「花神」を読んでいる最中に中村梅之助逝去のニュース

花神(上中下) 合本版 [Kindle版]

先日、歌舞伎俳優の4代目中村梅之助が逝去したニュースを見た。一瞬誰のことかよく分からなかったが、NHK大河ドラマ「花神」で主人公の大村益次郎を演じた俳優だとニュースで知って、あぁあの人かと思ったのだ。

僕は根っからの大河ドラマ好きで、これまでに中井貴一の「武田信玄」や、真田広之の「太平記」、渡辺謙の「独眼竜政宗」、三田佳子・市川團十郎の「花の乱」、緒形直人の「信長」、竹中直人の「秀吉」、西田敏行・鹿賀丈史の「翔ぶが如く」、津川雅彦・江守徹の「葵徳川三代」、仲間由紀恵・上川達也の「功名が辻」などを楽しく視聴してきた。昔NHKの夕方の時間帯に大河ドラマを再放送していた枠があり、丹波哲郎・渡瀬恒彦・草刈正雄の「真田太平記」もこの枠で視聴した。

残念ながらその枠は、中高生をターゲットにしていると思われる夕方の情報番組に取って代わられた。今現在は「真田丸」が放送中で、久しぶりに一回も欠かしたくない大河ドラマが放送されていて夢中になっている最中である。どうもそれだけでは飽き足らず、YouTubeにアップされている大河ドラマを見て楽しんでいたのだが、その中で見慣れない大河ドラマの役者に目が引かれたのだった。

見た目は仏頂面のオッサン、月代の額が不自然なほどにやたら長く、果たしてこれが大河ドラマの主役なのだろうかと訝ったが、果たしてこれが、中村梅之助演じる、かの大村益次郎だった。

中村梅之助の逝去のニュースが伝わった時は、ちょうど司馬遼太郎の「花神」を電子書籍で読んでいる最中だった。子供の頃に学研の歴史教材のトランプで、大村益次郎の名前は知っていたが、旧日本陸軍の創始者としか書かれておらず、そのことがどれだけ偉いことなのかというのが、子供の僕にはいまいち飲み込めないでいた。

なんといっても時代は国民にも政治家にもマスコミにも戦後民主主義の左寄りの価値観が蔓延っていた平和な時代の真っ只中で、日本は日本国憲法第9条で戦争を放棄している国である。まだ政治的に純粋無垢な子供の僕にとって、軍隊とか陸軍とかいう言葉は憲法第9条の理念の下では当然悪でしかなく、人殺しの集団なのであって、なぜそのような集団を創始した人が、偉人として歴史の教材に採用されているのか、全く腑に落ちなかったのだった。子供ながらの曇りのない疑いを知らない正義心から、出版社に対して怒りさえ覚えた。

それから程なくしてインターネットが一般にも普及し、それに伴う百家争鳴の議論の中で左翼思想の様々な欺瞞が噴出し、戦後民主主義の左寄りの価値観の支柱が揺らいでいく。

さて、1年ほど前にみなもと太郎の「風雲児たち!」という漫画に出会った。電子書籍で半額だったのだ。歴史好きの僕としては読まずにはいられなかったが、絵が子供のギャグ漫画っぽかったので、しばし躊躇った後、全巻大人買いした。

その漫画を読んで、大村益次郎が出自においても性格においても、また幕末という攘夷の気風が横溢していた時代に対する洞察においてもどれだけ面白い人物であるかを知り、長州藩に出仕する前の旧姓、村田蔵六に並々ならぬ興味が湧いたのだった。

そうした事もあり、つい最近、司馬遼太郎の「花神」全三巻を電子書籍で購入した。割引セールをやっていたのである。早速読み進めていったが、さすが司馬遼太郎、読みやすい。するすると読める。司馬遼太郎の著作は10作品ほど読んでいるが、久しぶりに読んだこともあり、あの心地よい司馬遼節がスルスルと頭の中に入ってきた。

村田蔵六は元々は長州藩の草深い田舎の村医者の出で、若い頃に大坂は緒方洪庵が営む適塾に蘭学を学び、その後は故郷に帰って医業を継いでいたが、「その程度なら薬を飲まなくても二、三日寝てれば治る」と薬を出さないその余りにも合理主義過ぎる性格から患者が寄りつかない。すっかり暇している所へ、シーボルトの弟子であるこれまた蘭方医の二宮敬作の推挙で、宇和島藩10万石のお殿様伊達宗城の目に止まり、宇和島藩に士分として仕えるの事になるのだが、その経緯もなかなかに面白い。村田蔵六は無欲なのだろう。殿様と家来との意思疎通が上手くいっておらず、宇和島藩に来た時には中間と同じ低い禄高でとりあえず迎えられた話や、その後幕府の講武所に出仕することになり、旗本と同じくらいの高い身分となったが、長州藩の桂小五郎から是非にと乞われたものの、藩の身分制度のしがらみ上、今の地位より低い身分しか与えられないと告げても、勇んで長州へ行くと行った具合だから、その性格の清貧ぶり無欲ぶりが窺い知れる。

そしてこの時代に科学や技術に秀でた人物に対する扱いが、西洋に比べて立ち遅れていた悲しい現実も知らなければならない。西洋ならば王国に召し抱えられて相当の地位にあるであろう人物が、鎖国を続けてきた幕末日本では、提灯の張り替えの仕事をして糊口を凌いでいるのだから。そんな下層階級の更に下の層に暮らしている人物が、浦賀でペリーの黒船を見て危機感に襲われたと共にあれを我が藩でも造りたいと欲した伊達宗城の命で、蒸気機関のからくりを解き明かして作ってしまうのだから、これほど面白い時代もない。

またこの作品にはドイツ人医師シーボルトの娘であるイネも頻繁に登場する。シーボルトと言えば、シーボルト事件で当時の日本の最高機密である伊能忠敬の日本地図の写しを国外に持ち出そうとして船が嵐に遭い、積み荷のご禁制がバレてしまい国外退去処分になった人物で、長崎にいた頃は鳴滝塾を立ち上げて日本人達に西洋医術を伝授した偉人でもある。その鳴滝塾の門下生の中には、世が世であれば国家を支える大学者に成り得たであろう悲劇の天才高野長英や、先に述べた蘭方医の二宮敬作などがいる。

その紺碧の目を持つ美しい女性イネと、自分の容姿に関しては全く自信がなくいつも後ろめたい思いをしている村田蔵六とのロマンスも繰り広げられるのである。

さてその村医者が伊予宇和島藩に召し抱えられ、軍の近代化を急いでいた幕府にも重く用いられ、さらには近代日本の革命児をあまた創出した長州藩に引き抜かれて、ゆくゆくは倒幕軍の総司令官となり、頭脳明晰類い希な戦術で活躍して明治維新を成し遂げ、維新後は近代日本陸軍の創始者となるのだが、上巻ではまだその威風は出てこない、生真面目な堅物、村田蔵六である。