随分以前に高級カメラを買うか高級テレビを買うかで迷っているという記事を書いたことがあるが、遂に高級テレビを購入した。
有機ELテレビ。48インチにしたのは、本棚だらけの部屋に置けるギリギリのサイズであったのと、将来的にMac Studioの購入を見越してディスプレイとして使う事を念頭に入れていたからだった。
実際届いてみると、48インチでも大きく感じられる。部屋が狭いからだろうか。
1人で組み立てる
組立は1人で行った。画面を指で押し潰さないように注意しながら上辺と背面のとっかかりを持って箱からスルスルと出して、という説明書通りの事はせずに、包んである薄手のビニール袋を引っ張り出すという、落としたら28万円がオジャンになるかなり粗っぽくて危なっかしい取り出し方だった。伸びきったビニール袋をそのままに、とりあえず床に寝かせて置く。前に49インチの液晶テレビを買ったときは毛布などを敷いて組み立てたように思うが、もう色々面倒で直に置いた。
スタンドをドライバーと付属のネジで組み立て、テレビ本体を恐る恐る上から填め込む。出来上がり。1人で抱えて部屋に置いた。48インチなら多少重いが持てる。55インチだと大きさ的に無理だったのではないか。
ファーストインプレッション:元々高性能のソニー製液晶テレビで視聴していたので、違いが分かりづらい
早速映画を視聴した。『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』。今年6月には恐らくシリーズ最後となる新作が上映予定。とにかく映像が綺麗だが、49インチのソニー液晶テレビと比べてどれくらい綺麗なのかは比較していないので把握できない。
だいたいカメラにしてもテレビにしても、フラッグシップ機とか性能の高いテレビを買うと、それらに備わっている性能及び機能が当たり前であることのように慣れてしまい、ちょっとアップグレードした程度では余り感動が湧かないというのもある。残像にしてもそうで、聞いたことのないメーカーや海外メーカーの安いテレビから買い換えれば発色や動きなどその違いが一目瞭然だから感動もひとしおかも知れないが、もともと4年半前に購入した高性能なソニーの液晶テレビをダイニングで観ていたから、果たしてどれくらい綺麗なのかと問われると、確かに綺麗ではあるし、黒が引き締まっているように見えるが、何とも言い難い。
『どうする家康』も観たが、瞳がもの凄く綺麗に写っている。だがこれも今まで見てきた液晶テレビで確認してみないと、どれほどの違いがあるのか感覚として分かりづらくはある。
パソコンで喩えるなら、NECのフルHDディスプレイからiMacの5KRetinaディスプレイに乗り換えたときに、その画面の美しさ、臨場感に度肝を抜かれた。NECのディスプレイの画面がギザギザ表示なら、iMacは全く欠点のない目の前に存在するかのような美しさで写真を表示してくれる。いったい今まで見てきた写真は何だったんだと唖然としたほどだ。
その超越的な感動は、今回の有機ELテレビではそれ程でもなかった。店頭で見たところでやはり通常の液晶テレビとの違いが分かりづらい。テレビ番組にしても確かに綺麗に写るが、判断が難しいところだ。
『テレビのツボ』というカルト的人気番組
テレビも観なくなって随分久しい。30年近く前に毎日放送で『テレビのツボ』というカルト的な人気を誇った番組が深夜に放送されていた。司会はぜんじろう、大桃美代子、藤岡久美子の3人で、その日放送されたテレビ番組を、「チャンネル君」と呼ばれる人達が数枚のクリップにイラストを描いて面白おかしく紹介していく番組で、当時10代の若者に人気を誇っていた。オープニング曲はデビューしたばかりの福山雅治、ゲストでスタジオにも遊びに来ていた。
