スタジオジブリ黄金期のアニメ映画 天空の城ラピュタ

天空の城ラピュタ Blu-ray

日テレの金曜ロードショーで天空の城ラピュタを観た。もう何度目だろう。おそらく十数回は観ている。テレビでだけれど。2週連続でジブリのアニメをするとツイッターで回ってきて、今回は初めからしっかりと見てやろうと心に決めていた。

もう何度も観ているので、重箱の隅をつつく様な感想しか出てこない。思ったことをつらつらと書き連ねてみようと思う。

天空の城ラピュタとふしぎの海のナディアは内容が似ている。元々NHKのアニメ番組として、宮崎駿が企画した案があったのだが、採用されなかったらしい。その案が後に宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」と、庵野秀明監督の「ふしぎの海のナディア」になったそうだ。ウィキペディアにそう書いてあった。

不思議な力を持つとされる青い宝石を巡る争奪戦、盗賊団との宝石を巡る攻防とその後の団結および和気藹々とした日常生活の描写、空賊団の女頭領ドーラの率いる子分の格好は全身白のスーツにデフォルメされた大きな蝶ネクタイだが、グランディス女史率いるサンソンとハンソンも同じ白スーツに大きな蝶ネクタイという格好である。旧約聖書のソドムとゴモラを滅ぼした神の雷も同じだし、主人公の少女が実は滅びた王家の血筋で、対立している悪役は親族という点も、滅びた王国が高度な科学文明を所有していたというくだりも同じ。

似ているから悪いというわけでなく、師弟関係にある両氏の代表作をこうして比較するのはとても楽しい。最もナディアの方は、主要メンバーがN-ノーチラス号に乗り込むシーンからネモ船長に再会するまでのシーンを、庵野監督が大ファンである宇宙戦艦ヤマトのワンシーンをトレースして、原作者の松本零士から怒られたそうだ。

ナディアの最終回では、宇宙人の古代文明の遺産を積んだレッドノアが成層圏で爆発し、古代アトランティス人の高度な科学が生んだ兵器が光の球となって十数体世界中に散らばっていくシーンが描かれている。それが百数十年後に、使徒として続々と第3新東京市を襲うという裏設定の元で制作されたのが、庵野秀明監督の代表作「新世紀エヴァンゲリオン」だった。

つまり、「天空の城ラピュタ」と「新世紀エヴァンゲリオン」は、浅からぬ縁で繋がっているのである。

ポム爺の「石がざわついておる」とか、閣下の「首に縄をくれてやる」、盗賊団の「嫁はいらねえ、飛行石さ」などの台詞が古風で生々しかった。石がざわつくとか、まるで生き物の様ないい方に、ロシアフォルマリズムの文学理論で書かれた初期の大江健三郎の小説の様な、肌にぞくぞくと伝わってくるリアリティを感じた。

ラピュタに辿り着くシーン。雲が壮大に流れる。最近趣味でカメラをやっているので、雲の縁のあの色はパープルフリンジ出てるんじゃないか、参考にした写真に色収差出てたんじゃないかとか一人で突っ込んでいた。子どもの頃に観ていたら、そんな突っ込みは出来なかっただろう。ただただ綺麗な雲の描写に圧倒されていたはずだ。

さて、恒例のバルス祭り。今回は公式の金曜ロードショーのスマホサイトが、バルス!シーンまでの時間を表示するという力の入れよう。みんなでバルス!と呟こうと大々的に呼びかけていた。ツイッターでは「公式がこういうことやっちゃうと逆に呟き甲斐がなくなる」という様な意見が流れてきたが、結局みんなバルス!をツイッターで呟いていた。公式スマホサイトの方でも、バルスのシーンになると、画面が落下する石と共に下に崩れ落ちていって、草木のイラストを背景に「ラピュタ城崩壊」の赤文字を表示させるなど、なかなか手の込んだ演出を用意していた。インターネット新時代のテレビの楽しみ方の1つを提示してくれた。この日ツイッターは高負荷で新規の画像が表示されなくなったが、文字表示は快適に動いていた。

