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大阪城 – まほろば探訪 第48回

大阪城と桜の饗宴。

大阪城と桜の饗宴。

今現在建っている大阪城は昭和の戦後になってから再建された城で、その前は徳川氏が豊臣氏を滅ぼしてから再建された城だ。ということで2度再建されている。では豊臣秀吉が建てた大坂城とはどのようなものだったのか。屏風絵に残る大坂城は黒に金箔が輝いており、偉容を放っている。徳川家から出奔した石川数正を徳川の監視役としておいた信州松本城も黒だったし、秀吉子飼い武将加藤清正が建てた城も黒だった。黒い城というのは威圧感がある。権力の象徴として、またそこを訪れる諸将を威圧する目的もあったのかもしれない。

秀吉時代の大坂城の範囲は今よりも一回り大きかったという。

大坂城の歴史

1570年(元亀元年)から1580年(天正8年)の10年間にわたり、この地では石山合戦が行われた。元亀元年に本願寺第11世法主顕如光左が檄を飛ばし、織田信長との対決を鮮明にする。長島、越前、紀伊、そして摂津において、信長は本能寺勢との戦いに苦しめられることになる。

天王寺合戦や二度にわたる木津川口合戦、有岡城主荒木村重の謀反などを経て弱体化した本願寺に対し、信長はようやく朝廷を介して和議を結ぶことになる。その後顕如は石山本願寺から退去したが、その際に徹底抗戦を主張する息子の教如との諍いがあったという。教如はそのまま石山本願寺に残ったが、抗する術もなく退去。この諍いが後々にまで尾を引き、ひいては天下人徳川家康の介入を許し、西本願寺と東本願寺の分裂に繫がる。

秀吉が天下の趨勢を掌握し始めた1583年(天正11年)より3年の歳月をかけて、破却された石山本願寺の跡地に大坂城が築城される。縄張りは黒田官兵衛孝高が担い、五層の天守閣を頂く難攻不落の巨城が誕生。城の北、東、西は淀川などの天然の壕に守られており、唯一南側が台地続きで守りが弱かった。秀吉が大坂城について家康に自慢した際に、難攻不落の大坂城にも一点だけ弱いところがあってなと扇子で地図の南を叩き、ここが弱いと打ち明けたという話もどこかで読んだ覚えがある。

今現在我々が観ることの出来る大坂城の遺構は江戸期に再建されたものであり、豊臣氏の大坂城の遺構はすべて地中に埋まっているという。堀と門の位置以外はすべて徳川氏独自の縄張りとなっている。

1598年(慶長3年)8月18日、豊臣秀吉が伏見城にて薨去。秀吉の遺命に反して大坂城西の丸には幼い秀頼君を安んじ奉るという名目で五大老筆頭の徳川家康が居座り、豊臣家の天下に暗雲が垂れ込め始める。1600年(慶長5年)7月、上杉景勝征伐のため家康が大軍を率いて会津に向かっている最中に、秀吉股肱の家臣であった五奉行の石田三成が挙兵。同年9月に関ヶ原の地において東西両軍あわせて20万が戦うが、小早川秀秋の寝返りにより東軍が勝利を収める。

三成亡き後の1603年(慶長8年)、家康は征夷大将軍に就任。名実ともに家康は天下人となり、江戸に幕府を開く。その折に、淀殿は「二代将軍は我が子秀頼君にお譲りくださるのでしょう」と家康を信用していたが、その2年後の1605年(慶長10年)、家康は息子秀忠に将軍職を譲り、自身は隠居して大御所と称し、2年後には駿府城に移り住んでしまう。これは今後将軍職は徳川家が継いでいくという諸大名への表明であると共に、豊臣家に対する牽制でもあった。

1611年(慶長16年)、京都二条城にて、徳川家康と豊臣秀頼が会見。このときに家康は秀頼の将器を見抜き、豊臣家を滅ぼす決意をしたともいわれている。

1614年(慶長19年)、方広寺の梵鐘に刻まれた銘文の「国家安康 君臣豊楽」が家康の字を二つに引き裂き、豊臣の繁栄を願う呪詛だとして、豊臣家に三つの条件の内いずれかを呑まなければ戦になると脅す。世に言う方広寺鐘銘事件である。秀頼が大坂城を出て国替え、淀殿が人質として江戸下向、秀頼の駿府および江戸への参勤などどれも呑める物ではなかったので、大坂冬の陣が勃発することになる。