その後ぜんじろうはポスト明石家さんまの触れ込みで東京進出を果たすが東京の水が合わなかったのか海外に飛び、スタンドアップコメディアンとして活躍、今ではTwitterで政治問題に気焔を吐いている。大桃美代子はNHK『クイズ日本人の質問』にレギュラー出演、藤岡久美子は日テレだったか早朝のニュース番組でアナウンサーを務めていた。
番組を紹介する「チャンネル君」に若き日の初々しい藤井隆がレギュラー出演している。その後の活躍は誰もが知るとおり。
番組ディレクターはその後『劇的ビフォーアフター』を手掛けて出世している。海パンを履いて歌を出したディレクターだろうか。
凋落していく視聴率
その『テレビのツボ』、通称「テレツボ」で番組の視聴率を紹介するコーナーがあったが、サザエさんが30%以上ありいつも一位を独占していた記憶がある。
2023年現在は8〜9%だそうだ。古臭い時代設定や登場人物が視聴者に受けないという意見もあるが、他の人気アニメも軒並み右肩下がりの視聴率なので、テレビ離れが原因とも思われる。
1998年から2000年にかけてインターネット人口が急増している。家電量販店のエスカーレータの前で、ローカルのインターネットプロバイダのバイトがチラシを配っていた頃だ。個人的にはこの頃にインターネットを始めて、あれだけ浴びるように観ていたテレビを観なくなっていった。
インターネット以前のテレビという絶対的存在と上岡龍太郎
それ以前はテレビこそが世界だった。テレビとラジオと本以外には情報源が何もない時代を振り返ると、なんとも限られた小さな世界ではあるが、小さい頃から慣れ親しんだテレビは親や教師に次ぐ絶対的な存在だった。故にテレビに期待しすぎるところもあった。昭和から平成初期にかけて活躍した名司会者の上岡龍太郎は、視聴者は余りにもテレビに期待しすぎていると批判した。その通り。しかしそれもこれもテレビしか情報源がなかったし、様々なエンターテイメントや教養を届けてくれる魔法の箱だったからだ。
テレビ業界に長くいた上岡龍太郎がテレビ番組でテレビというメディアを公然と批判する。それも的確に。今こうした度胸のある教養溢れるタレントは、見回してみても1人もいない。どれもこれも土俵の内側でスポンサーの顔色を窺いつつ決められたルールやコンプライアンスに従い安全に勝負していて中途半端だ。或いは上岡龍太郎がさながら活動弁士のように歯に衣着せぬ物言いを得意とする唯一無二のイレギュラーな存在だったのか。その上岡も、インターネットの勃興と入れ替わるように芸能界を引退し、もう20年以上が経つ。テレビは貴重な存在を失ってポッカリと大きな穴が空いたようだ。
テレビから長らく離れていた筆者は何を観るのか
テレビを観なくなって久しいと言っても、NHKの大河ドラマはちょくちょく見ていたし、10年ほど前には深夜アニメを全部見てやろうという意気込みで、『氷菓』『ギルティクラウン』『ブラックロックシューター』『UN-GO』等を観ていた。面白かったかどうかは別として。NHKのドキュメンタリー番組もちょくちょく観ていた。しかし1日の視聴時間は合計30分程度にまで減ったように思う。食事中にしかテレビを観ない生活が続いた。だいたいがNHKのニュースや民放の昼の報道番組だ。ここ20年で民放のテレビドラマを何かしっかり観たかと問われると、『SPEC』くらいしか思い浮かばない。それもテレビではなくどこかの配信だった。
今のZ世代と呼ばれる若者達は、インターネットこそが太陽のように中心にある絶対的な存在なのだろうか。生まれたときからインターネットがある。動画を撮って顔出しすることも躊躇わない。余りにもインターネット上でのプライバシーの保護に配慮していた我々の世代からすると信じがたい行為だから、TikTokのサービスもはじめは奇異を通り越して我々の暗黙のルールを脅かす驚異に見えた。