余談だが、ジブリのアニメがテレビで放送されると株価が下がるという、世界中で有名となっているジンクスがある。この日の日本時間夜11時に始まったアメリカの株価ダウジョーンズは、さっそく400ドル安となった。ラピュタの放送が終わったのは11時過ぎだ。

来週は、魔女の宅急便である。大好きな作品の1つだ。ラピュタを観ていて思ったのは、ジブリアニメの黄金期は「天空の城ラピュタ」から「紅の豚」あたりではないだろうかということだ。1984年公開の「風の谷のナウシカ」は別格として、まだこの頃はスタジオジブリの知名度も、今の様に崇め奉られるほど高くはなかったと思う。それ故に勢いがあり、新しいアニメ映画を開拓していこうという意気込みと、血湧き肉躍る情熱の波に乗っている感がある様な感じがする。実際の所どうかは分からないが。

1985年といえば、日本がバブル経済に突入しようとしている矢先の年だ。1986年に始まり1991年に終わりを迎えたバブル経済。日経平均株価は1990年に暴落、バブルは弾け、その後失われた20年が到来する。現代日本が元気の良かった最後の時代に作られたスタジオジブリの作品群に憧憬を抱いてしまうのだ。おそらくあの陽気で気楽な時代のキラキラと澄んだ空気を吸うことはもう二度とないのだろうと。

ムスカの声優は俳優の寺田農。その後NHK大河ドラマ「琉球の風」で、島津家の家老を演じたのが印象に残っている。作中、ムスカのパートナーである閣下の声優は、永井一郎。国民的アニメ「サザエさん」の頑固親父・波平の役で知名度の高いベテラン声優だったが、前年惜しくも亡くなられた。

こうして時代がどんどんと過ぎ去っていく。子どもの頃に慣れ親しんだ作品の声優が亡くなっていくというのはもの悲しいものだ。

1995年には「もののけ姫」が公開される。おそらくこちらの方がスタジオジブリの興行収入は高いだろう。当時は「新世紀エヴァンゲリオン」の劇場版公開もあり、両監督の師弟関係や、作品の内容、「生きろ!」「死んでしまえばいいのに」のキャッチコピーなど、何かと比較された。読売新聞の1面には「もののけ姫の映画公開まであと○日」の小さな広告が連日掲載されていた。

この頃になると、スタジオジブリの名前はブランド化していた。日本テレビでスタジオジブリ制作秘話などが放送され、ジブリの映画は夏の風物詩ともなった。でも僕としては余り面白く感じられない。風の谷のナウシカの焼き直しのようにも思われる。人と自然との調和とか自然賛美などのエコロジーの思想が強く含まれている様な感じがして、どうも取っつきにくいのだ。

ラピュタの最後のシーンで、滅びの言葉「バルス!」を唱え、ラピュタの城は崩壊する。崩れ落ちる瓦礫の中で、シータとパズーは奇跡的に木の根っこに引っかかり、命拾いする。パズーが「木の根が僕たちを守ってくれたんだ」との台詞を残して、終幕。何とも意味深だ。高度な科学文明は、よこしまな心を抱いた人間自らの手によって簡単に自らを滅ぼすが、最後には懐深い自然が守ってくれるとでも言いたげだ。でもこのくらいシンプルなメッセージ性を持たせた方が、好感が持てる。もののけ姫はその点、分かりにくかった。なんだかサブリミナルの様に作中にエコロジーのメッセージ性が隠されている様な気がした。

まぁアニメは子どもが観るものなので、小さい子どもが楽しければそれでいいのだ。僕も「ナウシカ」や「ラピュタ」や「魔女の宅急便」や「トトロ」や「紅の豚」を観た頃は子どもだった。子どもの頃に観たり触れたりした作品というのは、刺激的で、ヒーローやヒロインに恋心を抱き、子どもの全幅の感受性を受け皿にして大きく影響を残すものだ。大人になってしまった僕の感受性が鈍っただけなのかも知れない。