富士山本宮浅間大社 – まほろば探訪 第45回

富士山本宮浅間大社の大きな鳥居と、遠くに見える富士山。
富士山本宮浅間大社の大きな鳥居と、遠くに見える富士山。

新倉冨士浅間神社から見える富士山を堪能し尽くし、家に帰ることになった。どこか途中にもう一軒富士が見えるところに寄りたいと旅行の計画を立てたときに検索して出てきたのが、富士山本宮浅間大社だった。

どういう神社なのかは分からないが、神話の時代から続くとても由緒ある神社で、御朱印状を買ったときにパンフレットも貰ったから読んでおこうと思ったのだが、どこかにやってしまった。

最近はパワースポット巡りというのも流行っているそうで、この神社なんかもパワースポットの1つとしてあげられるのだろう。

富士急行の下吉田駅から大月駅に戻る。この駅の近くに武田信玄・勝頼親子の家臣である小山田信茂が居城、絶壁のような山にたつ岩殿山城の城址があると後から知ったので、途中下車してみておけば良かったかなとも思ったが、どちらにしても時間が許さない。終電までには帰らなければならない。しかし大月駅からも見えたそうだ。残念。

元来た道をぐるっと戻り、JR甲府駅で途中下車。身延線のワンマン電車が来るまで20分ほど時間があったので、改札を抜けて南口にある武田信玄像を写真に収める。

JR甲府駅南にある武田信玄像。
JR甲府駅南にある武田信玄像。

身延線は甲斐の山の中をぐんぐんと進んでいく。いかにも田舎らしい風景で、こういう場所で途中下車してみたいと思うものだが、一度降りると次の電車がいつ来るか分からない。広島の田舎に行ったときなどは日に電車が3本だったか4本だったか、それくらいしか来ないものだから油断は禁物だ。

途中温泉街などもあった。温泉にゆっくりつかって旅の疲れを癒やしたいとも思うが宿も取っていないし、今回はスルー。

3時間近くワンマン電車に揺られて、ようやく西富士見駅に辿り着く。到着間際に車窓から富士山が大きく見えた。街並みを従えて、最初は右側に大きく出現したかと思ったら、いつの間にか左側の車窓に行ってしまった。なんとも不思議なものだ。

西富士見駅から商店街を歩く。古い店舗が軒を連ねるが、道路は綺麗に舗装されており、古さと新しさがちぐはぐとしている。高価そうな五月人形のお店が幾つか見えた。しばらく歩いて角を曲がり、図書館の右側に鳥居がある。どうやら正面の入り口ではないらしい。

中に入ると桜はあらかた散ってしまっていて、観光客も乏しい。フランス語を話す女性と、ドイツ語を話す男性、英語を話す男性などがちらほらといた。とりあえずお参りを済ませて、御朱印状を貰う。

浅間大社の本殿。
浅間大社の本殿。
浅間大社の拝殿。
浅間大社の拝殿。
浅間大社の楼殿。
浅間大社の楼殿。

信玄桜というのもあるそうだが、散って緑の葉が生い茂っていた。どうやら完全に桜の時期を逃してしまったらしい。富士山もそう簡単には見えない。二軒だけ出ている屋台を通り抜けて正面の大きな鳥居まで戻ると、ようやく富士山が隅の方に見える。

静岡側から見る富士山は違った顔を見せる。
静岡側から見る富士山は違った顔を見せる。

葛飾北斎か歌川広重の浮世絵に確かこのような枯れたような雪の柄の富士山が描かれていた記憶がある。

戻って公園のある右手の方に行くと湧玉池に辿り着き、富士山が大きく見えるが、住宅などが被ってしまい上手く撮れない。

鳥居と富士。桜が満開ならきっと絵になったことだろう。
鳥居と富士。桜が満開ならきっと絵になったことだろう。

それにしても鳩が多い。結婚式の前撮りをしていたグループがいたが、鳩にたくさん囲まれていた。飛ぶときなど、人の顔の横すれすれを飛んでいく。なんとも人を舐めた鳩だ。

人慣れした鳩の群れが飛び交う空。背景が富士だとまた異なる趣がある。
人慣れした鳩の群れが飛び交う空。背景が富士だとまた異なる趣がある。

脇の方では湧玉池から溢れ出る富士山の水が神田川となり、水が轟々と勢いよく流れている。

富士山の湧き水が出る湧玉池から流れ出す神田川。
富士山の湧き水が出る湧玉池から流れ出す神田川。

この浅間大社に、織田信長が富士山見物の折に腰掛けた石があるそうだが、見つからなかった。時に西暦1582年(天正10年)、武田勝頼を滅ぼした織田信長は木曽路から甲府へと立ち寄った折に富士山を見物しようと、浅間大社にやって来たそうだ。その後信長は家康の領内に入り、希に見る歓待を受けて気をよくして安土に戻り、その返礼として家康を安土城に迎えるのだが、饗応役の明智光秀に対して信長が腐った鮒を出したと言いがかりをつけ饗応役を解き、ちょうど秀吉から毛利攻めの援軍要請がやって来たので、光秀の現領地を召し上げて、未だ敵国である出雲・石見の二国を「切り取り次第」とし、秀吉の麾下に着くよう命じたのだった。それがきっかけで本能寺の変が起こったという説が有力だが、当時家康は堺見物の最中だった。後の神君伊賀越えと呼ばれる逃避行により無事本国三河に辿り着く。その際、別行動を取った穴山梅雪(信君)は、家康と間違われたのか一揆勢に殺害されている。嫡男の勝千代が武田家当主につくが夭逝したため武田氏は断絶する。梅雪は武田家臣秋山氏の娘を自らの養女として家康の側室として差し出していたため、その間に生まれた五男の信吉に武田家の名跡を継がせた。

今回の旅行は甲州崩れ後の織田信長の富士山見物の行程をほぼなぞっている。木曽路を越え、甲府に入り、そこから身延線で富士山本宮浅間大社に立ち寄り、東海道線で神戸まで帰ったのだが、途中安土の前も通る。まさに織田信長が1582年(天正10年)に辿った足跡をなぞる旅だった事に後から気づいた。甲府からは本栖湖から朝霧高原の方を抜けたそうなので、おそらく国道139号線のルートを辿ったのだろうが。

バタバタとした二泊三日の旅行だったが、得るものが非常に多く、まだ富士山を見たことがなかった信長と同じような心持ちで富士山を見られて良かった。こうして歴史を追体験するのも面白い。また機会があれば、今度は木曽路や身延線の田舎町あたりをゆっくりと散策したいものだ。