大坂冬の陣・夏の陣

豊臣方は太閤秀吉が残した御金蔵から浪人衆を雇い入れる。元黒田家臣で主家と仲違い後は乞食にまで身をやつしていた後藤又兵衛、元宇喜多家臣でキリシタンの明石掃部、関ヶ原の戦い後に改易され京で寺子屋を営んでいた長宗我部盛親、同じく関ヶ原後に改易され、土佐山内家に身を寄せていた毛利勝永、そして二度も徳川の大軍を退けた真田昌幸の子で、関ヶ原後は紀州九度山に蟄居していた真田信繁(幸村)。

すでに大坂冬の陣において、豊臣家臣と、浪人衆の対立は生じていた。作戦立案に関しては、大坂城より打って出て、京を制圧し、近江瀬田あたりで江戸よりの長旅で疲弊した徳川の大軍を迎え撃つという案を信繁が出したが、大野治長は、太閤殿下の築いた難攻不落の城に籠もる籠城策を取る。

大坂城の南は守りが薄いと見て取った信繁は、そこに半円形の出城を築く。誰がいうでもなく真田丸と呼ばれたその砦に我先にと攻め寄せた前田利常勢、井伊直孝勢、松平忠直勢は、信繁の策略に填まって大損害を被る。このあたりの経緯は、父昌幸が上田城にて徳川勢を翻弄したやり口とそっくりだ。まず 篠山に陣取った真田勢が挑発でけしかけ、やむなく前田勢が夜陰に乗じて篠山を獲りに行ってみると、もぬけの殻だった。明け方に真田勢が前田勢を挑発し、それに乗った前田勢が真田丸に突進。真田勢は前田勢を十分に引きつけたところで鉄砲を斉射。井伊勢と松平勢も勢いに押されて続いたが、泥濘に足を取られ兵は思うように進まない。そこへ城内で火薬があやまって爆発し、これを内応を約束していた城方の南条元忠の合図だと勘違いした三将は更に激しく攻め立てたが、信繁の術中に填まった状態ではなすすべもなく、大混乱を来し、大損害を被ることになった。まだ無名であった真田信繁の働きを見た家康は、信濃一国を与えるから徳川方に靡くよう叔父の真田信尹を介して持ちかけたが、信繁は自分を取り立ててくれた秀頼ぎみに恩義を感じていると断ったという。

関東勢20万に対して、豊臣方は9万。太閤秀吉が築いた難攻不落の城だけあり、家康は攻めあぐねる。一計を案じた家康は、イギリスより購入していたカルバリン砲やオランダ製の大砲などで大坂城に昼夜を問わず一斉射撃を行い、将兵達に鬨の声を上げさせる。そのうちの一弾が天守閣を貫き、側に居た淀殿の侍女が被弾死する。更に金山の鉱夫を呼び寄せて坑道を掘らせ、石垣の破壊を目論む。恐怖に駆られた淀殿は家康との講和を命じ、大坂冬の陣は集結する。

和議の条件は本丸以外の二の丸・三の丸の破却と外堀を埋めることだったが、家康謀将本多正信は内堀も埋めてしまい、大坂城を裸城にしてしまう。約束を違え内堀まで埋めたという説に関しては異論があり、すべての堀を埋める条件は約定の中に入っていたという説が有力となっている。その後浪人衆の狼藉や京に火を放つという風聞がたち、徳川方は大坂城にいる浪人衆の退去と淀殿・秀頼親子の安房・上総への国替えを要求。再び手切れとなり、大坂夏の陣を迎えることになる。

道明寺合戦にて、幕府軍を食い止めるべく後藤又兵衛勢が伊達政宗勢と戦うが、後詰めの真田信繁勢らが折からの濃霧の為に遅延してしまい、孤軍と化した又兵衛は討死。八尾・若江の戦いでは木村重成、長宗我部盛親が徳川の大軍と戦い、藤堂高虎勢に大打撃を与えるも多勢に無勢で壊滅し、木村重成が討死。享年23。兜の中には香が焚かれていてその覚悟の所作は徳川諸将を感心させたという。

