に刃向かってしまった事が信長を大いに怒らせ、その後の織田家勢力拡大により、武田家の命運を決定づけたのだとすると、武田家が滅亡したのは勝頼自身の決断のせいと言うよりも、父信玄時代の軍略が負の遺産として重くのしかかった結果と言えはしないだろうか。