20年以上余りテレビを観てこなかったので、新しいテレビを前にしていったい何を見ていけば良いのか、少し戸惑う。各放送局のテレビ番組をざっと見渡してみると、個人的にはNHKが一番面白い。教養や歴史、報道、ドキュメンタリーなど番組の質が高く、観ていて好奇心を刺激される。
一方で民放各社はドラマが頭2つ分は抜きん出ている。バラエティ番組は肌が合わないのか、観ていて詰まらない。NHKのお笑いはコンプライアンスガチガチに則ったおとなしめの笑いで気の抜けたコーラのようだし、民放のお笑い番組は笑いがどぎついが、昔ほどでは無いように思う。
80〜90年代:テレビの黄金時代
90年代のバラエティ番組はやりたい放題の感があった。YouTubeでとんねるず辺りの番組を視聴してみると、今なら大問題になるようなことを平然とやってのけている。それらの番組は面白いが、観た後に痼りを残す。他人を馬鹿にしコケにして、時には暴力を振るって笑いを取っているので素直に笑えるお笑い番組ではない。テレビの歴史における黄金時代がやりたい放題の80年代から90年代だとすると、まさにそのピークに達した故に視聴者からの抗議の電話も殺到して、コンプライアンスが厳しくなっていったのではないだろうか。故に上岡龍太郎がテレビではやりづらくなったと2000年に引退したという観測もある。あの人の話術が現在のコンプライアンスに引っかかるほど酷い内容とは思われない。それよりもっと酷いとんねるずのバラエティ長寿番組『みなさんのおかげでした』も昨今のLGBT+(今では更につらつらとアルファベットが連なり)社会運動の盛り上がりに伴い、番組終了に追いやられたがミレニアムから18年も後のことだ。
そのほか芸人やタレントが体を張ったゲームをしたりクイズに答えたり。体を張ったゲームなんて他人がしているのを観ているより自分がやった方が楽しいだろうし、クイズも待たされるのが面倒、インターネットの時代には分からないことは検索したらすぐ出てくるのだから、クイズは現代の肌感覚に合わない。それに本を読んだ方が早いし知識が深く身につく。あとやたらCMが長いのも苛立たせるしチャンネルを変えてしまう。ニュースに対して何かしらコメントを言ったり、正直我々視聴者目線の意見は既に胸の内にあるので目新しくもないので求めていない。聞きたいのは新しい発見を促してくれる専門家の意見だ。
身近で手軽な娯楽がテレビしかなかった時代は、テレビは隣人であり友達であり時には恋人であった。それらは全て視聴者からの一方通行な想いであり続けた。テレビに映っている芸人やタレントを観て、彼ら彼女らを友達のように錯覚するが、実際は友達でも何でも無い、赤の他人である。実際に街中の収録現場やプライベートでそれら出演者と鉢合わせたときにそのことを痛感することになる。
90年代のヤラセ事件
テレビは絶対的な存在だったので、道徳的でなければならず、人間的に間違ってはいけないという信念が視聴者に強かったから、テレビに対して過度の期待をしていたのではないだろうか。
90年代のテレビ界を象徴する名司会者で一世を風靡した人物がいた。局を越えて人気番組の司会を軒並み担い、超絶的な人気を誇っていたその絶頂期にガンによる早すぎる死で伝説となり、今は半ば忘れ去られてしまった感のあるアナウンサー逸見政孝。彼が司会を担当していたドキュメンタリー番組『素敵にドキュメント』でちょっとしたヤラセが発覚し、大いに怒って番組内で謝罪するという一幕があった。
今現在の視点から見たら、本当に些細なヤラセでもはやテレビ番組ではコストを抑えて効率的に番組を製作するための慣行となっている節もあるが、番組を放送していた当時のテレビ朝日は日本中から非難囂々で、この騒動をきっかけにテレ朝全体の視聴率も低迷したのだった。
しかしその現象は視聴者がテレビに掛けていた期待がそれほど高かったことの裏付けでもある。今ならどこかの局がこの手のヤラセをしてもほとんど問題にもならないし、誰も視聴率なんて気にも留めない。そもそも視聴率自体が低い。むしろネットで笑いのネタとして扱われるくらいテレビのヤラセが深刻に捉えられない時代になった。それはもう誰もテレビなんかに期待していないことの裏付けでもある。