いよいよ追い詰められた豊臣軍は最後の賭に出る。真田信繁、毛利勝永、大野治房らが徳川幕府軍を引きつけている間に、明石掃部勢が迂回して徳川家康本隊を急撃し総大将家康の首を獲るという作戦だった。この乾坤一擲の戦を勝利に導くため将兵達の士気を高めようと豊臣秀頼の出馬を求めた信繁だったが「おふくろ様が許さぬ」という理由で沙汰止みになってしまう。総大将秀頼の馬印なきまま茶臼山に陣取った信繁は、「関東勢百万と候らえ、男は一人もなく候え」と声高らかに叫び、徳川勢の幾重もの陣に向かって突進していった。その猛撃はすさまじく、家康の馬印を倒し、家康自らも馬で数里遁走し、切腹を覚悟したという。家康の馬印が倒されたのは1573年(元亀3年)における三方ヶ原の戦い以来のことであった。

しかし衆寡敵せず、幕府軍に追い詰められた信繁は満身創痍の中、神社で休息していたところを討ち取られた。享年49。

山里の郭に逃れた秀頼と淀殿は、一縷の望みを繋ごうとするも、徳川方より鉄砲を撃ちかけられ助からないことが分かると共に自害して果てた。

秀頼の正室となっていた家康の孫娘千姫は焼け落ちる大坂城より救出されている。

その後大坂城は徳川氏により再建されるが、諸大名に賦役させ、各藩の財力を削ぐ目的もあった。大坂の地は年貢米の一大集積地として天下の台所と呼ばれ、商人の町として幕末まで栄えることになる。

桜の咲き誇る大阪城

大阪城と石垣。

大阪城と石垣。

今年は例年より10日ほど桜の開花が早かった。桜ノ宮駅を降りて外に出ると、大川沿いには桜がこれでもかというほど咲き誇っており、花見客がゾロゾロと歩いたり芝生に陣取り弁当を広げたりしている。

大川に架かる橋から大坂城を臨む。

大川に架かる橋から大坂城を臨む。

花見客で賑わいを見せる河川敷。

花見客で賑わいを見せる河川敷。

毛馬桜ノ宮公園を抜けて大阪城に入る。東側の大阪城ホールや市民の森あたりは歩いたことはあるが、今回は西側から初めて大阪城の敷地の中に入ることになった。西側と東側とではまた風景の趣も異なる。東側は大阪ビジネスパークと呼ばれていて、真新しいピカピカのビジネスビルが林立しているが、一方で西側はどこか古ぼけていて、歴史ある大阪府庁や、NHK大阪放送局、大阪府警などの官公庁や公共施設の建物で埋め尽くされている。道路の広さからも歴史を感じさせる程に厳めしい風景だ。

東側の地下には旧大阪市営地下鉄、現大阪メトロの長堀鶴見緑地線が走っており、この線はコスプレ撮影に赴く際によく使っている線だが、改めて地図で見ると大阪の街をこのようにうねりながら走っているのかと一瞬驚く。今まで出発地と目的地の定点だけで場所を認識していたので、地図で全体像を確認したことがなかった。

他にもJR大阪環状線と東西線、京阪電車本線などが十字に交わりながら大阪城の北東の端を取り囲み、そこから更に少し行けば種々雑多な人々で賑やかしい一大歓楽街京橋に辿り着く。

なんだかんだで中国人や韓国人の観光客も多い。とりあえず道を人々の流れに沿ってぐるっと回り、陽気な日だったのでアイスクリームを買ったが、トイレも自販機も行列が出来るほど賑やかだった。

桜と大阪城のコラボがまた美しいし、心を陽気にさせる。

大阪城と桜。

大阪城と桜。

大阪城内濠。細川家、前田家、黒田家、池田家など五十九家に命じて、豊臣時代の本丸の上に盛り土をして、石垣を築造したという。各藩の財力を削ぐ目的もあったから、外様大名ばかりだったのだろうか。しかし広い広い。帰りに南の方の堀も見たが、乗り出して覗くと落っこちそうで高所恐怖症の身としては怖かったし少し酔った。

