作品を知っていても伝わる写真が撮れるとは限らないのは何故か。好きな作品と知らない作品を撮る時の違い。

写真は光で愉しむもの。
写真は光で愉しむもの。

とある撮影の帰り、地元が同じという事で、あるレイヤーさんと一緒に電車で帰る事になった。1時間ほど電車に揺られる中で取り留めの無い話をした後に、撮影についての話になり、好きな作品はありますか?と聞かれた。

つまり「コレが撮りたい!」という作品の事だろう。よく耳にするのが、好きな作品や知っている作品でないと撮れないとかいう意見だ。作品を知らないカメラマンが撮っても中身がないとか伝わってくるものがないとかいう荒唐無稽なことを言う者もいる。

しかしもし作品を知っていたり好きだったりするカメラマンよりも、作品を知らないカメラマンが撮った写真の方が、伝わってくる写真や中身の伴っている写真を撮っていたら、前者のカメラマンはどう言い訳するのだろう。(或る撮影で、作品が大好きなカメラマンが撮影後にTwitterでひねくれた愚痴を噛ましてその日撮影したすべてのデータを渡さず、7ヶ月程経って催促され、それからまたしばらく経ってようやくデータを送ってきたという事もあった)。

そもそも「伝わる or 伝わらない」は曖昧な主観に根ざした基準でしかない。人によって物事の捉え方は違うし、他人を批判するときには便利で都合の良い言葉だ。嘘でも「伝わらない」と言えば他人を簡単に批判できる。主観で言えば、綺麗すぎる風景写真は、人の欲望を刺激するのが目的の単に企業の金にまみれた中吊り広告の写真にしか見えなくて薄っぺらいと感じる人もいるだろう。大自然の冬山や、大海原、空からの凍てつく大森林の写真を退屈と感じる人もいるかも知れない。それもうテレビで何度も見た事あるといったように。

コスプレ撮影は高度なスキルを要求される

知ってる知らないの違いや伝わる伝わらない云々の意見は所詮は男装を撮りたくない男性カメラマンの言い訳や、虚栄心の強いオタクの矜持に根ざした感情論に過ぎない。耳に響きの良い綺麗事、つまり理想を並べ立てて誤魔化そうとするが、現実が追いついていないので、理想と現実のギャップが残酷なまでに炙り出されてしまう。

コスプレ撮影で、コスプレしている作品のイメージに近づけて撮る為には、撮影スキルは絶対だ。特にアニメや漫画は現実ではあり得ないファンタジー色の強い作品が多い。キャラクターにより近づきたいからこう撮って欲しいというコスプレイヤーの要望に応える為には、撮影スキルとレンズ、ライティング機材は必須となる。ストロボで丸く光るテニスボールを再現したり、白い大きな斧の部分だけをカラーフィルターを点けたストロボでピンク色に変えたり、密閉型のスタジオで日の光が降り注ぐ本物のマンションの部屋みたいに撮ったり、求められるスキルはいくら学んでも学び足りない。自然光の読み方、レフ板の当て方、1灯ライティング、多灯ライティング、LED照明を使った撮影、ソフトボックスライティング、水撮影、スモーク撮影、プロジェクター撮影、Photoshop加工etc… 学ばなければならない事はいくらでも湧いて出てくる。

どの分野でもそうだが、スキルが無ければ作品もサービスも製品も成り立たない。スキルも無く耳に響きの良い綺麗事を並べ立ててばかりいるのは、虚栄心の塊でしかない。口を動かしてる暇があるなら、手を動かせという事だ。撮影の基礎がなってないと小馬鹿にしている当の本人が、ピントが合っていない写真を量産しているのと同じくらい、その言葉は滑稽で薄っぺらい。

大好きな作品を撮るときは、撮影者としての目が厳しくなる

話を元に戻そう。好きな作品はありますか?と聞かれて、ひょっとしたら撮りたい作品があれば率先して依頼しようと気を利かせてくれているのかも知れないと思い、あれこれと考えてみたのだが、余り出てこない。出たところで昔の作品を彼女たちがコスプレ出来るとは思えない。この年になると他人の作った作品に興味が失せていくというのもある。作り手の意図が見える年頃なのだ。アニメや漫画などに感化されやすい年頃は、思春期の14歳前後から二十歳くらいまでだろう。その年齢はとうに過ぎているので、最近は中々のめり込める作品と出会えない。年を取ると美食家になりがちなので、京都アニメーション制作の「氷菓」のような美的センスに優れた作品は好きだ。

しかしそもそも好きな作品を撮ろうとした場合、単に知っている作品や知らないけど興味の湧く作品を撮る時よりも、撮影者としての目が厳しくなる。容姿や衣装、ウィッグ、カラコンの有無、造形など、中途半端なレベルなら、撮りたくない、苦々しい、苦痛を感じる、家に帰って本を読むか寝ていたいと思う事だろう。憧れのキャラクターは完璧でなければならない。作品が好き、作品を愛しているというのはそういう事だ。中途半端なクオリティなら撮影を断っていると思う。

これはあくまで撮影者としての意見であって、鑑賞者としての意見ではない。面識のないコスプレイヤーの写真や、あかの他人の撮った写真を鑑賞している分には、たとえ好きなキャラクターのコスプレが似ていなくても、何とも思わない。そんな事はかなりどうでもいい。何の利害関係も生じないし、所詮他人事なのだから。

しかしいざ自分が大好きな作品を撮るとなると、撮影者としての厳しい目が鈍い光を帯び始める。完璧主義が重い腰を上げる。なぜそのポーズなのか、なぜそのポーズが出来ないのか、なぜその表情なのか、容姿、ウィッグ、衣装、造形、カラコン、表情、ポージング、ありとあらゆる細かい事が目につき始める。

好きな作品・知っている作品かそうでないかは、撮影を受ける基準にはならない。そのような基準で撮影を受けていては、視野が狭くなる。狭い世界の中で閉じこもっているようなものだ。

写真は光と時間を自由自在に操れる芸術

では僕が撮りたいと思う時の基準は何だろうと考えると、それは光だ。

写真は光の芸術と言われている。つまり自然光やストロボを操って、光と戯れたいのだ。その光の遊びが楽しければいい。逆に光と戯れる事の出来ない撮影は行きたくない。撮影中も、楽しいか楽しくないかは、光で遊べるか否かが基準となる。楽しい時は光を操れる時、楽しくない時は光の出番がない時、或いは希薄な時。

あとはまぁ、コスプレイヤーさんが可愛ければもしくはカッコ良ければ、作品を知ってても知らなくても男装でも女装でも何でも撮りたい。撮影意欲が湧く。そういうものだ。