リアリティ番組『ガチンコ』の衝撃
90年代までテレビのヤラセはたびたび大問題となり、今で言う炎上騒ぎになったが、2000年に入って『ガチンコ』というバラエティ番組が放送されたのをきっかけに、分かる人にはヤラセと分かる粗だらけのあからさまに過剰な演出に、テレビのヤラセに対する拒絶反応が和らいでいったのではないだろうか。
テレビ番組に嘘が許されなかった時代、まだテレビは我々の隣人であった。しかしもはや誰もテレビの付いている嘘に気にも留めない現代、テレビはただの得体の知れないどーでもいい他人である。それは或る意味時代を象徴していると言える。一昔前は隣人同士の付き合いがあり、醤油や辛子の貸し借りが当たり前だった。今は隣に誰が住んでいるのかさえ分からない。隣人もテレビも、人々の紐帯が失われていったのが1980年代から2000年代の動きであるように思う。
『ガチンコ』では、ヤラセにも見える過剰な演出に対して視聴者が怒っているのではなく、過剰な演出を台本通りもしくはスタッフの指示を汲んで憎まれ役を演じている出演者その人に視聴者やスタジオに呼ばれた一般人達が怒りの矛先を向けていた。その演出手法は番組自体の面白さとは別に視聴者のヤラセ批判を回避する巧妙さが垣間見える。分かる人には分かるし嘘と真が混在したギリギリの演出までをも愉しむが、分からない人はテレビの演出という掌の上で純粋な感情を転がされ続ける。
『ガチンコ』の演出系統はその後の番組にも受け継がれている様に感じられる。現在ではクロちゃんの立ち回りが上手い。ギリギリアウトな所を上手く攻めている。
一方で番組制作者に責任や批判の矛先が向かない巧妙な番組演出は、リアリティ番組『テラスハウス』で憎まれ役を担った若い女子プロレスラーの自殺という悲劇的な死をもたらしたのだった。
謎の横文字「メディアリテラシー」の重要性
もはやヤラセ自体を番組の名物としているバラエティ番組もある。お笑い芸人が司会を演じる『全力!脱力タイムズ』では、インタビューの継ぎ接ぎで如何様にでも内容を操作できる事が可笑しさと共に暴露されている。テレビ制作の手の内を誇張してあからさまにすることで、もはや番組制作者側はヤラセをヤラセとして批判できないような空気を醸している感さえある。
『全力!脱力タイムズ』は報道番組という透明の皮を被ったお笑い番組なので、視聴者は嘘とハッキリと分かっているから問題にもならないが、先の『テラスハウス』や『ガチンコ』では嘘を嘘であると見抜けない視聴者がいるから大問題となった。ここにメディアリテラシーという、意味が掴みにくい横文字がその重要性を伴いながら浮かび上がってくる。
随分以前からメディアリテラシーという言葉が巷に上がってきたが、言い換えればそれはテレビ制作者側から視聴者への全幅の責任転嫁でもある。ヤラセをやろうが巧みな情報操作と演出で視聴者が勘違いして損害を被ったり出演者に怒りの矛先が向いて炎上しようが、全て視聴者の責任という事になる。果てには怒りにまかせた視聴者の一部が誤った空回りの正義感から一線を越えて刑事事件の責任を負うことになった。メディアリテラシーの足りなかった視聴者が否応なく責任を取らされることになったのだ。
せいぜい視聴者側は、これが番組を面白くするための過剰な演出、台本、スタッフからの指示を汲んだ結果を見せられているのであるということをメディアリテラシーを通して認識しながら番組を愉しむくらいの余裕がなければならない。メディアリテラシーはテレビから一方的に、大量に、暴力的に流れてくる情報に対処する為の現代人の所作である。