大坂城内濠。

大坂城内濠。

豊臣の旗指物が並ぶ。

豊臣の旗指物が並ぶ。

内濠にかかる橋を渡り天守閣の方へ。途中、淀殿・秀頼親子が自刃したという山里丸の跡もあった。徳川期の城だからそんな物残ってないと思っていたが、再築の際に形は変えて名前だけは残ったようだ。秀吉時代は桜や松など山里の木々を植えて茶会などを愉しんだ和やかな空間だったそう。

天守閣に近づくと、これまた石垣の反り具合がたくましい。観光客が頑張って結構な高いところまでよじ登ろうと試みていた。おいおい怪我しても知らないぞ。階段に登り、堀を背後にして大阪城の天守閣を眺める。

大坂城天守閣。秀吉時代と家康時代のものを併せたデザインとなっている。

大坂城天守閣。秀吉時代と家康時代のものを併せたデザインとなっている。

坂を登って天守閣の正面側へ。観光客でいっぱい。天守閣前は整備されていてエレベーターもついている。天守閣に登ろうかと思ったが、大勢の行列が出来ていたので今回は断念。近いからまたいつでも来れる。

大阪城天守閣。

大阪城天守閣。

天守閣正面には、1970年大阪万博のタイムカプセルが埋まっている。開けられるのは5000年後。それまでに地球持つかな。

近くには戦前の首相官邸か大本営のような建物がリノベーションされ、洒落たレストランとなっていた。戦前は旧陸軍の部隊が置かれていたというから、その手の建物なのだろう。

石山本願寺があったと推定される碑もあった。

石山本願寺推定値の碑。

石山本願寺推定値の碑。

鉄砲を撃ちかける穴の向こう側に桜の姿が。

鉄砲を撃ちかける穴の向こう側に桜の姿が。

いったん門を出て、外濠の広さを体感しながら、もう一度中に入り、西の丸公園に入場する。有料で250円だったか。

猿回しの芸もやっていた。猿回し師の話術を聞いていると、猿回しとスマホゲームは似通ったビジネスモデルだなと思わせる。どちらも見る・プレイするのは無料。話術で・カード収集欲でお客にお金を払いたい気持ちにさせる。無料で開口を広く取って、払いたい人は払う。似ている。お金を払いたい気持ちにさせるコミュニケーション。実は猿回しという職業は凄く高度なスキルを必要とされるのではないか。これは見習わなければならない。

猿といえば関ヶ原を訪れた折に、野生の猿の集団5匹くらいと出くわしたのだけれど、あちらの猿は敵対的だったが、こちらの猿は大人しくて可愛らしい。

大阪城西外濠。

大阪城西外濠。

大阪城南外濠。

大阪城南外濠。

大阪城大手門。

大阪城大手門。

大阪城夜桜ライトアップを西の丸公園から観る

日も沈んだ。ブルーアワーの時間帯を狙って、ライトアップされた大阪城を撮影。ブルーアワーは日没30分くらいしかないから、あっという間に絶好の撮影時間は終わってしまう。

ブルーアワーと大阪城。

ブルーアワーと大阪城。

西の丸公園から臨む大阪城と桜のライトアップ。

すっかり夜も更けてしまった大阪城。

すっかり夜も更けてしまった大阪城。

大阪城と月のコラボ写真も狙ってみたのだが難しい。月をハッキリ撮ろうとするとライトアップされている城でさえ暗くなる。つまり夜の満月はそれほどまでに明るい。城を写そうと思えば、満月が太陽のように輝いてしまう。

大阪城と月。

大阪城と月。

というわけで初めての大阪城。すぐ行ける場所にあるといつでも行けると踏んでなかなか行かない観光地。4年前に大坂の陣から400周年のイベントをやっていて記念のカードか何かを配っていて少し盛り上がっていた記憶がある。もう少し人の少ない時期に天守閣を訪れたいが、外国人観光客が爆発的に増えたから無理だろうか。