『全力!脱力タイムズ』はお笑い番組故にヤラセ風手法が問題にならないが、もしこれと同じ事をリアルな報道番組やドキュメンタリーでやらかしたなら、多いに問題になる。昨今のウクライナ戦争に絡むフェイク報道然り、世論を誘導する街頭インタビュー然り、あの番組はヤラセ風手法をとっつきやすいお笑いを通じて多くの視聴者に見せることで、現実のフェイク報道に対して暗に警鐘を鳴らしているようにも見える。言わば嘘と演出で塗り固められた報道に対する風刺だ。
数日テレビを視聴してみて映像の美しさを実感
有機ELテレビのレビューに話を戻そう。初めは4年半前に購入したソニーの液晶テレビの映りとそう大差ないと感じていたが、幾つか番組を観てやはり有機ELテレビの方が描写がきめ細やかで美しいと感じる場面があった。NHKで放送された坂本龍一の追悼番組、野球中継、民放のバラエティ番組、大河ドラマなど。
有機ELテレビは画面が暗めだというので、視聴するときは夜か、昼の場合はカーテンを閉めて観るようにしている。しかしながらカーテンを開けていても視聴しづらいということはない。
消費電力
消費電力が多めで、エネルギー効率を示す星も少なめだったが、49型の液晶テレビと、48型の有機ELテレビのスペック表を比較してみると、48型の方が若干多いものの、年間消費電力量は48型の方がやや少なめとなっている。コレはどういうわけか。
有機ELテレビの寿命
パソコンのディスプレイとして使用することを念頭に入れて購入した有機ELテレビであるが、思えば消費電力は多いし、寿命の問題がある。通常の液晶テレビと比べて寿命は短いらしく、1日5時間の視聴で、16年だという。だいたい昔の大きめのブラウン管テレビは10年くらいで壊れたことがあったし、そのずっと昔に祖母が使っていた14型か18型のテレビは、20年くらいは使えていたように思うが、さすがに15年も経つと、技術革新で更にテレビは進化して買い換えたくなるだろうから、16年も持てば御の字ではないか。この1日5時間というのは年間消費電力量から算出される電気代の計算にも使用されている視聴時間とおおよそ同じで、国民のテレビの平均視聴時間のデータなど何かしらの根拠があるのだろうか。ともかく個人的にはテレビを買ってから1週間ほどのテレビの視聴時間は1日2時間を越えない。30年以上持つ計算になる。
有機ELテレビ特有の焼き付き問題
それに焼き付きの問題がある。テレビ機能の1つ、ピクセルシフトをオンにすれば焼き付きを抑えられるが、パソコンのディスプレイとして使うとなると、稼働しているアプリ部分を除いて長時間同じ画面が表示されるわけだから、やはり気になる問題である。最近のテレビ番組は画面の上隅にテレビ局のロゴや番組ロゴを表示させているから、テレビ局側もで焼き付き問題の対処をして欲しいところ。
繋いだ外部機器
テレビにはPS4とPS5、ヘッドフォンを繋いだ。それでもまだ1つHDMI端子が残っている。プラスティックの蓋が2つ付いているので埃避けにはなるが、1度テレビを設置してしまうと後ろに回り込めないところに置いたので填められるかどうか。物ぐさなのでまだ処置していない。
コードは下から手探りで差し込むことは可能だ。スタンドの高さは2段階に出来るのだが、コードの差し込みのことと、いずれは前面にサウンドバーを置くことを考慮して、高い方に設定しておいた。
薄いベゼルで没入感を演出
4年半前に購入したソニーの液晶テレビと比べて、上辺とサイドのベゼルが細いので、没入感がある。下辺にはSONYのロゴマークが左に申し訳程度に薄く表記されていて、目立たない。没入感を考慮したデザインなのだろう。
テレビのサイドにあるボタンと設定からGoogleによるマイク入力をOnにした状態だと、消費電力が高くなる上に、枠の下辺にLEDランプが常時点灯して気になるから、LEDランプをオフにする設定にした。
今現在はこんな所。またいろんな番組やBlu-ray、配信などを視聴して気づいたことがあれば、新たに頁を設けて再レビューしたい。